世界よ、彼らの名を忘るるな

小金瓜

世界よ、彼らの名を忘るるな

 むかしむかし、高い岩山のてっぺんに一匹の怪物が棲んでいました。

 頭に骸骨のような被り物をした、大きな紺色の鳥の怪物です。いえ、被り物ではなくそれは怪物の頭そのものだったのかもしれません。虚ろな眼窩がんかの中では、いつも金色の眼が不気味に輝いていました。

 巨大な翼は一打ちで大風を起こし、二本の鉤爪は岩だって粉々にしてしまいます。たなびく尾羽は長く、怪物自身の大きな身体をぐるりと一周させてもまだ余るほどです。

 こんななりをしていながらも、この怪物はとても賢い生き物でした。恐らく嵐の精か何かなのでしょう。

 しかしそれと同時にやや傲慢でもありました。遥かな高みから人間たちを見下ろしては、その愚かしさを嘲笑うのがこの怪物の常でした。幸い人間を食べると穢れると思い込んでいたため、怪物が人間を襲う事も、そもそも山から降りてくる事も滅多にありません。


 厚い雲が空を覆う、薄暗い日のことです。長い眠りから覚めた怪物は、山に侵入者がやってきたことを知りました。風が怪物に知らせたのです。怪物は重い腰――鳥の腰がどこだかは分かりませんが――を上げて、翼を羽ばたかせました。

 おろしです。冷たい風が猛烈な勢いで山を下り、石つぶてを吹き飛ばします。もう山頂すぐそばまで来ていたのでしょう、人影が跳ねる様に大岩の影へと隠れました。

 怪物はあまり羽ばたかず、翼を広げ滑空して人影の近くへ降り立ちます。別に侵入者をおもんばかってのことではなく、高所から低所に移動するにはそれが都合よかったというだけでしたが。

 人影は一人の娘でした。年頃は一四、五くらいでしょうか。陽光のような長い金髪を首の後ろで一つに纏めています。眼は晴れ渡った空の色。丁度怪物の羽毛の様な紺色のワンピースに、白いエプロンと三角巾を身に付けていました。そしてそれらと娘の肌は、傷だらけのボロボロでした。

 怪物は娘の装いに見覚えがありました。それは山のふもとで暮らす一族の民族衣装でした。何でも怪物のことを風の神として祀っているらしく、山を聖域と見なしている彼らがここに来るのは滅多にない事です。


 可哀そうに、娘はすっかり縮み上がっていました。傷も相まってだいぶくたびれているようにも見えます。しかし恐れが見えるのは身体だけで、凛とした顔は強張りながらもじっと怪物の眼を見つめています。そしてすぐに小さな手で何かを怪物に差し出しました。捧げる、と言った方がより正確でしょうか。

 それは一切れの、固焼きのパンでした。しかしただのパンではありません。彼らの先祖の動物である狼の姿を焼き付けた、祭りの時にしか食べられない聖なるパンです。娘は頭を下げたまま、怪物に向かって口上を述べます。


「いと高き山を統べし風神よ。空の厚雲を払い、光をもたらし給え」


 いかにも『覚えてきた言葉をそのまま言いました』とばかりの平坦な声でした。

 しかし、怪物はパンには目もくれません。それもそのはずです。怪物は生まれてこの方、人間の食べ物を口にしたことがありませんでした。雲を食らい雨露を飲んで、今まで生きてきたのです。

 しばらく睨み合いが続きました。祈りが届かなかったと悟った娘はパンを引き下げ、腰に提げた袋の中に仕舞います。そして自分の胸に手を上げて、こう続けます。


「肉の方がお好みでしたら私の身体を捧げましょう」


 今度の声は、前よりもずっと感情的でした。思い付きで言ってみたのでしょうか。しかしその申し出は、怪物の好みからは更に離れています。

 怪物は娘を罵ろうとしましたが、止めました。怪物には怪物の言葉がありましたが、それは人が百年かかっても理解できるようなものではありません。耳で聞き取る事さえ困難でしょう。

 さっさと山から蹴落としてしまおうか、と怪物が考え始めた時、娘は再び話し始めます。


「族長の子である私に白羽の矢が立ち、御山に登る役を仰せつかりました。私の村ではもう長い間日の光を見ていません。既に作物が育たず皆が飢え始めています。どうかその御力で、空から雲を払い給え」


 情に訴えるような台詞と、初めのような祈り。それを聞いた怪物に、情けや憐れみと言った感情は浮かびません。代わりに、もう長らく雲を食べていないことをやっと思い出しました。

 怪物はいつも気流を操って雲を集めています。時には台風を呼びよせて、その中の一番美味しい中心の雲だけを啄んでいく事さえありました。台風の真ん中に雲がないのはそのためです。

 そして、怪物は何か月も前に雲を呼んだきり寝てしまって、肝心の食事を忘れていたのです。

 一度思い出したらいても立ってもいられません。怪物の翼が地面を一打ちしました。風が娘の身体を吹き飛ばし、その頭から三角巾を巻き上げます。

 娘は二、三回地面を転がって、そこで止まりました。仰向けに横たわる娘の顔に、紺色の大きな羽根が一枚、ひらりと舞い落ちました。


 怪物は久々の食事を楽しみます。普段は口にする雲を選り好みして多くを残してしまうのですが、今日ばかりはそうも言っていられません。人間など一呑みにできそうな大口を開けて、片端から雲を啄んでいきます。

 何か変な白いものも口に飛び込んできたようですが、怪物はその時は気にしませんでした。

 鉛のように空を覆う灰色の雲は、みるみるうちに減っていきました。空からは徐々に日が差して、地上が明るくなっていきます。

 蒼天を翔ける怪物の姿を見て、麓の村の人々は皆次々に地にひれ伏しました。やっとの思いで下山した娘も、仲間の賛辞を聞きながらその一員に加わります。その手には、やはり紺色の羽根が握られていました。




 面倒な奴が来たものだ、と怪物は思いました。件の娘が、怪物の羽根を手に山に再び登ってきたのです。

 山には怪物以外にも様々な魔物や、妖精や、精霊が棲んでいました。前に会った時娘が傷だらけだったのは彼らの仕業でしょう。しかし山の主である怪物の羽根を持っている今、娘は我が物顔でこの山を歩き回れるようになっていたのです。

 怪物の予想通り娘は山頂までやってきます。怪物と初めて相見えた場所です。あらん限りに張り上げられた娘の声が、強い風を裂いて響きました。


「いと高き山を統べし風神よ! 御礼を奉(たてまつ)る!」


 怪物は寝床から一歩も動こうとしませんでした。すると娘はズンズンと怪物の寝床、山で最も高い洞穴まで近付いてきます。このまま寝床に入られてはたまらないので、怪物は翼を一打ちして突風を起こしました。


「ぎゃあああ!」


 うら若き乙女に相応しいとは思えない声と共に、娘はゴロゴロと斜面を転げ落ちて行きます。しかし風が止むや否やすぐに跳ね起きて、再びズンズン近付いてます。

 この諦めの悪い来訪者に、仕方なく怪物は寝床から出て行きます。今度こそ直接蹴落としてやるためです。あの鉤爪で人間を蹴ったら山から落ちる前に首が落ちてしまいそうですが、怪物にとっては些末なことでした。


 怪物の近くに来た娘は、前のように傷だらけの格好で、前のように何かを捧げ持ちます。それは村から集めてきたであろう金銀や宝石の類でした。


「その、パンも贄もお好みでないなら……これぐらいしか」


 さっきまでの威勢はどこへやら、娘はまごまごした様子で怪物の動きを待ちます。

 ところが怪物は金銀財宝にも興味はありませんでした。あんなものを好むのは下等な人間とがめつい竜どもくらいだと馬鹿にしていたのです。

 その上怪物の喉の奥には変なものが引っかかっていました。それが気になって仕方ありません。きっと前に雲を食べた時に口に飛び込んたものでしょう。

 ひとしきり嘴をもごもごさせた後、怪物は少女の足元に、勢いよくそれを吐き出します。

 風で舞い上げられて以来行方不明になっていた、娘の三角巾でした。雨と雲の水分でびちょびちょになっていましたが、娘はそれを見て目を輝かせます。


「風神様……私などの為にわざわざ探して下さったんですね」


 違う。怪物はそう言いたかったのですが、やっぱり人間に話しても理解されないので止めました。

 一方娘は少し居住まいを正し、神妙な態度で怪物に問います。


「風神様の御名前を教えて下さいませ。御身の御名前を私の村で永遠に語り継ぎましょう」


 しかし怪物は黙ったままです。

 怪物にはこの世の言語の数と等しいだけの、たくさんの名前がありました。――それらは全て『嵐』を意味する言葉でした。人間が、怪物を見て付けた名です。

 人間側で勝手に名付けておいてそれを今更訊くとは何事か、と内心憤っていたのですが、その憤りに反し娘を蹴落とそうという気持ちは不思議と失せていました。

 それが残っていたら今頃娘は地面に飛び散る血と肉塊になっていた所ですが、怪物はこのどこか変わった娘に興味を持ったのでしょう。今までの長い長い生は退屈で、そろそろ刺激が欲しくなる頃ですから。


「失念しておりました。名を聞くにはまず自分が名乗らなくてはなりませんね。私はアウリと申します。文字は、こう」


 娘――アウリは地面にしゃがみ込み、そこに小刀で名前を刻みます。

 彼女の父が見たら『神聖な御山に何ということを!』と拳骨が飛ぶ所でしたが、今ここには山の主である怪物しかいません。そしてその怪物はアウリの行為を黙認しています。


「して、風神様の御名前は……教えて下さらないのですね」


 では、私が名を付けてもよろしいでしょうか? 続いた言葉には流石の怪物も耳を疑いました。

 しかし悲しいかなこれが人間というものでした。既にそこにいた『何か』に名を付けて、時に崇め時に恐れる。神というのはそうしてできていくのです。それは怪物も例外ではありません。


「ギューテ」


 少し考え込んでから、アウリは短く言いました。そして自分の名前の上方に、その名を刻みました。上方にしたのは彼女なりの敬意でしょう。

 怪物の骨の頭が名を覗き込みジロジロ眺めます。肯定の意志表示のつもりでした。元より沢山の名前を持っている身ですから今更一つ二つ増えた所でどうということもないのです。

 山の斜面に二つの名前。アウリは立ち上がると、怪物――ギューテに礼をして、言いました。


「風神ギューテ。御身の慈悲を末代まで語り継ぐことを、ここに誓います」


 そしてようやく、怪物に背を向けて下山しようとします。懐から羽根を取り出すと――それは山を取り巻く強風によって吹き飛ばされていきました。


「あぁっ!」


 アウリはぴょんぴょん飛び跳ねて羽根を取り戻そうとしますが、無理でした。あれが無くては、帰り道はきっとひどい目に遭うでしょう。

 落胆しているアウリの頭上に、日光を遮って大きな影が現れます。見上げるとそこには骨の頭。真っ暗な穴の中の金色の双眸が、アウリをじっと見下ろしていました。

 そして紺色の羽根が一枚だけ、上から降ってきました。不思議と風に飛ばされることはありません。アウリは両手でそれを受け止め、ギューテの顔を見上げて訊きます。


「……下さるのですか?」

 もう無くすなとばかりに脚を一度だけ踏み鳴らすと、ギューテはふいと背を向けて寝床に戻ってしまいました。

 アウリはその背中にもう一度、深々と頭を下げました。そして羽根をしっかり握りしめて、山を下りて行きました。




 その日の夜は、雨が降りました。雨露と雲をしこたま飲み食いする絶好の機会です。

 しかしギューテは飛び立ちませんでした。雨の中、翼を片方だけ広げてじっと地面に座り込んでいます。

 その翼の下には、アウリが地面に刻んだ二人の名前がありました。




 あれ以来、ギューテの元にアウリは度々やってきました。若い娘が登るのに決して楽ではない山でしたが、アウリはそれでもギューテに会いに来ます。

 どうも今までの事がきっかけで、ギューテに仕える巫女のような立場にされたらしいのです。当の本人はそれを歓迎しているような節がありましたので、特に問題はないのでしょう。


 彼女は主に村の事を話します。誰それが結婚するので贈り物を祝福してほしいとか、祭りがあってそこでギューテを讃える詩を謳うことになったとか、そんなことです。

 それから、山では見られないもの――例えば色とりどりの花や、手製の木彫り細工や、都から買い取ったという珍しい獣の毛皮などを持ってきて、それをギューテに見せました。自然に近しい存在のギューテには、ぎらぎらした財宝よりはこちらの方がずっとお眼鏡にかなうものでした。

 なんだかんだありながらも、ギューテはこの客人を好ましく思っていました。山に棲む他の連中達とも顔なじみになっていたようです。それが無性に気に入らなくて、アウリに最初に話しかけたという風の精霊を脅してしまったのはまた別の話ですが。


「ギューテ、私はそろそろ帰ります。もう陽が暮れてしまいますので」


 何度目かの来訪の日。もう太陽が傾き始めた頃にアウリは言いました。

 すぐ隣には、地面の一部分を覆うように石が組まれています。雨の日にずっとああしている訳にはいかないからと、ギューテが作り上げたものです。二人はいつも、この辺りで話をしていました。

 ギューテは何も答えません。それもいつものことでした。しかし、異変はすぐに訪れます。

 あれほど綺麗だった空が俄かに雲に覆われて、みるみるうちに暗くなっていきます。ついにはざあっと雨が降り始め、とても山を下りられる天気ではなくなりました。


「え? え?」


 手のひらを返すかのような勢いで変わり身を見せる空に、アウリは戸惑いを隠せません。そんな彼女を、ギューテの翼が覆います。

 それからその翼で背中を押すように促し、自分はズンズン歩いていきます。山のてっぺんにある寝床へ。アウリは慌てて、翼の外に出ないように小走りでついていきました。


 ギューテの寝床は大きな洞穴です。あの巨体がすっぽり納まってしまうのですから、人間でしたら十人は横になれます。硬い地面の上にはギューテのものなのでしょう、ふわふわした紺色の綿羽が敷き詰められています。

 ギューテはその上に乗ると、翼を畳んで地面に伏せました。


「あの……いいんですか? 入っても」


 アウリは洞穴の入り口で恐る恐る尋ねました。するとギューテは右の翼をほんの少し持ち上げて、身体との間に隙間を作りました。

 潰されやしないかとはらはらしながらも、アウリの足が洞窟に踏み入ります。そしてギューテの翼と身体の間に身を潜めます。綿羽は暖かくてふかふかです。

 外はもう真っ暗なくらいで、降り注ぐ大粒の水滴がやかましく騒いでいました。それを眺めながら、


「今日はここに泊まっていいですか?」


 アウリは呟きます。やっぱりギューテは何も答えません。しかしそれでも、なんとなく言いたいことは分かりました。

 ギューテの翼の下で、くすくすと笑う声がします。そして少しの物音と衣擦れの音が聞こえます。


「おやすみなさい、ギューテ」


 その一声と共に、アウリは目を閉じました。

 ギューテの眼窩からもまた、金の光が消え失せます。アウリと一緒に、ギューテは久方ぶりの眠りに就きました。




 目が覚めた時、ギューテはひとりでした。翼の下にあったはずの小さな温もりはもうありません。

 ギューテは首を巡らせながら洞穴の外に出ます。天気はまだ若干悪く、空は厚い雲に覆われています。

 一体アウリはどこへ行ってしまったのでしょう。一人で帰ってしまったのでしょうか、それが気になって仕方がありません。ギューテは羽ばたき、風を唸らせながら山を飛び立ちました。




 山から下り、高度を落とすと地上が見えてきました。麓の村です。しかし前に見た時より活気はなく、感じたことの無い妙な気配が渦巻いています。

 雲を割って降りてきたギューテの姿に、村人たちは家から飛び出し右往左往します。そして一番立派な家から、一人の娘が出てきます。

 娘はアウリでした。最後に会った時より少し大人びています。アウリは空にいるギューテを見上げ、あらん限りの声を張り上げて叫びました。


「来るなぁっ!!」


 友にこのような仕打ちを受けるとは、流石のギューテも予想していませんでした。ギューテはアウリの真意を掴めないまま、村の真ん中にある広場に降り立ちます。風で近くの家の扉が壊れ、柱が軋んで音を立てました。

 その間アウリはずっと、来ないで、帰ってと叫んでいましたが、もう間に合わないと知るやギューテの元に駆け寄って行きました。

 そして立派な家から、もう二人の人間が現れました。一人は壮年の男で、よく見るとそれは村長でした。顔は老け込み、頭の白髪はだいぶ増えています。

 ギューテはその時ようやく、自分が眠り過ぎていたことに気付きました。ギューテにとっては一瞬の眠りでも、人間にとっては長い時間だったのです。

 もう一人の人間は若い男でした。彼は村人たちとは違う形の、真っ白い服を着ています。全体的に他の人間達よりずっと身綺麗です。


 この男が村人でないのは明白でした――村で殺生が禁じられているはずの、狼の毛皮を持っていたからです。その真白い毛並みは、ここら一帯の森林を統べる群れの長のものでした。

 村人たちにとって狼は先祖であり、守護者であり、神に等しい獣なのです。男はその狼を目に見える形で冒涜していました。しかしそれを咎める村人は、なぜか一人もいません。近くにいる族長はただただ苦い顔をするだけです。


「一匹処分したと思ったら、まだいたのですね」


 若い男は言いました。一匹、というのは手に持っている狼のことでしょう。

 アウリはギューテに男の事を、そして今までの事を話しました。

 男は都から来た者で、人身を持つ光の神を祀る神官でした。しかし都人の光の神への信仰が過ぎるあまり、辺境の民族が崇める獣の神を、下等な蛮神と見做す風潮が起こってきたというのです。


 そしてその余波はこの村にも届きました。この地に根付く『蛮神ども』を処分し、人々を文明の光で教化するという名分を掲げて、神官たちはやって来たのです。

 もちろん、村人たちが何の反抗もしなかった訳ではありません。しかし村と都では生活水準に大きな差があります。権力や武力にも差があります。都の生活に憧れる者、地位と名誉に目の眩んだ者、脅しに屈し膝を折る者が現れるのも無理はないことです。――中には、村の皆で敬愛したはずの狼神の情報を売った者さえいました。


 部族の象徴である狼神が殺された時、この村は『教化』されてしまったのです。


 ギューテが眠ってからしばらくの間、アウリは今まで通り山に通っていたのでしょう。しかし神官たちが村に来てからというもの、名目上風神の巫女であるアウリには監視の目が付き纏いました。こんな状態で山に行ってはギューテの居場所を教えてしまうと、アウリはどこにも行かず神官たちが早く去るよう祈っていたのです。しかし、もう手後れでした。

 村人たちは次々と家に篭り、代わりに白い服を着た人々が現れます。皆下級の神官です。その内の一人が、リーダー格であろう族長の家から出てきた神官に弓と矢を渡します。


「お願い、もう帰って……。ここにいたらあなたまで殺されてしまいます……」


 アウリはギューテに縋りついて、嗚咽を漏らしながら声を絞り出しました。

 ギューテはその気になれば村一つくらい簡単に吹き飛ばせます。しかし村の事を話す時のアウリの顔を思い出すと、どうしても村を壊す気は起きませんでした。それにここで暴れては、アウリも死んでしまうかもしれません。


 第一ギューテは矢に撃たれるぐらい痛くも痒くもないのです。あの神官どもが本気で自分を殺すつもりなら笑いものだと、その時のギューテは思っていたのでした。アウリは自分の傍にいますから、万が一にも人質に取られることはありえません。翼で覆えば矢に撃たれることもないでしょう。

 そんなギューテの思いなど露知らず、神官は弓に矢を番えます。その矢が神を殺すために作られた呪いの矢であることは、神官たちしか知らないはずです。


「我らが神に盾突く蛮神よ、ここで調伏されるがいい」


 神官のその言葉を最後に、矢が放たれました。

 何がアウリを突き動かしたのか、それは周りの人にも、ギューテにも分からなかったでしょう。もしかしたら、矢の事をどこかで盗み聞いていたのかもしれません。勢い良く振り向いたアウリは、ギューテに向かって飛来する矢の前に飛び出しました。

 アウリの小さな体を一本の矢が貫きます。飛び散る血は呪いのせいかどす黒く変色していました。


 ギューテは、地面に崩れ落ちたアウリの姿を覗き込みました。傷口は血と同じ色に侵食され、徐々に腐り落ちていきます。しかしアウリは悶えたり苦しんだりせず、静かに地面に横たわっています。神を呪い殺す矢が、どうして人の身に耐えられましょう。

 事態を窓から見ていた族長が、血相を変えて家から飛び出してきます。しかし下級神官たちに止められ、乱暴に家の中に押し込まれました。


「全く、余計な邪魔が入りました。しかしどの道蛮神に仕える巫女など生かしておけませんからね。処分が早まっただけです」


 神官は次の矢を用意しながら、淡々と吐き捨てました。そしてギューテの方を向き、その光景に目を見開きました。他の神官たちも呆気に取られています。

 アウリの亡骸を嘴で咥えたかと思うと、ギューテは天を向いてその亡骸を矢ごと喰らったのです。本来雲を吸い込んで食すギューテは咀嚼することを知らないはずでしたが、今はアウリの全てを味わうように亡骸を噛み砕いて呑み込んでいきます。

 それを見ていた神官は、わなわなと震えながら再び弓を番えます。


「やはり人喰いの邪神でありましたか……。何と穢らわしい」


 矢羽が神官の手を離れる前に、怪物は再び天を向きました。そして、嘴を開けて、長く長く啼きました。その啼き声は、雷鳴でした。

 稲妻が空を引き裂き、轟音を立てて大地に激突します。空の雲は闇より暗い色に変わり、強風があちこちで吹き荒れます。怪物の感情に呼応するように、弾丸のような雨粒が辺りに降り注ぎました。

 村のあちこちの地面が怪物の声と共に抉れ、その真ん中に原型の分からない焼死体が残りました。皆神官だったものたちです。


 怪物は巨大な翼を一振りし、地面に打ちつけました。生じた暴風が村人たちを家ごと吹き飛ばします。ある者は空中で瓦礫と踊り、ある者は高所から地面に叩きつけられ、次々と命を落としていきました。

 今や怪物に村を守る意味はありません。その証拠に、かつて村であったこの土地には、今は建物の残骸と生き物の死体しか残っていないのです。

 命という命が失われた惨たらしい破壊の跡から、怪物は黒雲渦巻く空へ飛び立ちます。長く尾を引く啼き声を轟かせながら……。




 真っ新な荒地に、一つの高い岩山がありました。麓に湖が一つあるのに、地面には草の一本も生えていません。

 岩山は中腹から瘴気に覆われていて、人の侵入を拒んでいました。立ち入った者は突然もだえ苦しんだり、迷子になって下山できなくなったりするからです。しかも山ではいつも強い風が吹いており、それが嘆き悲しむような不気味な音に聞こえるというのです。

 どうしても山に立ち入るならば、山頂近くの『組石』には絶対に触れてはならないというのが掟です。ある命知らずがそれに触れた所、風に身体を引き裂かれて命を落としました。今はこの掟を破る者はおろか、『組石』に近づく者すらいません。

 その下に刻まれた二つの名前を知る者も、今は一人もいません。

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