雷獣

 岩をかけ下りる。振りほどかれないように強く神楽の手をつかんだままだ。何度か滑った気もするがよく覚えていない。高いところから逃げるのに精一杯で、岩でこすった傷の痛みも感じない。


「こっちよ! 早くっ!」


 タエに導かれて岩から離れる。


「高いものの真下も危ないの。ふたりともしゃがんで!」


 三人は近くに岩がひとつもない場所にひざを抱えてしゃがみこんだ。なにかに隠れられないのは心もとない。


「こんなところで平気なの?」


 不安げな小夜子に、タエは力強くうなずいた。


「大丈夫。もっと頭低くして。膝をくっつけて。離していると雷の電流が体を通り抜けるわよ!」


 落ちた雷が右足から入り、体や頭を通って、左足から抜けていくのを想像し、小夜子は跡がつくくらいしっかりと両膝をくっつけた。音が大きくなり、神楽もさすがに身の危険を感じるのか、おとなしく膝をそろえてかがんでいる。


 ピカッと光って間もなく、ドォンと大太鼓のような音が響いた。どこかに落ちたようだ。光と音の間隔が短いほど近いのだと大ばあちゃんが教えてくれた。今のはきっと近い。


 ピカッ!


 目もくらむような光に包まれると同時に、地響きがした。


 ドォン!


 耳をつんざく大音量。胃がねじれるかと思うほどの振動が伝わってきた。


 もう死んでいるのかもしれない。友達に聞いた怖い話でこんなのがあった。死んだことに気づかないで、今まで通りの生活をしている霊がいるって。わたしもそうなのかもしれない。雷に打たれて苦しむ間もなく一瞬にして死んじゃったから、気づいていないのかもしれない。


 雷鳴はゆっくりと遠のき、やがて空も明るくなった。あの黒い雲は、ついに一滴の雨も降らすことなく去っていった。


「小夜子どの、ありがとうございました」


 神楽が礼を言った。小夜子はおそるおそる顔を上げ、神楽の青ざめた顔を見た。そしてその顔色の理由を知った。ついさっきまで三人がいた岩が見事にくだけていた。雷はあの岩に落ちたのだ。


「わたし、生きてるよね?」


 小夜子の問いかけに、神楽もタエもきょとんとした。管狐も竹筒から顔をのぞかせた。そして小夜子の硬い表情から、真剣に確認したがっているのがわかったのだろう、タエは優しく笑みを浮かべた。


「大丈夫。みんな無事よ」


 小夜子が笑みを返そうとした時、バラバラといくつかの石が転げ落ちる音がした。落雷したあの岩だ。くだけた岩の下からなにかが出てこようとしている。

 息をつめ、それが姿を現すのを待った。近寄って確かめる勇気はなかった。あそこにいるということは、雷にうたれても無事だったということであり、そんな生き物が怖くないわけがない。


 管狐が竹筒から出てきて、タエの肩に乗った。そしてタエの耳に口を寄せた。


「……まさか!」


 タエが管狐を見た。

 その様子を見ていた小夜子も続けて「まさか!」と叫んだ。


「まさかタエちゃん、管狐と話せるの?」


 タエは崩れた岩を見ていた。


「それ、今気にすること? そんなことより、あそこにいるのは……まさかと思うけど……」


 生き物が姿を現した。遠目には灰色の猫に見える。


「なぁんだ。猫じゃん。どんな怪物が出てくるのかと思った」


 小夜子は猫に近寄った。


「小夜子ちゃん、だめ!」


 タエが叫ぶ。だが小夜子は気にしない。


「平気だって。ほら、けっこうかわいいよ」


 小夜子は猫をなでようとした。すると、猫はグワッと牙をむいた。猫らしからぬ長く立派な牙だ。小夜子はとっさに手を引っこめ、跳ね上がる心臓を押さえるかのように胸の前でこぶしを重ねた。

 神楽が飛んできた。小夜子はおびえた目で神楽を見上げ、声を震わせた。


「……なによ、猫じゃないじゃん……」


 猫だと決めつけたのは小夜子自身だということはすっかり忘れている。


「小夜子どの、背を向けずにゆっくり下がってください。いいですか、刺激しないようにそっとですよ」


 小夜子と神楽は互いにしがみつくようにして、じりじりと後退した。しばらくはうなっていた獣もふたりが遠ざかっていくと興味をなくし、雷で受けた小さな傷をなめ始めた。


 タエが抑えた声で言った。


「あれは雷獣らいじゅうよ」

「雷獣?」


 小夜子と神楽が声をそろえて聞き返したので、雷獣が警戒して動きを止め、耳をピンと立てた。しばらく静かにしていると、雷獣は再び手足をなめた。そんな姿は猫そのものだ。


「話には聞いたことがあります」


 雷獣の注意をひかないように、神楽が声をひそめて言った。


「雷で空から落ちてくるそうですが、見たのは初めてです」

「わたしもよ」


 タエが言った。


 人魂や雪女を見たことがあるタエでさえ初めて見るのなら、小夜子ももちろん初めてだ。それどころかふたりとちがって、話すら聞いたことがない。


「羽もないのに空の生き物なの? 凶暴なの? きっと凶暴だよね。さっきの見たでしょ? 早く逃げなくちゃ」


 すぐ目の前で威嚇されて、小夜子はパニックぎみだった。今にも走り出そうとする小夜子を神楽が引きとめた。


「刺激してはなりません」

「そうよ」


 タエも小夜子をなだめる。


「動物は動くものに飛びかかるわ。急に走ったりしたら追ってくるわよ」

「だったらどうすればいいのよ!」


 雷獣は傷をひととおりなめ終わり、体を伏せてこちらを見ている。


「ちょっと、ちょっと! 見てるわよ! っていうか、来た!」


 突然雷獣が向かってきた。


「うわあっ!」


 三人は雷獣に背を向けて、一目散に逃げ出した。


「なにもしてないわよ。わたし、なにもしてないからね! 刺激しなくても襲ってくるじゃない!」


 小夜子は泣きそうな声でわめいた。


 ガオーッ!


 雷獣は猫のような外見に似合わない太い声で吠えた。


「きゃーっ!」


 最後尾を走っていたタエの叫びが上がった。雷獣に飛びかかられた勢いで倒れている。雷獣はタエの体の上に乗り、鋭い爪で肩をおさえ、大きく口を開いた。閉じていると小さい口なのに、開くと信じられないほど大きい。首の上に口が乗っているみたいだ。尾をピンと立て、灰色の毛は逆立ち、目は血走っている。頭を後ろにそらせ、勢いよくタエにかみつこうとする。


「タエちゃんっ!」

「タエどのっ!」


 小夜子は顔をそむけ、神楽は届くはずのない手を伸ばした。


 ギャイン!


 雷獣が飛び退いた。喉に白いものがぶら下がり、雷獣が暴れるたびに揺れる。管狐がかみついているのだ。

 その間に小夜子は、起き上がれないタエのもとにかけ寄り肩を貸した。だがタエは腰が抜けてしまって立ち上がれない。

 小夜子は焦った。わきの下を冷たい汗が流れる。自分と同じくらいの背丈の女の子を抱き上げる力などない。管狐だっていつまでもかみついていられないだろう。小さな体は今にも振り払われそうだ。


 どうすればいい? 雷獣を追い払うにはどうすればいい? 空の動物が苦手なものなんてわからない。そんな生き物をほかに知らない。鳥だって空に住んでいるわけじゃないし。あんな化け物のことがわかるはずがない。四本足の動物は地上にいるものよ。ジャングルとか森とかだったら、野生動物に襲われないように夜通し火を絶やさないっていうのは知ってるけど……ん?


「神楽っ!」


 小夜子が呼びかけた時、神楽はなすすべもなく立ちすくんでいた。


「火起こしの玉石ってまだある?」


 神楽は小夜子の考えが読めない。


「今そのようなこと――」

「いいからっ! あるの? ないの?」


 神楽はまゆを寄せた。


「ありますけど……」

「じゃあ、火を起こして、あいつに投げつけて!」

「むだですよ。相手は雷でもかすり傷しか負わない生き物ですよ。小さな火ごときではどうにもなりません」


 しびれを切らした小夜子はタエをそっと座らせ、神楽の風呂敷包みを奪い取った。


「なにをなさるのです!」

「火よ。動物は火を怖がるの」

「そうなのですか?」


 動物の習性を神楽が知るはずもない。多々良村には動物などいないのだから。


「早く! どうやるの、これ?」

「わかりました。わたしがやります。火を投げればよいのですね?」


 ブツブツと呪文を唱えつつ手のひらで火起こしの玉石を転がす。火がつくと、大きく振りかぶって雷獣に投げつけた。それに気づいた管狐が素早く飛び退く。火は雷獣には届かず、わずかに手前に落ちて炎を上げた。雷獣がたじろぐのがわかる。

 神楽は顔を輝かせた。


「これはよいかもしれません」


 神楽が火を起こしている間、小夜子は次の火起こしの玉石を神楽がすぐ受け取れるように差し出しておく。雷獣は進もうとするたびに次々と投げられる火に行く手をはばまれ、恐れといらだちの入り混じった声でうなり続けた。火起こしの玉石はひとつも雷獣にはあたらず、全て手前に落ちては炎を上げた。だが、必死で突破口を探す雷獣が進み出たおかげで、やっとひとつが届いた。それは雷獣の鼻先にあたり、体毛をわずかにこがした。


 ギャウンッ!


 その一撃で雷獣はすっかりおびえきって、文字通りしっぽを巻いて逃げていった。


「さすがは異形なる者です。雷獣の弱点をしっているとは」


 神楽は感心しきっている。


「その呼び方はやめてってば。それに雷獣のことなんか知らないわ」

「それならばなおのことです。小夜子どのがおられなかったら助かりませんでした」


 そこまで言われると、小夜子も悪い気分ではなく「そうかな」などと言って笑った。


 タエが落ち着くのを待って、一行は出発した。

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