第8話

 暗い、教室。身体中が痛い。頭もくらくらして、とても気持ち悪い。私は……私は、何だっけ? えぇと……私は、有子。高校二年生で、放課後に……忘れ物? そう、確か、忘れ物を取りに、学校に帰って……?

 それから……そう、倒れた。目の前が真っ暗になって、でもそれはこんな教室だったっけ? 誰かに会った気もする……先生? 友達? ダメだ、まだ頭がぼうっとしていて、よくわからない。


「……えぇと」


 けほ、こほ、と咳き込む。喉に何かがつかえたような。それでも声が出たことにほっとした。そうっと立ち上がると、右の足首が痛かった。

 窓から外を見ると、目を刺す光。何も見えない……夕方、ならまだそんなに時間は経っていない? いつから……そんなことよりも、ここから出なきゃいけない。

 右足を庇いながら教室を出れば、黒と橙で切り取られたような廊下。その向こう側から、こつこつと足音がする。私は、その足音から遠ざかるために歩き出す。

 途中、半開きになっていたロッカーを見つけて潜り込んだ。息を殺して、隙間から外を覗く。こつこつ、こつこつ。近づいてきた足音、見えたのは、紙袋をかぶって、手には血塗れのチェーンソーを持った大男。

 小さな呻き声、ふらり、ゆらり、揺れる頭。その大男は、私が隠れているロッカーを通り過ぎて、そのまま立ち去っていった。念のために、もうしばらくそのままでいたけれど、戻ってくる気配もなかったから外に出る。

 ……あれ? 何かおかしい? いや、おかしくない……? 私はロッカーから出て、大男が来た方へ向かう。だって、あちらから来たなら、しばらくはこちらには来ない……そうよね? 何もおかしくなんてない。

 ふと見上げれば、『家庭科室』と書かれたプレートが下がっていた。教室を覗けるはずの窓は、曇っていてよく見えない。鍵はかかっているのかしら、と扉に手をかけようとしたその時。


『ねぇ、キミは誰?』


 開こうとしていたその扉の向こう側から声がした。中高生くらいの、男の子の声。私は、扉に触れていた手を引いて、小さく息を吸った。


「貴方こそ誰?」

『ボク? ボクはねぇ、カイだよ! ここで死んじゃったから、ここから出られないんだ!』


 そう、あっけらかんと語る男の子――カイ君。曇っていたはずの窓から見えたのは、にこにこと無邪気に笑っている顔。学ランの襟には校章らしきバッジがあるけれど、見覚えのないものだ。

 いや、それよりも。彼は、死んじゃったと言った。目を凝らして見れば、確かに、彼のその姿は半透明で。私は、じり、と一歩後ずさった。


『あ、あ! ダメ! 怖がらないで、ボク、ここから出られないから! 本当だよ、久し振りに生きてるヒトが来たから、お話ししたいだけなんだ!』


 それを見ていたカイ君は、一転泣き出しそうな顔をして私にすがる。出られない、の言葉が真実かどうかは判らないけれど、その表情に嘘はないように見える。


『お願い、ちょっとお話ししたいだけなんだ! あ、そうだ! ボクはここから出られないけど、ここのことを教えてあげられるよ! 死ぬ前はボクもここから出ようと頑張ってたから!』

「……ここのこと?」

『そう! ボク、色んなことを知ってるよ! 教えてあげる!』


 私が一言返すと、ぱっ、と嬉しそうに笑ってそう返してきた。迷いは一瞬、ここから出る手がかりになるのなら――。


「……それなら、教えてくれる?」

『うん!』



 カイ君は、同級生三人と一緒にこの学校に閉じ込められていたらしい。一人はどこかの非常口に仕掛けてあった罠にかかって、もう一人はプールのフェンスを乗り越えようとしてバラバラになって死んだのだと言う。

 なるほど、外に出られると飛びつけば即死。私も今以上に慎重にならなければならない。カイ君の話を頭に刻み込んで、今後の方針を考える。

 非常口から出れないのならば、やはり正面玄関か。一階には何があっただろう……保健室、職員室、校長室? 先生たちがいる場所が多いというイメージがある。

 そうして考え込んでいたら、こつこつ、とガラスを叩く音。顔を上げれば、カイ君が窓をノックしていた。


「どうしたの?」

『話の途中で急に具合が悪くなったみたいだから……大丈夫? あ、もしかしておなかがすいてる?』

「ごめんなさい、ちょっと考え事をしていたの。お腹は空いてないわ」

『そっかぁ』


 残念そうに……残念そうに? 今の会話の中に、カイ君が残念がる所があっただろうか。訝しく思い、それを疑問として口に出そうとしたその瞬間だった。


『でもだいじょうぶだよ、もうおなかがすくことなんてないんだから』


 一拍、遅ければ――家庭科室の窓をすり抜けて伸ばされた無数の手に捕まっていただろう。自分でも何故避けられたのかが解らない。だん、と引いた左足が大きな音を立てた。


『どうして!? どうしてにげるの!? やだ、やだ、いっしょにいてよ、ここにきてよぉお!!』


 踏み出した右足に激痛。踏み込み、出来る限り窓から離れて走り出す。


『やだぁあ!! 『■■■』ェ!! ぼくのえものがにげちゃうよぉお!!』


 伸びる手から逃れながら、走る、走る、走る。アレは家庭科室から出られないと言っていた、なら、家庭科室から離れられれば。そう思い、見据えた先、目に映った『男』。刹那、全身がかっと熱くなる。憎い、殺してやる、お前が、お前が、お前さえ、お前こそが!!


『……あぁ? お前、何で生きて……』


 そんな、怒りに任せて――走った勢いそのままに、触れた、鋭利な糸が、手を、足を、身体中を、きり、きざ、んで



『クモノイト』了



「恐怖心の欠落は警戒心の欠如と同義である」



『女王へ捧ぐ惨歌、その一』

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