7


 なんと三時半になる頃には、いよいよキャベツが全てなくなった。麺もほとんどないし、ベーコンや調味料も同じく。


 三時半。文化祭がだいたい六時までなので、今から買い足して無理やり営業する必要もあるまい。


 ということで、視聴覚室のドアに『完売しました!』、と。貼り紙をして、


「みんな! おつかれ!」


 と。僕は思いっきり声を出した。


 久しぶりに大きな声を出したけれど、恥じらいはない。清々しい気分だ。


 達成感。圧倒的な達成感。


 しかしこの達成感は、僕一人では得られないもので——僕だけだったら、知ることが出来なかった喜びだろう。


 みんなが居たから——みんなが居るから。


 無鳥が居て、矢面が居て。


 そしてフウチが居てくれたから——僕はこの喜びを、達成感を、得ることが出来た。


「…………サンキュー」


 小さな声で。本当に小さな声で。囁きとも言えないくらい、誰の耳にも届かない音量で、僕はこっそりと呟いた。


「とりあえず! せっかくだしさ! みんなで一枚いっとく?」


 無鳥がスマホを構えて言った。


「わーい! じゃあぼく、無鳥先輩と隣が良いですー!」


「良いよー仁尾におちゃん。ふふふ。自撮り棒を持ってるから、バッチリだよ!」


「さっすが無鳥先輩ですう!」


「無鳥、さすがだな……」


 思わず僕も言っていた。自然と。口が滑ったわけではないけど、口が軽くなっているのかもしれない。


「珍しいー! 詩色があたしを褒めたよ。中学から付き合いあるけど、ひょっとして初じゃない?」


「うっせ……。たまには良いだろ……」


「素直じゃないなあ!」


 僕をからかう親友。まあ、今日はそれも良いさ。


 そんなこと、今の僕を支配する喜びに比べたら、とても些細なことだからな。


「じゃあ、フーちゃん、詩色の横ね?」


『う、うん……』


「あたしと仁尾ちゃんは、二人の前で中腰」


「はいですー!」


「ほら、詩色とフーちゃん。もっと寄ってよ。自撮り棒なんだから、もっとくっつかないと顔切れちゃうよ?」


「お、おう……」


 ドキドキする。僕の顔のほんの数センチ横に、フウチの小さな頭があることで、僕はドキドキを隠せない。


 頬が触れそうな距離——こんなに近いのに、遠く感じるのはなぜだろうか。すぐ隣に居るのに、でもどこか遠く感じる。


 もっと、近くに居たい。


 もっともっと……そばで。


「……っ!」


 僕がこっそりと、もっと近くに居たいと思っていると、カメラに映らない場所で、僕とフウチしか見えない場所で——震えるフウチの手が、僕の手をそっと握った。


 とても暖かい手のひらの温度。初めて知ったフウチの手のひらは、とても小さくて、でも優しい暖かさで——柔らかくて。


 握られた手のひらから、僕の温度も伝わっているのだろうか? それはわからないけれど、僕もそっと握られた手のひらを握った。手汗とかたぶんすごいかもしれない。だけど、どうでもいい——と。


 離したくなかった。


 横目でフウチの目を見ると、僕の視線に気づき、恥ずかしそうに、笑った。


 その笑顔につられて、僕も自然と頬が緩む。


 こんなにも自然に笑ったことは、生まれて初めてのことだろう。言うならば優しい笑顔——てんで僕には似合わない言葉だけれど、今の感覚はそうとしか言えない。


「じゃあ撮るよー? いえーい!」


 カシャ——と。自撮り棒を操作した無鳥のスマホ画面が止まった。まるで僕たちの時間を切り取ったかのように、ピタッと。停止した。


 だが、止まったのは画面だけ——当然ながら、本当に僕たちの時間が止まることはない。


 写真を撮り終え、無鳥が自撮り棒を下ろすと同時に、僕たちは手を離した。ほぼ同時に。


 照れすぎて、フウチを見れない。


 離した手のひらに、温もりが残っている。


 フウチも僕に背を向けている。その背中を見るだけで、僕は胸が苦しくなる。だが不思議なのは、苦しさはあるのに、不快感はない。むしろ心地よくすら感じる。心が喜びを表現しているかのように騒いでいるのに、うるさくない。もっと感じていたい。ずっと感じていたい。大袈裟かもしれないけれど、しかし永遠に——と、願ってしまうほどに。


 心から。


「まだ時間あるし、仁尾ちゃん! 他のお店とか見に行かない?」


「いきまーす! すぐいきまーす!」


「よーしいくぜえ!」


 と。少しだけ距離が縮まった僕たちを残して、無鳥と矢面は文化祭を満喫するため、急いで出て行った。


「なあ……フウチ」


 僕は、少し声が震えながら、フウチを呼ぶ。


『なあに? 詩色くん?』


 振り向いたフウチは、タブレットを向けた。僕の目を見たり、視線を外したり——と。ちょっと慌てているかのように、目を泳がせながら、赤く染まった頬ではにかみ、僕にタブレットを向けてくる。


「ありがとうな」


『……え? どうして?』


「フウチが居なかったら、僕は今日の楽しみを知らないで過ごしていたよ。だから、ありがとう」


 居てくれて、ありがとう——と。


 僕は、お礼を言った。呟くくらいの音量だったけれど、込めた感謝のボリュームは、僕の声量ではとても表現し切れない。


『詩色くん……あのね?』


「なんだ?」


『あの……ね。あの……』


 なにか言いたいのだろうけれど、言いにくいことなのだろうか?


 じゃあたまには、僕から言いたいことを、素直に言ってしまおうか。僕の意思で、素直に。


「あのさ、フウチ」


 僕は言った。なかなか続きを書けない(?)フウチを呼び、そのまま続けた。


「この衣装で、写真撮るって約束だったよな」


 偉そうな口調だな、僕。我ながら。


 だけど、こんな感じで誤魔化さなければ、もはや雰囲気に流されて、言ってしまいそうだったのだ。


 雰囲気に流されて——好きだ、って。大好きだ、って。


 この気持ちは、雰囲気に流されて言いたくなかった。大切で愛しいこの気持ちは、僕が伝えたいと心から感じたその時に、わがままだけれど、そんな時に——伝えたいのだ。


 初めての大好きを言うタイミングくらい、僕のタイミングで言いたい。流されて言って、後悔をしたくない。後悔をするなら、僕のタイミングで言いたい。


 後悔をするのかわからないが、必ずしも成功する告白だと思えるほど、僕はポジティブじゃあない。


 ネガティブもネガティブ。マイナス思考にかたむきまくっている。我ながら情けないと言わざるを得ないが、ヘタレも極まっているよ。本当に。


 僕がそんな胸の内を秘めていると、フウチは僕のそばに、てくてくと。ゆっくりと。小さな歩幅で、でもしっかりと。僕の方へ。


 そのまま僕の胸に、こつん——と。頭を預けた。


『今私、顔赤くなってると思うから、少し休憩……しよ?』


 そう書いたタブレットを向けて、でも頭は僕の胸に置いたまま。


「了解だよ」


 同意の返事をして、僕はフウチの頭に手を乗せた。


 いつもなら、撫でる。頭を撫でることが、僕に出来る精一杯のことだった。


 あるいはこれこそ雰囲気に流された結果なのかもしれない——僕は、フウチの頭に置いた手を、ゆっくりと後頭部に添えて。


 そのまま、ドキドキしている自分の胸に、小さな頭をそっと抱きしめた。


 抱きしめた——そう呼ぶには、いささか弱いチカラだったのかもしれない。が、僕にしては、頑張った方だろう。


『うう……顔赤いままになっちゃうの……』


「だよな。僕もだと思う。悪い」


『あう……いいよ……許す』


「じゃあ、もう少し……良いか?」


『…………許す』


 僕みたいな人間が、こんな可愛い美少女の頭を、今度はもっと頑張って、両手で。


 でもやっぱりチカラは弱々しく。


 それでもしっかりと。この心臓の音を自慢するかのように——メロディを聴かせるつもりで。


 ドキドキを伝えたくて。僕の音を——聴いて欲しくて。


 だから僕は、弱々しくも両手を使って、フウチの頭を抱きしめた。そっと後頭部を撫でながら、抱きしめた。


 今日という日を、僕は一生忘れない。


 勇気を出した記念日だ。カレンダーに丸をつけて、一生大切な日にする——と。僕は誓った。


 心に。魂に。記憶に。身体に。全身に。


 僕という人間に。葉沼詩色という人間に。


 僕を構成する、すべての細胞ひとつひとつに——誓った。忘れるかよ。絶対に。


 こんな大切な日、こんなにもドキドキしている瞬間をなにがあっても、絶対に——忘れるかよ。忘れられるかよ、と。


 フウチの温もりを感じながら、僕は思いを誓った。思いを——想いを。大切な僕のこえを。


 今はまだ——秘めた恋心ことばを、隠したまま。

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