古い書物
風が吹いて、竹やぶがザアッと鳴った。
小夜子はびくりとし、寒さに襲われたように身を震わせた。けれどもすぐに落ち着きを取り戻した。
今は夏だ。寒いわけがない。小さいころは大ばあちゃんの話を信じていたから、雪の話を聞けば凍えるような寒さを感じたりもした。だけどもう知っている。あんなのは嘘っぱちだって。
小夜子は下唇を噛んだ。嘘を小さな子に信じ込ませた大ばあちゃんにも腹が立ったし、あっさり信じた自分にも苛立った。
ただの風の音に怯えるなんてばかみたい。
八つ当たりだとわかっていながらも竹やぶを睨みつける。当然のことながら竹やぶは小夜子の怒りなど関係なく風吹かれて葉を震わせ続けている。
竹は集まると力を持つ。そして異世界へと通じる。竹の中が空洞なのは、あの節ひとつひとつが世界の圧縮だからだ。大ばあちゃんはそう信じていた。昔は神隠しが多かったのも、竹やぶが多かったからだと思っていたようだ。
カナカナカナカナ……。
ヒグラシが鳴いている。夕暮れに鳴く蝉。
――逢魔が時。
どこかミステリアスなその言葉を教えてくれたのは、大ばあちゃんだった。ちょうど今ごろのように日が暮れ始めた薄暗い時間帯をさす言葉だ。
魔物に逢う時刻という名の「逢魔が時」。「大禍時」ともいい、これは禍が起こる時という意味だ。同じく夕暮れを表す言葉で聞いたことがあるのは「黄昏時」だろう。これには「誰そ彼時」の字をあてることもある。薄暗くてだれだか見分けがつかなくなるということだ。すべて大ばあちゃんが教えてくれた。
魔物、禍、誰だかわからないなど、夕暮れを表す言葉はどれも奇妙な胸騒ぎを覚える。
逢魔が時の竹やぶで、幼かった大ばあちゃんは神隠しにあった。ほかの話はいくらでもしたのに、神隠し体験についてはほとんど語らなかった。
「小夜子は『継ぐ者』だから」
大ばあちゃんはときおりそんな意味のわからないことを言っては、あれこれと小夜子に話をしてくれた。
そんな嘘を小夜子は信じた。すごいことだと思った。だから学校で友達に話した。
低学年のころはみんなも興味深く聞いてくれた。なにか話して、とせがまれることもあった。
それが高学年になると様子が変わってきた。小夜子の話を居心地悪そうに聞くのだ。そして次第に話を聞きに来る子はいなくなった。
それでも夏休み明けなどにみんなと田舎の話をしていて大ばあちゃんの話をすることもあった。するとみんな妙な笑顔で囁き合うのだ。
「え? なに? 今の話、よくわからなかった?」
「うーん。わからないっていうか、小夜子ちゃんはどういうつもりで話しているのかなと思って」
「どうって?」
「だって、まるでそんな変な話を信じているように聞こえるんだもん」
「信じてるよ。大ばあちゃんが体験したことだもん」
「えっ。うそ。本気で信じてるの?」
なにを言われているのかわからなかった。それでもなにか大きな失敗をしたことだけはわかって、胸の奥がキンと冷えた。
あの時のみんなの顔は中学生になった今でも忘れられない。驚きと、笑いをこらえたような表情。今ならあの表情の意味がわかる。蔑みだ。無知で幼稚な小夜子を見下したのだ。
「そういうのを信じているのがかわいいと思ってやってるんでしょ」
「え。ちがうよ」
「だって私たちもう六年生だよ。だれもそんな話を信じるわけないじゃん。小夜子ちゃんだって本当は信じてないくせに」
嘘つき。
嘘つき。
小夜子ちゃんの嘘つき。
怖かった。
頭にきたとか、悲しかったとか、そんな感情よりもただただ怖かった。間違えた、そう感じた。
言われてみれば、大ばあちゃんの話はどれもあり得ないことばかりだ。だれかから聞いた話だと言われていれば信じなかったかもしれない。だけど、大ばあちゃんの体験したことだと言われたら信じるに決まっている。大ばあちゃんは私が信じるとわかっていて嘘を話したんだ。ひどい。ひどい。大ばあちゃんの嘘つき。だいっきらい!
そうして小夜子は「あるかもしれないこと」を考えるのをやめた。確実に現実に起こったことだけを信じるようになった。もうあんな思いをするのはいやだった。
今はもう、どうしてあんなことを信じていたのかわからないくらいだ。
それでも大ばあちゃんは相変わらず妙な話を語った。ひとたび冷静になってみれば、大ばあちゃんの話はおかしなことばかりだった。
特に、神隠しの話は信じていなかった。神隠しなんて神秘的な呼び方をしてみても、ただの行方不明だ。誘拐、迷子、事故のどれかだろう。
だが、神隠しにあっていながら、もどってきたなんて話は、大ばあちゃんのほかに聞いたことがない。探せば出てくるケースかもしれないが、少なくとも小夜子は耳にしたことがなかった。
小夜子はふと、家の中がやけに静かなことに気がついた。お父さんの声もお母さんの声も聞こえない。やはり大ばあちゃんになにかあったのだろうか。そうだとしたら、なおさら騒ぎ立てる声がしそうなものだけれど。
小夜子は縁側に面したガラス戸に手をかけた。鍵はかかっていなかった。大ばあちゃんが鍵をかけないのはいつものことなので、特に気にも留めずにカラカラと開けた。室内に声をかける。
「お父さん。お母さん」
返事どころか物音ひとつせず静まりかえっている。
二人は勝手口から入っただろうから台所にいるのかもしれない。部屋に上がろうと片足を上げて、ふと思った。玄関の鍵はなぜ締まっていたのだろう。小夜子の家ではゴミ捨てでさえ鍵を締めるが、大ばあちゃんは在宅中はおろか、近場の用事くらいでは鍵を締めない。
玄関を戸締りしているし、電話にも出なかったし、旅行にでも行ったのだろうか。だけど、なにも言わずに行くとは思えない。
「大ばあちゃん、いるの?」
声をかけながら部屋に上がる。寝室にしている和室だ。物はすべて押し入れにしまっていて、あるのは文机ひとつだけだ。その文机の上に紙の束があった。勝手に見るのはよくないと思いつつも、ヒントがあるかもしれないからと自分に言い訳して手に取った。
ノートほどの大きさで、植物の蔓みたいな紐で綴じられている。古いものらしく紙は黄ばんで湿気でよれている。表紙に当たる部分にタイトルらしきものが書かれている。
《
ページをめくるとペリペリと剥がれる音がした。
細い筆で書かれた文字が並ぶ。くずし文字だし、昔の文字みたいなのもある。中学二年生の小夜子に読めるはずなどない。それでも内容が気になってどうにか読み取れる文字がないかと目を凝らすうちに、文字がゆらりと揺れた気がした。そんなのは気のせいだとわかってはいるが、まるで現代の文字と文体に姿を変えたように感じられた。ついさっきまでは暗号にしか見えなかった文章が不思議と内容がすらすらと頭に入ってくる。
《 月明かりの下、ひんやりとした風が生ぬるく蒸した空気を切り裂いていく。足元は日中の日差しのなごりで温かい。わずかに湿気をふくんだ闇は、あたりの草むらから青いにおいを漂わせている。こおろぎが一匹鳴いている。秋がすぐそこまできている。》
日記だろうか。
ぱらぱらとめくってみるが、日付らしいものは見当たらない。
それならば、小説? だれが書いたのだろう。大ばあちゃんが書いたにしては紙が古すぎる気がした。
改めて見ると、《序章》とあった。やはり小説なのだ。
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