第16話 硬雪 近道 雪路 青年期
硬雪 近道 雪路
北国の春も未だ雪である、本州などでは、さくらの便りも聞こえてくる。
遅い春は、雪原に新たなる路が出来る。
この路の開通式は、毎日新聞少年が行っている。
昼間暖気で溶けた雪面が夜間の到来で急速に冷えて雪原は、立派な強度を持っ簡易道路である。
吹雪の日には、その雪原を雪が降り積もって前日の路が見えなくなる。
そんな雪を両足で漕分けて人一人が通る路が完成する。
通学児童がその完成した路を再び歩き強度を増した路になる。
その後、通勤の大人たちはその安定した路を利用する。
年老いた人々は買い物や病院への足掛かりとして重宝される。
毎年、この時期に行われていた新道路の開設と開通は子供心の遊びから始まっていた。
中には、この路には大きな落とし穴も作られた。
被害者が出たためしは無い。
硬雪・近道・雪路
春には、新入生の教科書などの購入にも一役買っていた。
又、卒業生らもこの近道を使い父兄と共に帰路に着いていた。
交通手段の一番は、馬橇の運行であったが業務用で使われて住民の利用は、ほとんどなかった。
こんな時期に、隣の空家に母親と姉妹が入居して来た。
新聞少年の住んでいるのは、田舎であり都会の街までは、この近道を利用しても徒歩と列車に揺られて二時間は優位に掛かった。
姉妹は入学式のため新調した女学校の制服に身をまとい母親と共に都会へ出かけた。
通学するには、駅まで歩いて30分、列車で1時間程と通学の往復時間は三時間も費やした。
それでも近道は、大変に便利な住民の足元である。
新聞少年は、地元の中学生に通い朝夕新聞配達をしていた。
アルバイトで稼いだ金は、当時流行のカメラを買いたいとの思いがあった。
毎日、10軒程の家に新聞を配達するのだが如何せん区域範囲がひろいのであった。
隣から隣の家まで2キロもあるから10軒配達を終えるには二時間程も掛かった。
少年は、このアルバイトを二年間続けた。
朝五時に自宅を出て配達が終わると通学が待っていた。
一度だけ感冒に罹り休んだ時があったが、父親がその代役を務めてくれた。
そして念願のカメラを手に入れたのである。
フイルムの購入と現像は、近くの高校の写真部顧問が少年の家の一室を借りて現像室にしていた。
そんか関係からモノクロであったが現像技術もその顧問から教わっていた。
少年の世界は、果てしなく拡がってもいた。
隣の姉妹も通学時間が長いために朝七時には出て帰宅は夕方六時から遅い時には七時頃までには帰宅していた。
二人とも名門校の制服に身を包み新しい皮鞄を手に休まずに通学していた。
少年は、隣の家の姉妹に興味を抱いていた。
都会的なセンスと少し清ました清純な仕草に刺激を受けていた。
二人とも美人に属して近所でも評判の良い姉妹であった。
母親は近くの高校職員として勤務していた。
母子家庭であつたその親子は、とても仲が良くて挨拶すると明るい返事が返ってきた。
少年は、配達で余った新聞を毎日、一部その家の玄関に投函していた。
余った新聞とは、配達の包装用として使用した新聞である。
明るい返事もその様な理由かも知れないと少年は思った。
でも、隣の姉妹に関心があったのは、思春期だったのか今も疑問である。
「どうして名門校にこんな田舎から通学させるのか」母子家庭であり学校の職員と言っても高給取には、見えないのであり不思議でもあった。
親に聞こうかとも考えたが実行しなかった。
姉妹は、年子であり一見すると双子とも思えた。
美人姉妹の噂は次第に小さな町の話題になっていた。
少年の同級生なども「お前の隣に美人姉妹がいるそうだな。一度見たいので逢わせてくれ」などと遠慮ない問いがある。
「隣でも顔も余り見たこと無い」と返答すると「お前だけ楽しんで俺たちには逢わせたくないんだ」と意地悪な発言をする。
少年は、朝早く自宅を出て駅まで新聞を取りに行く。
吹雪の日には、ことさら元気が湧いてくる「お姉さんたちがこの路を歩く」
姉妹の事を少年は「お姉さん」と呼んでいた。
自分より三歳・四歳しか違わないが、大人の雰囲気があった。
当時の高校生は、大人の雰囲気を醸し出していたし大学生はすでに大人なんだと少年は考えていた。
少年には、妹が一人いてが、以前から姉が欲しいと考えていた。
そんな時期と姉妹の引越しが重なって「姉」への意識が重複した感があった。
女の子が「兄」を欲しがるのとは反対の心境である。
夕方には、ラジオから連続ドラマの「赤胴鈴之介」が、放送されていて子供たちの人気を博していた。
その時間になると子供は帰路につき五球スーパーラジオに耳を傾けていた。
ドラマの内容は、次の日学校で話題にもなり続きを予想して「外れた・当たった」と喜んだり、落胆したり、での生活をエンジョイしていた。
少年用雑誌では、冒険王・少年がその独断場であり一冊100円の本を仲間で廻し読みが流行っていた。
雪融けが進むとニシン売りが、近道をソリを引いて各家庭を回っていた。
父親が近くの森で採取した山わさびを七輪で焼いてニシンを食べるのが風習でもあった。
男の子は、この七輪の火を絶やさずにするのが役割でもある。
夕飯時は、何処の家でも丸いテーブルに家族が集い食卓を囲むのが、慣わしであった。
一家の財産と言えば、ラジオ・蓄音機・自転車・柱時計・ぐらいなものでテレビ・洗濯機・冷蔵庫・電話・乗用車などの普及は、まだ後々の事である。
硬雪 近道 雪路が、何時までも続いて欲しいと考えていた。
それは、少年にとって路作りが姉妹への最大の贈り物であるから。
今は、その近道も住宅街になり面影もない。
二辺の道路を通らずに一辺を歩くのだから時間的にも大変便利である。
行商のおばさんもソリを引いて乾物・魚などを運んでいた。
夕方の帰宅時間に、偶然会ったお隣のお姉さん達とこの近道を一緒に歩いた。
先頭は、当然少年である距離にしてこの近道は500メートル程。
中間地点で少年が「ジョン」と呼ぶと愛犬が迎えに来た。
姉妹は、何も語らない黙々と今朝開通した近道を少年の後を歩く。
小雪が舞って来た。
その時勢の流行犬は、スビッであり少年雑誌などの懸賞で賞品としてスピッも登場していた。
少年の愛犬は、白い雑種で尾を振って主人に愛嬌を振りまいている。
「ジョン・ジョン可愛いね」と姉妹の妹が語りかけた。
「家では犬が飼えないのだからインコを飼っているの」と姉が続けて語る。
初めての会話に少年は目の前が白くなり、心臓が飛び出すかと心配になった。
ジョンが妹に抱かれているそして姉は頭を撫でている。
羨ましいと少年は思いジョンに嫉妬を感じた。
「今度インコを見に来て・・・」と姉が言う。
「・・・ハイ」喉が渇いて言葉にならない。
少年は、その夜なかなか眠りに就けなかった。
初めて姉妹が自宅に招待してくれた。
「どんな話をしたら良いのか・学校の事 友達の事 ・・・」
不安と期待で胸が大きく鼓動していた。
雪融けと共に近道はなくなる、再び二辺の道を歩くことになる。
そのために少年は、春の訪れと同時に元気がなくなる。
この年、イタリア・コルチナダンペッオで開催された冬季五輪で猪谷千春
が回転競技で初の銀メダルを取っていた。
戦後、朝鮮動乱で国内は内需拡大で好景気に沸いていた。
桜庭家の転居は、意外と早くやってきた。
次年の春は、少年も高校進学もあり新聞配達は辞めていた。
待望のカメラを手に風景や隣の姉妹を撮影などして試験勉強など手に着かなかった。
妹から写真を撮ってくれとせがまれたが、フイルム代と現像代が高いと理屈を述べて断ってもいた。
でも、隣の姉妹には快く撮影をしては喜ばれていた。
少年は、将来撮影関係の仕事に就きたいと考えていた。
新聞少年からカメラ少年に変身した瞬間であったと共に異性を意識した時でもある。
少年の家は、日本でも有数な酪農・農業関連の学校敷地内にあった。
専門高校もあり全国から酪農・農業を志す若者が集っていた。
全学寮制であり春休み・夏・冬間の休み以外は、高校生の学びの園である。
夕方近くになるとその生徒たちが街に買い物に出掛ける姿も多く見られた。
元気の良い応援団員などは、桜庭姉妹の家を見渡せる道路に並んで内部を伺うなど不審な行動を起こす者もいた。
桜庭家の抗議で高校の担任が駆けつけて解散させた事も多々あった。
電話は、申請してから二年も待たされる状況が長く続いていた。
電話は家の財産であり加入時で10数万円もした。
笑い話みたいな話もある「ある家が火事になり逃げる時に受話器を持って・・」など実話でもあった。
普段の姉妹は、ほとんど外出はせず「勉強に明け暮れていた」と推測する。
冬の休日には、まぶしい制服が洗濯されて乾かされていた。
当事も今も女学生の名門校としてその学校は存続している。
当時としては、私立高校に入学するには、家が相当な資産家と限られていた。
平均的には、公立高校への進学が一般的であった。
貧乏人は、公立へ。裕福層は、私立へ。
母子家庭・名門校・美人姉妹・どれをとっても少年にとって不思議な事だらけであった。
そんな雪解けのある日突然に桜庭家が移転した。
一度も自宅を訪ねた事もなく、そしてインコを見る事もなく。
後々の話では、母親が再婚して札幌に住んでいるとの事であった。
少年の環境は、父親は学園で林学の教師を務めていた。
カメラ少年も都会の男子名門校を希望していたが、経済・成績の両面から無理と判断してあきらめていた。
春休みの間、近くの牧場に東京からロケ隊がやってきた。
少年は、早朝から夕方までそのロケ隊の一部終始を脳裏に焼き付けた。
将来、カメラを勉強して是非、ロケ隊の一員になる夢を見出していた。
助監督と思われる男が、ブリキ缶に穴を開けた即席暖房器具を大きく回して役者の足元に置いて廻っている。
カメラマンが丸いファインダを覗いてキメラポジョンを的確に決めていく。
大きなカメラが四人の助手によって運ばれ三脚にセットされる。
監督がカメラマンと何やら打ち合わせをしている。
メガホンを持った助監督が「スタンバイ」と役者やスタッフに声をかける。
少年は、牧柵に両腕を組、その上に顔を乗せてその光景を真剣に見ていた。
役者がカクマキを着て歩き出す。
遠くには、その画面の背景である馬橇がのどかに雪原を駆ける。
「本番参ります」
「ハイ・スタート」と中年監督が優しく声を上げた。
糸で繋がっているかのごとく全体が見事な構図を創り上げていく。
素晴らしい世界 と少年には写つた。
「これだ!この世界だ!」将来の自分の姿が重複した。
「OKです・お疲れ様でした」助監督の生気ある声が牧場に響いた。
その後、少年は二・三日間、勉強も遊びも手に就かなかった。
映画全盛期の時期に見た業界見学は、少年に大きな夢と希望を与えていた。
中学の担任にその話をしてみたが、返答はなかった。
高校進学の年も硬雪・近道・雪道が完成していた。
新しい新聞少年が開通させていたものである。
カメラ少年は、普通高校への進学はあきらめて昼間アルバイト・夜間の定時制高校に通う事にした。
金を貯めて東京の専門大学への進学を目指していた。
アルバイト先は、郵政省の物資配給センターであつた。
ここでは、本庁から送られてくる「葉書・切手・ポスト・職員制服 等等さまざまな物資」の仕分けや道内地域への発送業務である。
年に数回、北海道を地域に分けられた特定郵便局へ赤い車両に便乗しての配達業務があった。
その時は、配達先の郵便局から食事の差し入れがあり美味しい弁当にもありつけた。
又、各地を見物できる事も大きな収穫であった。
何よりも職員から大切に扱われたカメラ少年は勤労意欲も増していた。
定時制高校もセンターから近くにあり大変便利な環境でもあった。
アルバイトと言っても当時は臨時職員並みの待遇であり、年間ボーナスも支給された。
三年間の勤労と勉学で少年は方向転換を図る。
映画技術の取得は、北海道では皆無なのである。
テレビの登場で映像に関しては、少しは世間から認知されつつあった。
その日も硬雪・近道・雪道 を母親と妹に送られて歩いた少年は、次の夢を実現するために旅たちを計った。
特急「おおぞら」が一番線に入線する頃には、少年の家族そしてアルバイト先の先輩ら同級生らが見送りに訪れていた。
「カメラ小僧万歳」とアルバイト先の先輩がホームで両手を挙げて大声で叫んだ。
見送り人もそしてホームの人たちも釣られて「万歳」を三唱していた。
微笑ましい光景にホームは、笑顔が満ちていた。
少年は、照れくさくはなかった「俺の事を本当に思ってくれている。絶対に成功させてやる」と心に誓い列車に乗り込んだ。
札幌の夜景とネオンが車窓を流れていた。
そして、札幌に移転したあの桜庭姉妹の事も脳裏をかすめていた。
大都会・東京での生活も二足のワラジからの出発であつた。
当初の住まいは、飯田橋と新宿の中間にある江戸川橋である。
上野駅までチッキ(鉄道荷役)を取りにいきTAXで新天地へ向かう。
その新天地は、川の辺に建つ古びた写真スタジオである、ここの二階に住む事になった。
スタジオの夜間管理をする事で家賃も格安にしてもらった。
都内は、地下鉄工事の最盛期でどこの道路も停滞していた。
昼間は映像関連大学に通い夜は放送局の報道アシスタントを勤めて生計を維持した。
東京にも春が訪れてさくらが開花している。
北海道の開花より一月も早いさくらであった。
すでに大都会は、乗用車を持つサラリーマンやテレビ・冷蔵庫・電話などもすでに普及していた。
故郷では、硬雪・近道・雪路 を今日も歩いている人たちがいる。
タバコも酒も丸々も経験していないカメラ少年の波乱万丈・人生の一歩が始まった。
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