序章 昼下がりの追跡劇

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聖歴一六三〇年五月十四日(皇紀八三六年植月十四日)

ポルト・ジ・ドナール 帝国租界 帝国高等弁務官事務所付近 十四時00分


 民主国同盟『同盟』が戦った、アキツ諸侯連邦帝国『帝国』と神聖王国連合『連合』との十三年にも及ぶ『全球大戦』の後、その原因となった南方大陸の覇権をめぐる紛争防止のため、三勢力は互いの南方大陸における主要都市に外交や経済活動の拠点とを置くことを取り決めた。

 これがゆわいる『租界』である。

 同盟の南方大陸における中核都市であるポルト・ジ・ドナールには、かつての敵(無論、今でも仮想敵ではあるが)の帝国と連合の租界が設けられ、その行政府として、または在外公館としての役割を担う『高等弁務官事務所』が置かれている。

 帝国租界の高等弁務官事務所は、租界のほぼ中央にある広場、通称『弥栄広場』に面した7階建ての重厚な石造りの建物ビルヂングにある。

 その弥栄広場を挟んで正面に建つ五階建てのレンガ造りの集合住宅アパートメントの最上階の一室に、一人の若い女がやって来たのはちょうど昼の二時を過ぎた頃だった。

 丈の長い菫色の女袴スカートに飾り気のない白一色の寛衣ブラウス女袴スカートと同色の短い上着ボレロを羽織り、空色の飾紐リボンをあしらったカンカン帽を目深にかぶったその女は、目的の部屋まで来ると分厚い木の扉を奇妙な節をつけて叩音ノックしする。

 扉の向こうから現れたのは屈強そうな若い男。豊かな胸元を除けば華奢ななりの女と比べれば一割二割増しの体躯の持ち主なのだが、彼女に対し恭しく目礼し中へ通す。

 対して女は素っ気なく一瞥をくれただけで中にだまって進んでゆく。

 室内は実に奇妙な有様で、調度と呼べるものは仮眠ができるように毛布が置かれた長椅子と、缶詰や瓶詰、飲料水の瓶が雑然と置かれた机や数脚の椅子があるばかり、それに窓と言う窓の周りには分厚い黒い窓帷カーテンが五十 センチほどの間隔をあけて二重に降ろされ、その向う側にはに何人もの黒衣の男たちが三脚で支えられた巨大な望遠鏡付きの写真機を覗き込んだり、帳面を付けたりしている。

 部屋を取り仕切っていると思しき短髪メガネの男は彼女の姿を認めるなり、直立不動の姿勢を取りいささか緊張した声で。


「ご苦労様です。同志ツェルガノン、事前にご連絡いただければ迎えをよこしましたのに」


 これにこたえるように、彼女はカンカン帽を脱ぐ。

 現れたのは頭の後ろで結い上げられた豊かな麦の穂色の髪、化粧気を一切感じさせない端正な面持ち。

 蒼氷色の瞳で冷ややか男を見つめつつ、形の良い小さな口を開く。


「租界への出入りも高等弁務官事務所の入館者も急に増えたというので視察に来たわ。検問所での確認は的確にできているの?混乱は来していない?」


 メガネは取り繕うような薄笑いを浮かべ。


「昨日は外務卿が来たとかで全館閉鎖、明日は帝国の祝日で高等弁務官事務所が休みですので、まぁ駆け込み需要といった所でしょう。検問所の方はいつも通りうまくさばけてます。ご安心ください」


 嫌悪に満ちた彼女の視線がメガネ男を刺した。


「検問所の仕事は出入りの者を上手くさばく事?違うでしょ!そう言う時だからこそ敵が策謀を巡らすとなぜ考えないの?!」


 あっけにとられるメガネ男に対し彼女は更にたたみ込むように。


「出入りの状況はどう?男女の人数構成、一番入退館が多かった時間、報告なさい」

「開所からただ今の時間までの職員を除く入館者は百五十名。内訳は男性百三十五、女性十五でした。一番入退館が集中したのは十二時前後です」

 

 報告を聞きつつ彼女は壁一面に張られた写真を眺める。これすべて望遠鏡付き写真機で取られた高等弁務官事務所職員全員の顔写真。それ以外の入館者と区別がすぐに付けられるよう貼り出しているのだ。その他にこの部屋の隣には暗室が有り、取った感光膜フィルムはすみやかに現像できるようにしてある。

 ここは、同盟の諜報機関『合同保安委員会』通称『委員会』が帝国高等弁務官事務所前に設置した秘密の監視所。

 主な目的は高等弁務官事務所を拠点に暗躍する帝国の間諜スパイの監視と、此処へ逃げ込もうとする亡命者の摘発。

 そして、ここを訪れたのはマーリェ・ツェルガノン。委員会きっての敏腕 工作担当官ケース・オフィサーだ。

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