一章 こうして辺境屋敷で生活しています

第3話 スザンカの住人達1

◇◇◇◇


 眠りから。

 一瞬浅く思考が浮上したその瞬間。


 こんこんこん、と。

 木に、何かを打ち付ける音が響く。


 半分寝ぼけているからだろう。

 リスだ、と、そんなことを思った。リスがクルミを落とした。それが、扉にあたって、こんな音が鳴ってるんだ、と。


 もう、しっかり抱えておかないから、落としちゃうんだよ。

 頬を緩めて、もう一度羽枕に顔をうずめる。


 ほら、早くクルミを拾わなきゃ。

 頭に浮かぶリスにそう告げるのだけど。


 ふと、思う。

 リスが、クルミを落とした。

 それが、扉にあたる。


 ……どんな立ち位置であれば、リスはクルミを扉に落とせるのだ。


 扉に垂直にリスが二本立ちするか。

 あるいは、地面に横倒しになった扉に、リスが立っているか。

 そのどちらかじゃないと、『リスが落としたクルミが扉にあたって、音が鳴る』という状況は起こりえない。

 そう、断じたとき。


 こんこんこん、と。

 再び、あの音が鳴る。


 ああ、これ……。

 ノックじゃないか……。


 気づいた瞬間、髪の毛を掻きむしった。まただ。また、『朝』が始まる。


 私は呻き、さらに羽枕に顔を押し付ける。

 ああ、いやだいやだ。また一日が始まる。


「マリア様、おはようございます」

 単調で低い声。


「おはよう」

 ぶっきらぼうに、返事をする。大きく息を吸い込み、ベッドに手をついた。背中を反らすようにして上半身を起こす。


「すぐ準備するから。待って」

 扉の向こうにいるであろうリーにそう告げると、「かしこまりました」と、相変わらず平坦な声が返ってくる。


 私は、よいしょ、と声を上げてベッドから足を下ろす。正直、この屋敷に来るまで、「動き出すときに声が必要」だなどと考えもしなかった。


 ここに来るまで。

 私は、「疲れた」という感覚を持ち合わせていなかったのかもしれない。


 人間、なんとかして動こうとするとき、「えいやっ」とか「よいしょっ」と思わず掛け声が出るもんなんだ、と初めて知った。ちなみに、本当に疲労困憊した時は、「へやっ」という奇妙な声が漏れた。


 窓辺に近づく。

 夕べ用意していた水盥は、猫足のテーブルに、ちん、と置かれたままだ。

 寝る前に見た水面には月光が差し込んでいたが、今はカーテンから洩れいる朝陽に満ちていた。


 両手で水を掬い取る。冷たさが心地よい。そのまま、じゃぶじゃぶと顔を洗い、イスの背にかけておいた手拭いで水気を拭う。少し硬めの、ざらりとした手拭いの表面が、今じゃ気持ちよく思うのだから、人間とは置かれた環境で変化するんだなぁ、と感心した。


 そのまま、くるぶしまである寝着の腰部分をたくし上げ、一気に脱いだ。ベッドに放る。


 水と同じ、少し冷たいなと思うぐらいの空気が、ぴん、と脳を目覚めさせた。

 体から徐々にけだるさが抜け、クローゼットから適当に引き出したチュニックを頭からかぶっているころには、空腹まで感じるほどに、体に力がめぐり始める。


わけぇって、いいな』

 毎朝私を見てそう言うのは、マークだ。


『一晩寝れば、疲れなんて残らねぇんだからな』

 うらやましそうにそう言うけど、起きた直後は、本当にだるいし、このところ毎日思うのは、『朝なんてこなければいいのに』ということばかりだ。


 長髪を手早く紐で束ねながら、再び窓に近づき、カーテンを開く。


 快晴だ。


 まぶしい朝陽が目を刺し、顔をそむけるようにして、窓から離れた。

 それから木靴サボに足をつっこんで、革紐を踵に回す。こんこん、とつま先を床に打ち付けながら、私はドアノブを掴み、開いた。


「お待たせ。おはよう」


 廊下にいるのは、頭部のない執事姿の男だ。


 ボタンは襟部分まできっちりと留め、黒いタイにだってゆがみはない。質素ではあるが、決して粗末ではない黒の背広に、グレイのズボン。手には汚れの無い白手袋をはめたリーが、「気を付け」の姿勢で私を待っていた。


「おはようございます、マリア様」

 改めてリーは私にそう言い、少し腰を折る。相変わらずの淡々とした口調。顔、というか頭全体がないので、表情はわからないが、きっとこの声と同じぐらい、無表情なんじゃないかと思う。


「お時間でございます」

 リーがそつのない動きで、ポケットから銀色の懐中時計を取り出す。たぶん、ちらり、と見たのだろうが、目がないのでわからない。


 まぁ。何度も言うが、頭がないので、何とも言いようがないのだけど。


「相変わらず、時間に正確ねぇ」

 半ば呆れながら、彼を従えて廊下を歩いた。


 まだカーテンの閉められた廊下は、ほんのりと暗い。だが、不気味さや居心地の悪さを感じないのは、屋敷全体が綺麗に整えられているからだ。


 埃があるわけでもなく、カーテンが古びているわけでもない。

 床は丁寧に清められ、家具はあるべきところにある。


 この屋敷は。

 整然としている。


 こつこつと私だけの靴音を鳴らしながら、同じ二階の並びにある、ハロルドの寝室に向かった。


「カーテン、ついでに開けていく?」

 後ろを振り返り、リーに尋ねると、「まだ時間ではございません」と妙に力強く答えられた。ああ、そういえば、教会の鐘が鳴ってから開けるんだっけ。この屋敷には、いろんなしきたりがある。


「ハロルド」

 私は、樫木で出来た扉の前に立つと、二カ月前に不可抗力の末に、納得も行かず、まったく了承もできないまま、いつのまにか「夫」となった殿方の名前を呼んだ。


 返事はない。

 さっき、リーが鳴らしたように、拳を軽く握り、扉を鳴らす。


 返事がない。

 私はため息をついて、ドアノブを掴む。いつもの通り、鍵などかかってはいない。


 まぁ。

 この、屋敷において『鍵』というものは、あまり意味をなさないのだけど。


「ハロルド」

 再び呼びかけ、扉を開く。

 廊下では、リーがつつましく起立姿勢のまま待機だ。


 また、カーテンも閉めずに眠ったのだろう。彼はいつもそうだ。

 室内は、薄氷のような朝日に満たされている。


 一歩、二歩。

 木靴を鳴らして寝台に近づく。

 そして、寝台にいる彼を見た。


 ここから見えるのは、彼のふわふわした金髪だけだ。よくこんな体勢で眠れるな、と思うのだけど、ハロルドはうつぶせ寝がお好みらしい。潜り込むようにして、その態勢で眠っている。

 今も、羽枕から見えるのは、顔の一部だけだった。


「ハロルド」

 ベッドわきに立ち、慎重に声をかける。距離が重要だ。いつも近づきすぎて大変な目に遭うのだから。


「ハロルド」

 もう一度呼びかける。だが、起きない。開けたままの扉からは、姿は見えないがリーの圧力を感じる。早く起こさなくては。

 仕方なく、もう一歩彼に近づく。


「ハロルド」

 ふと、彼の瞳が開いた。

 まつげが揺れ、それから戸惑うように瞼が震える。


「マリア」

 私を認めると、ハロルドはくぐもった声で名前を呼んだ。


「起きて。時間だから」

 言うなり、背を向ける。早く彼の寝室から出なくては。

 そう思ったのに。


「マリア」

 ぐい、と右手を取られ、引っ張られる。痛みを感じる瞬間、体は後方にあおむけにのけぞった。


「ちょっとっ」

 思わず声を上げる。転ぶ。そう予測したのだが、衝撃も、痛みも感じない。


 ただ。

 拘束感と。

 透明度の高い柑橘の香り。


 それから、首筋を撫でる呼気に。


 ……また、今朝も捕まった、と、三度目のため息を吐いた。

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