〈月読の掟 序章〉

 月明かりの下、ひんやりとした風が生ぬるく蒸した空気を切り裂いていく。足元は日中の日差しのなごりで温かい。わずかに湿気をふくんだ闇は、あたりの草むらから青いにおいを漂わせている。こおろぎが一匹鳴いている。秋がすぐそこまできている。


 あてもなく村中を歩き回っていた男は、気を落ち着けようと足を止め、深く息を吸った。自分が気をもんだところでどうなるものでもない。わかっていながらもなぜか胸が騒ぐのだった。


 男はゆっくりと息を吐きながら夜空を見上げた。星が瞬き、下弦の月が淡い光を放っている。


 風が強くなってきたようだ。心持ち汗ばんだ肌を晩夏の風が冷やしてくれる。風は男の心の熱も冷ましていく。


 やっとひとところに腰を落ち着けようと思えたそのとき、あたりが薄暗くなった。夜も遅い。家々の明かりもなく、月だけがわずかな光を届けていたのだが、その光さえ薄らいできていた。


 男はなんとはなしに空を見上げた。大きな雲が流れていた。雲の端が月にかかっている。みぞおちのあたりがひやりとした。


 ――まさか。


 雲は流れ、母が子のまぶたを閉じてやるかのようにやさしく月を隠した。


 男は走り出した。


 胸騒ぎの正体はこれだったのだ。なんということだ。口が渇き、舌の根が喉にひっつく。目は闇に慣れ、月明かりがなくとも我が家への道は迷うことがない。


 男は走る。月のない空を何度も見上げつつ。脱げかかった草履をむしりとって放り投げる。裸足の土踏まずに小石がささって短い悲鳴を上げるが、足は止めない。


 やがて目指す家に着いた。戸のすき間から細く明かりがもれている。


 男は戸に手をかけた。中から苦しげな声が聞こえる。乱暴に戸を開くと、土間で湯を沸かしていた近所の女たちが一斉に振り向いた。


「おや、権蔵ごんぞうさん。まだ産まれませんよ」


 妻と産まれくる子に会いにかけこんだと思ったのだろう。女は笑いをふくんだ声で言った。周りの女たちも微笑ましそうにうなずく。


 権蔵は女たちを押しのけ、障子に手をかけた。女たちが権蔵を抑える。


「だめよ。ばばさまがついているから。心配ないから」

「喜久!」


 閉じられた障子に向かって妻の名を呼ぶ。妻からの返事はなく、かわりにいきみが大きくなった。


喜久きく、今はだめだ! こらえてくれ!」

「権蔵さん、いったいどうしたの?」

「月が……月が……!」


 女たちは戸口に飛びついた。そして月が隠れた黒い空を見上げる。その場に立ちつくす者、へたりこむ者、泣き崩れる者。


「ほれ、喜久、あと少しじゃ」


 ばばさまの励ましの声に、権蔵はこぶしを握りしめ、頭を垂れた。産声が上がる。権蔵は最後の望みを持とうと顔を上げた。障子が細く開き、ばばさまが顔を出した。


 どうか、どうか……。


 権蔵は祈る思いでばばさまを見つめた。ばばさまはゆっくり首を振り、静かだがはっきりと言った。


「おなごじゃ」


 喜びの日は一瞬にして悲しみの日となった。なにも知らぬ赤子の声が、月のない夜の闇に響き渡った。

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