41話 F

 いつものバイト帰りとは違うルートに僅かな緊張感が漂う。心なしか、まりあの口数も少ない。


「お、お邪魔します」


 こんな時に限って親父が! なんてことはなく、真っ暗な玄関に灯りをともしてまりあを迎え入れた。


 まずは飲み物を用意しないとな。やっぱりこういうときはコーヒーや紅茶よりも、水やスポドリの方がいいのか?


 リビングにまりあを通して、ソファーに座らせてからキッチンに———


「あまり時間もないから、ゆーとの部屋でいいかしら?」


 えっ! 初っ端から? 俺としてはシャワーも後回しでいいんだけど、いきなり大胆だな。


「お、おう」


 来た道を引き返して部屋の扉を開けると、まりあがキョロキョロと部屋を見渡した。


「予想通り何もないわね」


 家具と呼べるものはベッドとローテーブル、カラーボックスくらいで、学習机はお袋が出て行った後に思い出と共に処分した。


「まあ、必要なものしか買わないからな。とりあえず何か飲み物———」


 そう言い掛けたところでまりあに腕を引っ張られてベッドにボフンと座らされた。


「じ、時間は有限だから。有効に使わないと、ね?」


 真っ赤な顔をしながらも、まりあはベッドに横たわり両手を開いて俺を誘う。


「お、おう」


 そのまま胸に抱きしめようとしたが、なぜか頭をがっしりと掴まれ、逆に俺がまりあの胸に抱きしめられた。


「ふ、ふぉ!」


 不意打ちとはいえ、この強力な攻撃に俺の理性は一気に削り取られる。

 柑橘系とほのかに汗の匂いがし、顔全体をギュッと圧縮された胸に包まれた。


「こ、こらっ。動くな! しゃべるな! そこでモゾモゾされるとくすぐったいと言うか……恥ずかしいから大人しくしてて」


 動かないようにギュッと抱きしめる力を強くした、まりあ。

 いやいや、これで動揺しない未経験男子がいたら見てみたいわ! まりあ最大の武器に太刀打ちできずにいたが、僅かな違和感にどうしても大人しくなんてしていられなかった。


「こらっ、だから大人しく——」

ひょっひょ、いひゃいちょっと痛い


 それだけを伝えると、まりあは腕の力を緩めてそっと距離を取った。


「あ、そっか。……もう。そこまでするつもりなかったのに。ゆーと、回れ右して目を閉じて」


 ジトっとした眼差しで言われ、俺は大人しく言われた通りにした。


 シュル、シュル


 直後、背後から衣擦れの音がし「目は瞑ったままこっち向いて」と言われた。

 言われた通りに向きを帰ると、再度まりあの胸に抱きしめられた。


「ふっ! ふっおぉぉぉ!」


「こっ、こらっ!」


 さっきとは比べものにならないくらいの弾力に叫ばずにはいられなかった。


 まりあにバレないように薄らと目を開けると、着ていたはずのパーカーを脱ぎ捨ててキャミソールとショートパンツ姿のまりあがいた。

 それだけでも童貞殺しと言える姿なのに、この感触は間違いなくノーブラ。この薄い布地の向こうにはまりあの素肌がある。


「と、とりあえず邪な心は捨てて赤ちゃんみたいに無垢な心になりなさい」


 そんな無茶なこと言うなよ! この状況でしてもいないのに賢者タイムを迎えろと?

 それにまりあだって緊張しまくりだろ? バクバクと早鐘が俺の耳に響いている。


 ……早鐘? 赤ちゃん? 


 なるほど、まりあのしてくれていることは理解した。


「ははっ。まりあこそ落ち着けよ。これだけバクバクいってるの聞いてても落ち着けねぇよ」


「うっ、そ、それもそうね」


 まりあはスーハースーハーと深呼吸をしながら俺の頭を撫で始めた。


「ちょっ! これは恥ずかしいだろ!」


「私の方が恥ずかしいに決まってるでしょ!」


 ここまでの赤ちゃん扱いはさすがに勘弁してくれ! という俺の要望はまりあの正論に看破された。


「もう、ゆーとはおしゃべり禁止。あっ、もちろんお触りも禁止よ?」


 だいぶ余裕ができたらしくマウントを取ってくるまりあ。心音も落ち着いてきた。


 その心音だけに集中して呼吸を合わせていると———


♢♢♢♢♢


「寝たみたいね」


 胸元からゆーとの規則正しい寝息が聞こえてくる。


 傷つきやすいゆーとを癒すのは私の役目と誓ったのは昨日。まさかこんなに早くに役目が回ってくるとは思わなかったわ。


 こっちは昨日のこともあって、今朝はうれしいやら恥ずかしいやらで学校行くのもドキドキだったのに、肝心のゆーとは浮かない表情。

 私、知らないうちに無理強いでもしていたのかと思っちゃったわよ? 


 詳しい話は聞いてないけど、状況から考えて容疑者は宮園姉妹のどちらか。


 ……まあ、妹よね?


 ゆーとが話してくれても、くれなくても一度、彼女とは話してみないといけないわね。


 視線を落とすと安心した様子で眠っているゆーと。


「どこでどう傷つくかわからないけど、私が癒やしてあげるからちゃんと帰ってきてね?」


 ギュッと腕に力を込めて、ゆーとを胸に抱いた。


♢♢♢♢♢


 ゆうくんに嫌われた。


 もうダメだ。


 生きる気力を失ってしまった。


 やっぱり、最初からゆうくんに許してもらえる可能性なんてなかったんだ。


 ゆうくんの家から逃げ帰った私は、そのままベッドに潜り込みその日は学校もずる休みした。


 翌日もお姉ちゃんには体調が悪いと言い、学校を休むことにした。実際顔色は悪いらしく、お姉ちゃんは疑うことなく了承してくれた。


 私はこのまま引きこもってしまうのかな?


 ゆうくんに拒絶されたまま生きていくことなんてできない。

 

 大事なカギをギュッと握りしめて自問自答を繰り返すだけ。答えなんて見つかる訳がない。だって全部過去のことだもん。取り返しつかないんだもん。前向きなことなんて思い浮かばないもん。


 いっそのこと、この世から消えてしまえれば……


「お邪魔するわよ?」


 思考の袋小路に入り込んでいた私の耳に思いがけない人の声が聞こえてきた。


「……えっ?」


「お邪魔するわよ? って言ったのよ宮園さん。仮病ですって? 大丈夫? 主に精神的に」


 トゲのある言い方でズケズケと私の部屋に入ってきたのは、私がなりたかった存在に一番近い人だった。



 

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