第七章 麝香
夜中にふと目が覚めた。
そういえば、才四郎は帰ってきたのだろうか。少し夜風に当たると出かけ、そのまま一刻経っても戻らず心配ではあったのだけれど、先に彼が言うように寝かせてもらうことにした。
あのような話題をふったことを、私はあれから幾度となく悔いていた。知らぬとはいえ、自分の発言で彼をひどく傷つけてしまう結果となってしまった……。
そのうえ酒も入っている。まさかと思うが、なにかやけなことをしたりしていないだろうか。何度も悔やみ、自らを責めながら、ふと仰向けに寝返りをうったその時。隣の部屋、襖の向こう側からなにか小さな音が漏れ聞こえてくるのに気づいた。
瞬間、鼓動が止まる。
彼が戻ってきたのだろうか。追い酒をさらに煽るというような体に悪い飲み方をしていないか。心配で確かめようと、思うがままに私は身を起こし、静かに部屋を隔てる襖へと近づいた。
そっと改めて耳を済ます。
刹那、私はこのような行動を起こした自分を、深く悔やんだ。
そうだ、そうであった。毎晩ほぼ夢うつつの状態で、聞いてきた音のことを今更ながら思い出す。今の今までずっと知らんふりをしてきたけれど。この独特な息づかいと、規則的な布擦れの音、これはと、思い当たる。
私はまだ、成人しておらず、このような容姿でもある。男女のことについて、経験したことはない。けれど領主様が遊女を招き入れた夜は、だいぶ離れた私の部屋までこういった営みが聞こえてきた。侍女の梅がとても嫌がっていた。
彼の相手は遊女のようだ。独特の甘い白粉の香りがあちら側から漂ってくる。彼女の鼻にかけた、堪えきれない声が漏れ、それに対して男が聞き取れないが、静止しているようなやり取りが聞こえる。
「だって、だって、もう。あたしは」
切れ切れとした、快感に浸った遊女の甘い声、「声を抑えろ」という男の掠れてはいるものの、聞き覚えのある声に心の臓が掴まれる。思わず声を上げそうになるもなんとか堪え、そのまま急ぎ音を立てぬよう自分の寝床へと戻った。
人の夜の情事を盗み聞きする趣味はない。けれど、意図せず聞き及んでしまったことに、さらに深い後悔と自責の念に苛まれて私は静かに布団を被る。 と同時に、驚き、混乱する気持ちとは裏腹に、より深い胸のうちからなんともいえぬ、悲しいような、むかつくような感じたこともない、どす黒い感情が急激に沸き上がり、私は翻弄され、戸惑いつつ、なんとかそれを振り払おうと、苦し紛れに寝返りをうった。 この感情はなんなのだろうか。憤り? ……だとするなら、私は何に憤っているというのだろう。一生殿方とそういう関係になれない自分の容姿に? 思い出のこどもに、あれ程拘っていたのに、遊女を連れ込んでいる才四郎に? 人にこんなに心配させておいて。
はたと思い返す。まさか。私は彼のことが……。
そのようなあさましい思いつきに内心動揺を来したその時。私を……あの。いつもの強い頭痛が襲った。堪えきれず頭を抱え腰を折り体を丸める。ああ……まただ。またあの声が聞こえる。
ーー思い上がるな。そのような醜い容姿のお前に気を引かれる者などいるわけがなかろう。城を立ってからのこと。そして昨夜のことを忘れたとは……愚かなおなごよ……。
幼き時から知る恐ろしい声。怖い……低く威圧的で、絶対に逆らえぬ男の声。そうだ。そうであった。私は一体何を……。
途端。我に返ったように心が冷静さを取り戻す。そうだ……。声の言う通りではないか……。
彼は私の容姿を忌み、毎晩別の女性を部屋に招き入れている。元々彼は女好きで、女人の扱いになれている。そうであるから話しかけやすく、私は彼に兄を見て、甘えしまっていたのであろう。しかし。彼は暗殺者なのだ。私はいつ首を掻き切られてもおかしくない状況なのだ。そう考えれば、彼の優しさは私の死地への旅の最後のみやげ、良心の呵責に耐えきれぬがための、気まぐれな施しに過ぎない。それに私が心乱されるとは笑止の至りではないか。身の程を知れとはまさに、今の私のためにある言葉だろう。
布団の中にいるというのに、気づくと身体が芯から冷えている。私は冷たくなった己を両の手で抱き締める。
それにしも。先程憤りと共にわき上がった感情はなんであったのだろうか。しっかりと気を持たねば、闇に飲み込まれてしまいそうな、黒いおどろおどろしい何か。あのようなものに心が埋めつくされてしまったらどうなるのだろう。
容姿だけでなく、心までも鬼になりたくない。
もう潮時なのだろう。鬼だと言われ続けた私が、人として終わるためには、そろそろ時を自分で決めねばならない。これ以上おかしくなる前に。そして理由はともあれ丁重に接してくれている才四郎に、迷惑をかけないために。そう決めると心が軽くなり、とたん押し寄せてきた睡魔に翻弄され、私はそのまま眠りについてしまった。
ーー目が覚める。
目を開くと、障子から漏れる日の光は白く、だいぶ陽が上っているのに気付き、私は急ぎ起き上がった。と、同時に昨晩の記憶を鮮烈に甦らせる強い残り香を吸い込み、私は才四郎の様子が気にかかった。
襖の向こうから、人の気配と息づかいがする。でも彼一人という保証はない。おもむろに覗き混んで、二人と目があったら。思うだけで気まずい気持ちになる。しかしこの香り。さすがに放っておく訳にも行かないだろう。私は障子をあけ外気を取り入れながら、声の調子に留意しつつ、こちらの部屋から才四郎に声をかけることにした。
「才四郎、起きていますか? 具合が悪いのですか? 酒のせいで寝坊をしてしまったようです。あなたは大丈夫ですか?」
しばらく返事がなかったが、ふいにがばっと起き上がる様子がして声が返ってくる。
「ああ、すまない。大丈夫だ。俺も寝坊した」
彼が起き上がった雰囲気がしたとたん、今までよりさらに、強く甘い鼻腔をつく残り香が漂う。しかし気配から彼が一人であることがわかった。安堵しつつ……私は迷った。当人はすでにいないのに威嚇するかのようなこの香り。これは相当、昨日のお相手に好かれたに違いない。でも匂い、麻痺して本人は気づかないものだ。そして彼は忍である。このままにしておいて、言い訳がない。私は腹を決めた。
「入るぞ」と、不躾に襖を開けてこちらに姿を見せた彼を私は真っ直ぐ見下ろした。
「才四郎」
乱れた寝巻きのままあくびをしている彼に、私は深呼吸をして一息に話す。
「ここの宿の売りは、四六時中、時間を気にせずつかれる源泉かけ流しの湯屋と、おかみさんから聞いています。よかったら出立前に浸かってきては、いかがでしょう」
彼は何か気づいたように私を見上げた。私の表情から何かを読み取ろうとしているように。私も昨日のあれを知っているとは言えない。盗み聞きした負い目がある。私たち二人は無言のまましばらく見つめあう。しかし。このまま彼にこの残り香のことを言わなぬままにしておくわけにはいかない。
「今朝は……見過ごせぬほど強い麝香の香りがします」
麝香といえば、丁香と並んで遊女の香の代名詞だ。苦し紛れに口からついて出た発言ではあったが、再度顧みて、はたと気づき血の気が引いた。これでは昨日だけでなくいままでのことも知っていると、暗に責めているようではないか。
うろたえ、気恥ずかしくなり、先に私は耐えきれず、目を伏せてしまった。とたんに、才四郎は何か気付いたかのように、がばっと起き上がって後ろを向いた。手ぬぐいをとると、そのまま、後ろを向いて部屋を出る。
「すまなかったな」
掠れた声で彼はそう言った。
「いえ。こちらこそ。出すぎた発言をいたしました」
私の謝罪が聞こえたか聞こえないかわからないが、彼は出ていった。
昨夜彼を傷つけた上に、今朝は辱めてしまった。最低な行いをしてばかりの自分に嫌気がさす……。暗く沈む心中とは裏腹に晴れ渡る空を見上げ、私は深くため息をついた。
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