空音の峠
目が覚めた時、小夜子はしばらく自分がどこにいるのかわからなかった。神楽の角を見たとたん叫びそうになり、やっと「ああそうか」と全てを思い出した。
昨夜は『月読の掟』を区切りのいいところまで読んで寝たのだった。物語の世界とこの世界が入り混じり、寝起きの頭が混乱する。元いた世界がもっとも遠く感じる。
夢から覚めてもなお、また別の夢の中にいることがある。だが、これは全て現実なのだ。
すでに神楽が用意してくれていた朝食は、またしてもごぼうの形をした焼き芋だった。まだ二回目だからいいようなものの、こんなものを毎日三食繰り返していたら、食事の楽しみなんかないんだろうな、と思った。タエが言っていたように、水があればいろんな作物が育つ。小夜子は多々良村のためにも岩戸を開けたいと思えるようになっていた。
「朝の涼しいうちに
神楽の合図で三人はなだらかな山道を登り始めた。
峠というだけあって、星の林ほど歩きやすくはなかったが、同じ岩山でも、笹の庵の石段を思えばどうってことはない。
小夜子とタエはすっかりピクニック気分で、童謡を歌いながら歩いた。中には神楽も知っているものもあって、三人で歌ったりもした。しかし、神楽がとんでもない音痴だということが判明し、それを小夜子があまりにからかうものだから、しまいにはふてくされてしまった。
タエが神楽の機嫌をとっていると、どこからか祭ばやしが聞こえてきた。
「このあたりにも村があるの?」
タエが神楽にたずねる。
「さぁ……聞いたことがありません」
神楽は首をかしげる。多々良村より天つ山に近い分、住みやすいと言えば住みやすいだろう。それでもやはり、ここも岩ばかりで、水も緑もない。だいいち、巫からもこのあたりでは多々良村しか人は住んでいないと聞かされているのに、とぶつぶつつぶやく。
「あの岩の向こうから聞こえない?」
小夜子は右手の大きな岩をよじ登った。タエが後を追う。
「小夜子どの! タエどの! お待ちください!」
案内役の神楽としては、ここで二人を迷子にするわけにはいかないのだろう。風にはためく袂をおさえながら岩を登ってくる。
まちがいなく祭ばやしは岩の向こう側から聞こえる。
小夜子とタエは、岩のてっぺんから向こう側を見下ろした。
「おふたりとも、寄り道をしている場合ではありませんよ」
追いついた神楽が眼下を眺め、音がするほど大きく息を飲んだ。
荒れ地で大勢の人々が笛を吹き、太鼓を叩き、歌い、踊り、酒を酌み交わしているのだ。
しかし、祭そのものよりも三人を驚かしたのは、その人々が天狗だったということだ。
天狗には、鼻の高い大天狗と、烏のくちばしを持った烏天狗の小天狗がいるが、ここで宴を催しているのは烏天狗たちだった。
山伏の装束を身にまとった烏天狗たちは、みんなで輪になって、あぐらをかいたり、横になったり、思い思いの格好で宴を楽しんでいる。
小夜子たちは吸い寄せられるように岩を下りていく。
酒のせいなのか、元々の肌の色なのか、赤い顔をした烏天狗たちは、やんや、やんやとはやしたて、三人を輪の内側に立たせた。
笛や太鼓はさらに軽快に鳴り響き、小夜子はじっとしていられなくなって踊り出した。踊りと言ってもめちゃくちゃである。盆踊りをコミカルにしたような即興の振りつけで踊り続ける。
タエもつられて踊り始めた。胸元の竹筒がゆらゆら揺れ、なにごとかと顔を出した管狐は、烏天狗の姿を見て、あわてて首をひっこめた。
神楽が小夜子の正面に回ってきた。
「なにをなさっているんですか! 小夜子どのもタエどのも……あ、あれれ」
ふたりを止めようと伸ばした神楽の手が、動き出した。足も跳ねたり飛んだりし始める。神楽は情けない声を上げた。
「さ、小夜子どのぉ! 体が勝手に動いておるのですが……!」
「わたしだって、踊りたくて踊ってるわけじゃないもん」
踊りながら小夜子が答える。
意思とは関係なく体が踊っている。踊らされているとわかっていながらも、楽しくなってきた三人は、いつしか夢中になって踊っていた。
しかし、ふと気づけば烏天狗の姿はなく、酒の杯のひとつも残ってはいなかった。三人は踊りをやめた。踊り疲れているはずなのに、なぜか逆に体が軽くなった気がする。
「……なんだったのでしょう」
神楽がつぶやいた。
「さあ……」
小夜子は首を傾げた。
「これが天狗ばやしっていうものなのかしら?」
タエが言うと、神楽はうなずいた。
「そうかもしれませんね」
「……はぁ」
三人がそろって深いため息をついた時、いかにもおもしろいといった感じの高らかな笑い声が、空音の峠にこだました。
「それにしても」
小夜子はニヤリとした。
「神楽の踊りはひどかったよねぇ。踊ってるっていうより暴れてるみたいだったもん」
「な、なんですと?」
「歌も踊りもだめなんだぁ」
「そ、そのようなもの、下手でも困りませんっ!」
ふたりのやりとりをタエはクスクス笑って見ている。神楽はタエをうらめしそうに見やった。
「タエどのまで……あんまりです」
タエはあわてて笑いを引っこめた。
「あ、ごめんなさい」
そう言ったそばから、くすりと笑う。なにを笑っているのかと、神楽がムッとしながらタエの視線を追うと、手足をばたつかせていた小夜子と目があった。神楽の踊りを真似ているのが見つかったようだ。
「まったく、異形なる者とあろうお方がなんということを。よいですか、元々小夜子どのが天狗ばやしにつられて寄り道したのがいけないのです。先ほどの道へ戻りましょう。日が暮れる前に
神楽はさっさと来た時に越えた大きな岩をよじ登った。
タエがそっと小夜子に近寄ってくる。
「小夜子ちゃん、今のはちょっとやりすぎよ」
「そうかなぁ」
「まあ、笑っちゃったわたしもいけないんだけど――あら?」
先に行った神楽が岩の上でたたずんでいる。ふたりもすぐに追いついて、神楽の横に並んだ。
遠くの空に暗雲がたちこめ、喉を鳴らす猫のように低くゴロゴロいっている。時おり雲に光の筋が入る。雷雲だ。どんどんこちらへ向かってくる。
小夜子はタエと顔を見合わせた。
「あれって、ちょっとまずくない?」
タエはうなずいた。
「このままだとこっちに来るわ。ここが一番高いから、雷が落ちるとしたらここよ」
「早く低いところへ逃げなくちゃ!」
そう言っている間にも三人の頭上は黒い雲でおおわれ、あたりが薄暗くなった。小夜子とタエはあわてて岩を下り始めた。
「神楽も早くっ!」
神楽は岩の上に立ったまま、水筒を高く掲げている。
「ちょっと、なにやってるのよ! 雷が落ちたらどうするの!」
「雨ですよ! 久々に雨が降りますよ!」
神楽は瞳を輝かせている。
「そんな場合じゃないでしょ!」
小夜子は岩の上に戻って、神楽の腕をつかんだ。神楽はすぐに振りほどく。
「小夜子どのにはわからないのです! 雨がどれほどありがたいか。一滴でも降ってくれれば……」
神楽にしてみれば、旅の途中で一滴の水を得ることは命を守ることの次に重要なことだ。いや、その水こそが命を守ることになるのだ。小夜子にもそれくらいはわかる。
「小夜子ちゃん、早く!」
下でタエが両手でおいでおいでをしている。ゴロゴロという音が大きくなった。神楽は待ち遠しそうに水筒を掲げたままだ。命の次に大切な水を待ちつつ。だが、それでも水は命の次だ。無事でいてこそ水が必要となるのだ。
ピカッ。
一瞬あたりが白く光った。迷ってはいられない。
「小夜子ちゃんっ!」
タエに悲鳴のように呼ばれて、小夜子は再び神楽の手を取った。
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