280話 泳がせて釣り上げる -3-
実際、俺はエステラに詳細を伝えていない。
こちらでトラブルがあったとだけ伝えてもらった。
イメルダからナタリアに伝わり、ナタリアからエステラへ伝わった情報は、俺の意図を汲んで詳細を隠したまま伝達されていた。
そして、詳細が知らされぬまま、トラブルに見舞われた俺たちが揃って姿を現した。
メドラとマグダが腕に包帯を巻き、デリアがドレスに泥を、額に擦り傷を付けて。
その様を見た者は、何かとんでもないことが起こったと思うだろう。
この森の中でそれだけのトラブルが起こったとすれば、原因は魔獣――普通ならそう思う。
どこの世界に最強の狩人メドラ・ロッセルに大怪我を負わせられる人間がいると思うよ。
そんなあり得ない想像を膨らませるより、大人数を守ろうとして魔獣に後れを取ったと考える方が断然自然だし、事実この場にいたほとんどの者がそう信じ込んだ。
俺はもちろん、犯人を人間だとも『暴漢』だとも言っていない。
おまけに俺は、「どんなに素早く逃げようとも、どんなに巧妙に身を隠そうとも」マグダやデリアに怪我を負わせたヤツを許さないと言ったのだ。
俺の言葉の真意は、実行犯に悪事を働かせて自分は陰に隠れている黒幕へ向けた警告ではあるのだが、そんなものはあの場にいた者たちには分からない。
普通、素早く逃げて森に身を隠すなんてのは、人間よりも魔獣に対して使用する方がしっくりくる言葉だ。だから、あの場にいた者がそう信じ込むのは当然だ。
もっとも、犯人が人間だと最初から知っていたならば、「あぁ、あいつはうまく逃げおおせたのか、しめしめ」と思ってしまっても不思議ではない言い回しだがな。
その直後に俺は背後へ視線を向けた。
多くの者は、俺が森を見たのだと思っただろう。
魔獣が逃げていった森を、「絶対許さないからな」と睨みつけたのだと。
だが、犯人が人間だと最初から知っていた黒幕には、俺がデリアを心配して振り返ったように見えただろう。
そうとも取れるように絶妙な角度で振り返ったからな。
こんな単純な罠に、まんまと引っかかっちまったようだな、ウィシャート……いや、黒幕さんよぉ。
認識のズレってのは、当人同士では気付きにくいもんだ。
主語を隠した会話は、当人同士が脳内で勝手に補完して「自分は正しく理解している」と思い込んでしまう。
魔獣のことだと思って聞けばそう聞こえるし、暴漢のことだと思って聞いてもそのように聞こえてしまう。
自分の認識が間違っていると否定する材料がなければ、人はおのれの認識を疑わない。
「人間、一番大切なのはここだ」と胸を指す。
そんな行為をエステラがすれば「心か」と思われ、俺がやれば「おっぱいか」と思われる。
そしてその認識を、誰も疑わない。
ジネットが両手いっぱいの荷物を持っている時、「重そうだな、片方持ってやろうか?」と聞けば、ジネットは荷物のことだと思い、俺はおっぱいのことだと自信を持って言える。
何か楽しい予定がある時に「胸が膨らむ」と言えば……まぁ、もういいか。
つまり、人間なんてのは、どいつもこいつも自分を疑わないもんなのだ。
指摘されるまで、自分が間違ってるなんて思いもしない。
だからこそ、指摘された時に衝撃を受けるのだ。
自分の信じ込んだ事実が、世間と大きく乖離していたことに。
その間に自分が取った行動が大きければ大きいほど。目立っていれば目立っているほど。衝撃は大きくなる。
その衝撃が、羞恥として表れるか、憎悪として表れるかは、そいつ次第だけどな。
この場にいる全員が魔獣だと思っていた襲撃者を、ただ一人『
なぜそのような思い違いをしたのか……
この場にいる者の頭には、とある可能性が浮かんできていることだろう。
ウィシャートが到底認められない、ある可能性がな。
とはいえ、この式典の主催者であるエステラは、これを有耶無耶で終わらせるわけにはいかない。
向かってきた悪意をなぁなぁで済ませてしまっては、四十二区の危機管理能力が問われることになる。
この港は危険だと、この場にいるすべての者に思われてしまう。
「ミスター・ウィシャート」
だからこそ、エステラは神妙な声音でその者の名を呼ぶ。
認めるわけにはいかないとある可能性を、認めるわけはないと知りつつも、問い詰めるために。
だが、それをしてしまうと後へは引き返せなくなる。
面子を潰し、疑惑をかぶせ、追い詰めれば――敵は身構える。
確実に仕留められる間合いにこちらが踏み込むや否や牙を立て、形勢を逆転させるために。
一触即発というヤツだ。
そこまで追い詰めても、ウィシャートは言い逃れをするだろう。
言い逃れて、少し距離を取り、全力で四十二区を潰しに来る。
そうさせないために、エステラには『しばらく泳がせる』と、事前告知してある。
「ご説明願えますか。なぜ、ボクたちが知り得なかった情報を、お一人だけ知っていたのかを――」
エステラは、マーシャが襲われる可能性を知っていた。
だから過剰なまでに警護に力を入れていた。
だが、緊急事態が起こったと言った後、俺たちが目の前に現れた時に怪我をしていたのはメドラたちだった。
それで「よかった」とは思わなかっただろうが、少なからずマーシャの身に危険が及んだのではないと判断したのだろう。
だが、実際はマーシャが狙われていた。
そのことで、エステラは戸惑っている。
驚き、戸惑い、微かに怒りを滲ませている。
純粋過ぎる。
悪意をうまく『いなす』術をまだ持っていないエステラは、こういう状況では極論に出ざるを得ない。
なので、俺が動く。
こいつを黙らせるのは、もっと別のタイミングでいい。
「分からないのか、エステラ?」
エステラには、それはもう一目で恋に落ちてしまいそうなほどの爽やかな笑顔で教えてやる。
「それは、俺がミスター・ウィシャートに教えを乞えばどうかと言ったからに違いない」
きょとんとするエステラ。
周りに気心の知れていない者が大勢いると、エステラは憎まれ口を封印するからなぁ。
猫を被っておとなしめなエステラは、ただの可愛いお嬢様だ。
いくらでも転がせる。
「もし襲ってきたのが魔獣なら、三十区ではなく四十一区の領主に相談するのが普通だろ? だが、俺は四十一区ではなく三十区の領主に教えを乞えと言った。それはなぜか――」
「四十一区の領主がリカルドだから?」
……うん。
それで大体説明できてしまうのがなんとも悲しいところではあるが。今はそうじゃないんだ。
くそ、割と軽口叩けるじゃねぇか、エステラ。猫を被ったお嬢様してろよ。
「それは、襲撃者が魔獣ではなく人だからに違いない。対人の警護であれば四十一区よりも通行量の多い三十区の方が手慣れている。だから三十区の名を挙げたのだろう――と、そう考えたんですよね、ウィシャート殿?」
くるりと顔をウィシャートへ向ける。
こちらも、うっかりドキッとしてしまうような、満面の笑みで。
決して、ときめきではない「どきっ」だけどな。
「ついでに言えば、暴漢が複数だった場合、怪我人はもっと増えているはずだ。なにせあの場所には武に疎い一般人が多数いたのだから――ですよね?」
「ふん……ま、そういうことだ」
物凄く警戒している様子で、ウィシャートが呟く。
もちろん、そんなもんを信じる者はいないだろう。
だが、ここにいるのは領主たちだ。
時として、自分の感情を優先させることが許されない者たちだ。
感情のままに動けば、領民を巻き込んで戦争になる可能性すらある。
領主たちにとっては、真実の追究なんてものよりも波風を立てないことの方が重要なのだ。
時には、答えを出さず有耶無耶のままにすることが最良となることもある。
今がまさにその時だ。
今ウィシャートを追い詰めても、おそらく直接面識がないのであろう暴漢のことなど知らぬ存ぜぬを貫き通し、「無礼な連中だ!」とこちらを非難して過失をこちらへと押しつけてくる。
譲歩などするわけもないから、そのまま三十区と四十二区は睨み合ったまま長い年月膠着状態となる。
それではメリットがない。
だからよ、ウィシャート。
泳げよ。
精々、キバを研ぎ澄ませてよ。
「分かったか、思慮の足りないエステラくん」
「……むっ」
小馬鹿にされたと、エステラが眉根を寄せる。
「貴族は貴族同士、仲良くしたまえ」
ぽ~んぽんとエステラの肩を叩けば、エステラの不機嫌さがレベルを上げた。
そうやって貴族だと線を引かれるのをお前は嫌うもんな。
馬鹿にされたと思ったのだろう。
素直ないい子だ。
「なんなら、俺が警備体制について手取り足取り助言してやろうか? ん?」
「結構だよ。こちらで万全の体制を整えるから」
そうそう。
ここでしっかりと「自分でする」って言っておかないと、ウィシャートが冗談を真に受けて「教えてやろうか?」とか言い出しかねないからな。
四十二区の警備体制はエステラが自分で改善する。
入り込む隙なんぞないんだってさ、ウィシャートさんよ。
「警備は万全に頼むぜ。こっちは港の完成で大儲けを目論んでいるんだ」
「分かっているよ。当然成功させるさ」
「ならいい。じゃあ俺は、可愛いデリアのもとへ帰らせてもらうぞ」
「可愛いデリアぁ!?」
素っ頓狂な声を上げて、エステラが驚愕とも呆れとも取れる表情を見せる。
まぁ、全部終わったら説明してやるよ。
「待て」
エステラのもとを離れようとしたところをウィシャートに呼び止められた。
「貴様、名は?」
ウィシャートが俺に意識を向けた。
「名乗るほどの者ではございません。では」
ここぞとばかりにイヤミな敬語で言って、会釈を残して立ち去る。
ウィシャートの視線が背中にざっくざく刺さってくる。
そうだ、それでいい。
お前は俺を見ていろ。
ターゲットを見誤るんじゃねぇぞ、ウィシャート。
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