第17話 硬雪 近道 雪路 Ⅱ
硬雪 近道 雪路 Ⅱ
故郷を思い慌ただしい日々が過ぎていた。
大学には、全国から映像制作・技術などを学ぶ青年が集っていた。
産業構造も映画全盛期からテレビ業界へシフトが始まっていた。
新産業としてのテレビ開局当初は映画関係者がその主流を占めていた。
特に技術部門は、映画界からの人材が多く撮影・照明・録音などは特にテレビ局では、重宝に扱われていた。
大学の指導教官も映画界の重鎮がその役割を果たしていた。
カメラ少年は、連日新しい刺激を求めて勉学に励んでいた。
アルバイト先の民間放送局も創業がラジオからのスタートでテレビ業務に関しては素人同然であった。
制作・企画・演出・放送記者などは、六大学からの文化系の採用も多く見られた。
技術系は、専門職となり売り手市場と言われ人気職種でもあった。
でも、現場では時間・労力・チームワークの戦いであり能力以外の潜在意識の放出を求められた。
頭で考えないで即実行が要求される世界でもある。
少年は、幼い頃より自分は農耕民族系では無く狩猟民族系と考えていたのでこの職業の選択に誤りはないと考えていた。
端的に業界は、文化系から運動系が使われる構図になっている。
この世界でも当初は学閥があり先輩・後輩の連携は見事なまでに業務をこなしていた。
映画業界も斜陽の時代に差し掛かり大学内でも選択する学生にも迷いが見られた。
そんな背景をテレビ局で観察していた少年は一つの提案を自分自身に投げかけた。
卒業して当面は、映画関係にて働くそして豊富な経験を積んでテレビ業界へ参入する計画である。
基礎は、当時のテレビ業界では皆無であり模索しているのが関の山であった。
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そんな季節に東京の短編映画会社に就職が出来た。
給与は高くは無かったが、技術の習得と考えれば高給に値すると思った。
記録映画製作では、日本の五傑に入っている会社である。
テーマも自然・動物と当初は難しい作品に先輩と取り組んで悪戦苦闘の日々を送った。
撮影で一番難しいのは、動物と子供と先輩から言われていた。
離れ島で何ヶ月も野生馬を撮影したり、青函トンネルの海底での撮影など少年は、助手として先輩の手足として活躍していた。
それは、フイルム時代でありモノクロからカラーへそしてシネマスコープ到来の時期である。
16ミリ・35ミリと技術力の増幅を身につけていた。
当時のテレビ局もモノクロ映像であり取材にはフイルムが使用されていた。
各局には、現像所があり作品・番組は全て自局でまかなっていた。
三年目の春
テレビ局に勤務していた先輩から就職の声が掛かった。
赤坂にある民間放送局である。
面接に向かう坂道を歩いていると若い外人女性から声が掛かった。
後で聞くと何と売春婦である。
「昼・夜 商売しているから気をつけろ」と先輩から助言が。
配属先は、報道である。
当時の報道マンは、人気職種でもあつた。
半年の研修の後、少年は一人前のムービカメラマンしとて自立した。
報道カメラマンとして活躍の場を得た少年は毎日都内を飛び回っていた。
後にロッキード事件で有罪判決を下された総理大臣の家にも取材で伺った。
元総理大臣は、庭の池で鯉に餌を与えて「遅いぞ」と一言。
確かに、車が停滞して5分の遅れをだしていた。
「すみません。取材時間を5分短くします。よろしくお願いします」
と少年。
鯉に餌をやりながらドテラ姿に下駄の総理「よろしい」
機嫌を取り戻して取材開始。
約束の時間も過ぎてしまい、30分も延長、書生が駆け出して来て「先生。遅れます」
と一言。
「よしゃ・よしゃ」
何とものどかな光景。
早速、昼刊用のネタとして全国放送。
北国の故郷には、電話もテレビも無いので少年の初仕事は、両親には見せられなかった。
その後、羽田沖全日空墜落・BOAC富士山麓墜落・水俣病事件・札幌冬季五輪・浅間山荘事件と現場に立ち続けた少年である。
それは、日本経済の発展途上であった。
テレビ報道マンのシステムは、新聞社と同じで警察廻りから始まる。
警視庁は基より都内の主な警察署を、事件を追って毎日毎日を廻るのである。
この仕来りが新人に与えられた責務でもある。
当然、放送記者も同行する複数スタッフによる取材体制である。
その後、年季が入ると各官庁(霞ヶ関)のクラブに配属される。
ベテランになると国会が最後の勤務になり上昇志向人間は、局に上がりデスクなどの管理業務が待っている。
少年は、DNNが狩猟系なのか現場主義を生涯貫き通した。
10年の歳月が流れて少年は故郷へ帰る事を決断した。
Uターンの流行でもある。
東京は、大都市でありビジネスの世界を形成するには良い環境でもある。
しかし、人間性を追及するとどうしてもそこには、大きな川が流れていた。
その川に飲み込まれる前に、自然豊な・心の余裕がある故郷へ帰りたいと考えていた。
赤坂の系列局がある札幌へとシフトを思い立った。
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四谷のさくら並木道が満開の時期に札幌から連絡が入った。
「当面、勤務は契約だがやってみるかい」と先輩から電話があつた。
札幌も今年は新規採用を大幅に増やしたために枠は無かった。
しかし、そこは先輩「優秀な人間を採らないと末代まで付けが回る」と上司を半ば脅したそうである。
契約であろうが、正規社員であろうが、仕事は互角。
再び報道畑の路を歩む事となる。
東京時代に培って来た事に、「悪は滅びる」との格言である。
報道マンとしての正義感を自ら植えつけた少年には怖いものは、何も存在しないのである。
暴力団の資金源として麻薬密売がある。
それらをニュース番組としてレギュラー化したのも少年である。
単発物は、社内でも担当するスタッフも多いが、長期での取材にはしり込みする部員も大勢いた。
真実の報道は、表と裏を同時進行させないと視聴者には、真の説得は不可能である。
そのために、警察・麻取(麻薬取締官事務所)と綿密にアポを取らないとならない。
裏取取材には、暴力団員から真実の話を聞かなければならない。
かなりの危険要素が含んでいる。
組織を守る組員は絶対に真実を語ってはくれない。
その突破口を見つけ出す努力も報道マンとしての責務でもある。
青少年が麻薬で滅びていく姿は幾度も見てきた。
ほんの一部であるが更正する青少年もいるが、ほとんどは再び悪の道へと舞い戻る。
東北以北、最大の組織暴力団組長に直接アポを取ってみた。
社内では、危険との判断で取材を中止したらとの意見もあった。
しかし、内部の反対を押し切って組長インタビューが実現した。
警察も驚いた様だ。
悪の本丸は市内一等地にあった。
組員が数名取り囲む中、総長事務室に案内された。
指の無い男が番茶を運んできた。
「俺も長い間男をやっているが、テレビは初めてだ。何でも聞いてくれ」
麻薬の密売に関しての質問には、「俺も子供がいる。若い者には薬は売るなと厳命している。しかし、奴らも上納金を稼がないとならない、金がないと組では誰も相手にしない。それが現状だ」
組長としての面子はたったのか、いたって上機嫌な表情になった。
この取材の一部終止は放送されたが、社内では組長の顔を出すことには反対する者も多かった。
暴力団の宣伝に繋がる可能性があるとの判断である。
最終決定は、顔無しで放送と決定された。
当の組長から電話があり「放送を見たが、なぜ顔を出さなかったか、あれでは組員と同じだ」と不平を述べていた。
この二年後、組長は内部抗争に巻き込まれて白昼市内の繁華街で射殺された。
まだ携帯電話など無い時代でポケベルがその主力を務めていた。
生々しい(事件物)取材に入ると寝る暇もない。
家庭は何時も母子家庭である。
そんな事件屋をやっていると警察・麻取・暴力団にも一目置かれる様になる。
街で目線挨拶を交わすと警察かと思えた男が暴力団員だったり。
その反対だったりと、毎日が普通のサラリーマンの三倍程で時間が回転していた。
殺人事件の容疑者逮捕誘導に随分と警察にも協力した。
小さい特ダネは、毎月頂いていた。
その頃は、局内・系列局では毎月特ダネ賞を活躍する記者・カメラマンに贈っていた。
賞金は1万円と記憶しているが仲間と祝い酒を飲みに行くと持ち出しになるのが、ほとんどである。
しかし、大特ダネとなると賞金も格段と高くなり30-50万円にもなる。
こうなると情報は、自ら飛び込んでくる。
大特ダネの予感するネタが舞い込んできた。
北海道の漁師が、国交無い北朝鮮に漁船を密輸出したとの情報である。
このネタは、暴力団の組長からリークされた。
反対勢力の力を削ぐ為の手段と後にこの組長は語った。
二年半の取材の幕が切って落とされた。
局内でも二人しか知らない内密行動である。
一人は、入社同期の男であり一人はデスクを勤めていた。
内密取材となると時間は基より予算も何もOである。
絶えず私用での行動となる、当初は軽い気持ちでいたが時間の経過と共に重圧感が増していた。
それでも、一つ一つ確認取材を繰り返して大きな収穫を得る事が出来た。
新聞記者諸君は、記事と写真で体裁が可能の仕事であるが、テレビは映像が無いと話にもならない。
内密取材にカメラを持参しては他社は勿論内輪でも不思議がられる。
それを可能にした手法は、少年が自ら編み出した二足取材である。
正式に取材を行い内密取材も平行して行う点である。
密輸出された船舶はすでに日本にはないのである。
元の船主に、「北洋で活躍した漁船の取材をしたい」と申し入れて写真を入手するのである。
社内も説得しやすくて年末報道で放送すると理由をつけると予算も時間も多少は与えられる。
この手法を編み出してから内密取材は大きく進展した。
三人の男の約束も守られ何よりも人事異動がなかった事が良かった。
内密取材テープは、決して編集デスク・編集マンにも分からない場所に厳重に保管をしていた。
在るとき正規取材の素材(テープ)に内密取材の素材が紛れ込んだ。
その時の編集は、口のうるさい編集ウーマンである。
平時ニュース用にわけの判らない素材があるから大変である。
プロとして女史は、色々と質問をしてくる。
「この画はどこに使うの?どうしてこんな画があるの?時間が無い」
少年は、これは貯金用で将来活きるからとわけの判らない返答をして紛らわす。
それが精一杯の回答であった。
不審にも感じない女史は刻々と追ってくるオンウァーを気にして黙々と編集作業を続けた。
当然、大特ダネの編集は彼女が担当した。
北朝鮮の当事者に国際電話で日本漁船の(輸入)密輸入の現実を聞き出した。
これが、突破口となり一気に取材は大きく展開した。
密貿易の実態が闇から浮上した瞬間でもあった。
外貨為替法違反容疑で漁船の船主、北朝鮮に運んだ主犯らが海上保安庁に身柄を拘束された。
容疑者の身柄拘束までの間に内密取材班は、主犯らのインタビューを終えていた。
此の時、初めて少年は嘘を言って容疑者を誘き出した。
台湾から漁船を買いに来ているブローカーと称して面談に挑んでいた。
相手も恐持ての暴力団員であり緊張した会話が続いた。
密輸入までの経緯・相手国の会社・担当者名・北海道から北朝鮮までの輸送ルート・帰国時での手段 等々、延々二時間に及んだ会話内容は、我々が到底知らないもので驚きに満たものであった。
全ては、録音されて別撮りの映像と共に放送された。
疑いも抱かない容疑者は、是非漁船を買ってくれと最後に言った。
この取材内容は、逐次、全て放送され関係機関は慌てふためいていた。
三人は少し焦っていた、容疑の事実が裏付けされたが、時効も追っていた。
地検・海保にハッパをかけて時効は未然に防げた。
国交にない北朝鮮との戦後初の密貿易事件は、世界に大きなインパクトを与えた。
事件担当記者クラブでは、蜂の巣を突付いた騒ぎになっていたと同僚が後に語ってくれた。
その後、三人の記者は道東の露天風呂でゆっくりと夜空を仰いでいた。
世界を駆け巡った特ダネは、大きなプレゼント「賞金・休暇」を与えてくれた。
少年は、長い休暇をとり10年振りに仕事から解放された。
母子家庭から普通の家庭へ変身した瞬間でもあった。
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北海道にも再び同じ季節が到来していた。
・余談・
少年と当局の担当者が一献傾けて美酒を深く味わった。
地検・海保の事件担当者は次の年には、栄転して三階級も特進していた。
容疑者は有罪となり六年の務めを果たして海外で貿易の仕事に付いていたが、自宅で強盗事件に巻き込まれて殺された。
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