追想編15 ジネット -1-

 扉にかけられた札を『Close』にして、本日の営業は終了です。


「お疲れ様です」


 そっとドアを撫でてみます。

 外気に触れていたドアは少し冷たく、けれどしっかりとした安心感を与えてくれます。



 わたしたちの場所。陽だまり亭。



 お祖父さんの代からずっとここに建ち、ヤシロさんが来てからリフォームがされ、今では前の道が大きな街道に変わりました。

 小さな変化も大きな変化もたくさんあって……でも、今も昔も変わらずここにある。


 陽だまり亭は、いつだってここで、この場所で、ずっと待っています。訪れる人を。そして……帰ってくる人を。



 今日は、いつもより少しお客さんが多く、後片付けもたくさんで、終了時刻がいつもより大幅に遅れてしまいました。

 ロレッタさんには先に帰っていただき、ついさっきまで片付けの手伝いをしてくださっていたマグダさんも自室へと戻られて……きっともうお休みになられた頃でしょう。


 一度、背後を振り返ります。

 大通りへ向かう道は明るく、以前とは比べ物にならないくらい見通しが良くなりました。

 一人で外にいても、もう怖くはありません。


 それもこれも、みんな……


「…………」


 少しだけ、胸がチクッと痛みます。

 けれど、これは言葉にしてはいけない痛み。


 誰よりも優しいあの人に、心配などかけたくありませんから。


「やっぱり……もう少しだけ」


 呟いて、わたしは『Close』にした札をひっくり返し、再度『Open』にします。

 今日は特別に、もう少しだけ営業しましょう。

 もう少しだけ。


 食堂へと入り、ドアを閉めます。

 さて、どうしましょうか。


 片付けはあらかた終わってしまいましたし、仕込みは明日の朝やることです。

 お料理を作ろうにも、食べてくれる人がいませんし……


 あぁ、そうです。


「クズ野菜の下準備なら、今からでも出来るかもしれませんね」


 今ではめっきり注文されることがなくなりましたが、クズ野菜の炒め物は今でも陽だまり亭のメニューにその名を連ねています。

 クズ野菜をカットしておくくらいなら、今やっても問題ないでしょう。


 ウェンディさんの結婚前に、みなさんで行った料理教室。

 あの時、クズ野菜の炒め物を久しぶりに作って、なんだか楽しいなって思ったんです。

 結構手間のかかる料理なのですが、どうやらわたしは、その手間が好きなようです。


 また、誰かが注文してくれたりはしないでしょうか。


 そんな、期待とも希望とも取れない思いを胸に、厨房へと入り、アッスントさんに破格のお値段で譲っていただいたクズ野菜を広げます。

 さて、何からかかりましょうか?

 手強いニンジンさんのヘタですか?

 それとも、最初は手を慣らすために葉野菜を刻みましょうか……


 ふふ。やっぱり、お料理は楽しいです。


 それからわたしは、しばしの間無心でお料理を楽しみました。



 どれくらい時間が経ったでしょうか。

 不意に、ドアの開く音が聞こえました。

 以前は、風でドアが揺れたり、音を鳴らしたり、軋みを上げたりしていたのですが、リフォーム後はそのようなことはなく、ドアを鳴らすのはお客様くらいになっていました。


 そういえば、先ほど店の前の札を「Open」にしたんでした。

 ということは、お客様でしょうか。


 わたしは慌てて手を拭い、フロアへと駆けていきました。


「……あっ」


 そこに立っていたのは、ヤシロさんでした。


「よぅ。まだやってるのか?」


 そう尋ねてくる様は……なんだか、初めて会った日によく似ていて……

 胸が、熱くなってきました。


「はい。まだ営業中です。お食事になさいますか?」

「そうだな……」


 と、ここでヤシロさんがにやりと口角を持ち上げました。

 あの顔は、イタズラ好きな子供のような顔。

 楽しい冗談を始めようという顔です。


「こんな時間に、悪いな」


 わたしの記憶にあるセリフとまったく同じ。

 あの日の言葉を、ヤシロさんが口にします。

 なので、わたしも……


「いいえ。材料もすごく余っていますし、全然大丈夫です」


 あの日と同じ言葉を返します。

 するとヤシロさんが嬉しそうな顔をするので、わたしもつられて、笑顔になりました。


「それでは、さっそく準備をいたしますね。お好きなお席でお待ちください」


 そう言って、わたしは厨房に入ります。

 厨房に入って、もう見られていないなと思った途端、歩く足は軽く弾み始めます。

 スキップをして作業台の前まで行きます。



 嬉しい……



 ヤシロさんの顔を見て、最初に感じたのは、そんな感情でした。

 今日一日、お仕事をしている間もずっと、本当は不安で……もし、出て行ったきりわたしのことも陽だまり亭のことも忘れてしまって、もう二度と帰ってこないのではないか……そんなことを、ほんの少しだけ考えていたりしましたから。

 けれど、それは杞憂に終わり……ヤシロさんは、ちゃんと帰ってきてくださいました。


 それが、なんとも言えず……嬉しいんです。


 お料理も、食べてくれる人がいると思うとすごく楽しいです。

 どんなに手間のかかるものだって、どんなに難しいものだって、食べてくれる人がいると思えば途端に楽しくなります。


 今にも歌い出しそうな気分になり、わたしはクズ野菜に熱を加えていきます。

 あ、でも。歌は歌いません。以前ヤシロさんに「独特なメロディだな」と、笑われたことがありますので。……あれは、とても恥ずかしかったので、歌はもう……


 硬く、火の通りにくいものから順に熱していきます。

 美味しいと言ってくださるでしょうか。不安でもあり、また、楽しみでもあり…………あっ。


 大切なことを忘れていました。

 フライパンを火から下ろし、わたしは慌ててフロアへと駆け戻ります。


 フロアに出ると、ヤシロさんはいつもの席に座っていました。

 こちらを向いて、にやにやと、ほんのちょっとだけ意地悪な笑みを浮かべています。

 ……これは、絶対にからかわれますね。


「あの、ヤシロさん」

「ん? なんだ?」

「その…………」


 どうせなら。

 先ほどの冗談の続きを……


「ご注文は、お決まりですか?」

「いや、お前……もう何か作り始めてるよな?」

「はい、うっかり。それで、もうすぐ完成というところで『あ、注文聞いてないや!』ということに気が付きまして」


 あの時と同じセリフを思い出し、汗をかきながら言います。

 あぁ、でも、ヤシロさんの笑顔を窺うに、わざとではなく、本当に聞き忘れたのだということはお見通しのようです。

「じゃあ、その完成間近のものでいい。それにしてくれ」

「はい。あの……」


 ヤシロさんは、失敗を怒りません。

 どんな言葉を口にしようとも、決して本心から他人を責めるようなことを言いません。


「優しいですね。やっぱり」


 初めて会ったあの日に感じた思いは、間違っていませんでした。


 厨房へ戻り、もう一度フロアへと視線を向けると、ヤシロさんが「早く行け」とばかりに手を振りました。


 一つ、変わりましたね。

 最初、ヤシロさんはあのテーブルで、こちらに背を向けるように座っていたんですが、今はこちらを向いて座るようになりました。

 わたしが厨房へ出入りする際、よく視線が合います。

 それが、わたしは堪らなく嬉しいんです。


「……みゅぅ」


 そんなことを思うと、少し恥ずかしくなりました。

 それではまるで、わたしはいつだってヤシロさんを見つめているということになって……それはさすがにちょっと、恥ずかしいような……気がします。


 クズ野菜の炒め物を作り、盛り付けて、ご飯は少し大盛りで、ヤシロさんのもとへと運びます。


「お待たせしました」

「お前は食わないのか?」


 向かいの席を指さしながら、ヤシロさんが言います。

 あの指は、座ってもいいという許可でしょうか。わたしが、人が食べている姿を見るのが好きなことを知って、そうしてくれているのでしょう。

 ではお言葉に甘えます。


「失礼しますね」

「ん……悪いな」

「悪い?」

「……一人で食うのは、ちょっと、その……寂しくてな」


 寂しいと言って、少し照れた素振りを見せるヤシロさん。

 どうやら、わたしは勘違いしたようですね。

 わたしのために言ってくださったことではなかったようです。

 少し、自意識が過剰だったみたいでお恥ずかしいです。


 あ、でも。

 ヤシロさんなら、『そういうことにして』わたしたちのために何かをしてくださることが多々ありましたので……一概には判断できかねますね。


「それで、メシは?」

「いえ、わたしは」


 食べてはいませんが、お腹が空いていません。

 お料理を作っていると食べた気になってしまいます。

 それに……ほんの少しだけ、ですが…………胸が苦しくて。


 ダメですね。

 ヤシロさんの顔を見ても、まだ胸がきゅっと詰まっています。


 ちゃんと笑顔を作らなければ、またヤシロさんに迷惑をかけてしまいます。


 ちゃんと笑って…………と、目の前にお箸が差し出されました。


「……へ?」

「少しくらい食っとけ」


 そう言って、ヤシロさんがご自分の野菜炒めをわたしに差し出してくれます。

 一口分――葉野菜と根菜がバランスよく混在した、美味しそうな一口分を。


 これは、ご厚意に甘えておくべきでしょう。

 ……少し、照れてしまいますけれど。


「あ、……あ~ん」


 そう言って口を開けると、ヤシロさんのお箸が口の中へと野菜炒めを運んでくれました。

 とても美味しいです。

 でも……やっぱり、ちょっと恥ずかしいです。


 だって、わたしが口を付けたあのお箸はこの後ヤシロさんの口に…………これは、絶対に口外できませんけれど。

 そんなことを口にしたら『そういうことばかり考えている』と、思われてしまって……それは、とても恥ずかしいです、から。


 そんなことを考えていたからか、それとも、ヤシロさんがあまりに美味しそうに食べてくださるからか……わたしの顔はぽーっと熱を帯び、赤く染まってしまったのでした。


 ……少し、熱いですね。


「あの、ヤシロさん……お食事が済んだらで、構わないのですが」

「ん?」

「少し、お散歩に付き合っていただけませんか?」


 夜の散歩。

 それは以前、お祭りの後にもしたことがあり、美しい光の道をヤシロさんと二人で歩くのは本当に楽しくて……終わってしまうのを惜しいと感じたほどでした。

 あの時が初めてかもしれませんね。陽だまり亭に、あと少しだけ……戻りたくないなと、感じたのは。


「散歩か。いいな」


 お箸を揃えて置き、ヤシロさんは頷いてくれました。


「行くか、久しぶりに」

「はい」


 お行儀の悪いことかもしれませんが……洗い物は後回しにして、わたしとヤシロさんは夜のお散歩に出かけることにしました。





 夜の風は少し冷たくて、微かに肩をすくめてしまいます。


「寒いか?」

「いえ。……あ、やっぱり、寒いですね」


 ここで「平気」だと言えば、きっとヤシロさんはずっとそのことを気にかけてくださいます。

 負担にはならないように、素直に上着を持ってきましょう。


「少し待っていてくださいね」


 そう言って足早に上着を取りに向かいます。


 マグダさんを起こさないように、そっと階段を上り自室へと入る。

 壁にかけた上着を手に取ると……壁際の棚が目に入りました。

 この棚には、わたしの宝物が並べてあります。


 ヤシロさんにいただいた、『2.5頭身フィギュア』という、可愛らしいお人形さん。

 教会の子供たちが描いてくれた、わたしの似顔絵。

 教会を出る時にシスターからいただいた、精霊教会の紋章入りのペンダント。

 お祖父さんが使っていた古い、ボロボロになった包丁。


「あ……っ」


 そして、初めてもらった『誕生日プレゼント』――ソレイユの髪飾り。

 傷を付けるのが怖くて、今まで一度もつけて出かけたことがないんですが……


「今なら……」


 ヤシロさんも一緒ですし。人混みに揉まれて落としてしまうこともないでしょうし……



 それに、今日は特別な日でも、ありますし。



 慎重な手つきで、わたしは髪飾りを自分の髪へと留めます。

 鏡を見て、髪飾りが一番綺麗に見える角度で…………これくらいでしょうか?


「この髪飾りを見たら……ヤシロさんは、わたしを忘れないでいてくださいますでしょうか」


 ヤシロさんに無理はさせたくありません。

 もし、忘れてしまうのであれば……その瞬間まで、せめて普段通りでそばにいたい。


 けど、出来ることなら……


「……精霊神様。どうか…………」


 とても、利己的なお願いではあるのですが……


「……これからもずっと…………」


 ヤシロさんと、一緒にいられますように…………



 それから、数分だけお祈りをして、急いでヤシロさんのもとへと戻りました。


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