玖
その日からますます稽古に熱が入った。
俗に”血の小便が出る”なんて例えがあるが、あれが本当だとは思ってもいなかった。
俺は曲がりなりにも空挺にいて、これでもレンジャーの資格まで取った男である。
少々の事では根をあげないという自信はあったので、
”あの時の苦しさを思えば”とタカを括っていた自分だったが、
確かに出た。
授業が終わってから集中して稽古をすること二時間、その間水も摂らず、固形物も一切口に入れず、稽古を続けた。
最後はもう立ちあがることも出来ぬくらいヘトヘトだった。
(年はとりたくないものだ。言い訳にもならないが・・・・)
這いずって便所に行くと、本当に真っ赤なものしか出なかった。
俺でさえこうなんだから、彼はもっとひどかっただろう。
しかし彼は一言も根を挙げなかった。
それどころか、一日、一日と経つうちに、目つきの鋭さが変わって来た。
彼を突き動かしていたもの・・・・それが生半可な感情ではないのだなということに、改めて俺は実感させられた。
当然のことながら、奈津美とはこの間、一切連絡を取っていない。
何も知らない彼女は、度々鍬形家に電話をしてきたそうだが、母親に、
”申し訳ないが、今は出られないと伝えて下さい” と伝えて貰い、一切受話器も取らなかったという。
たまりかねた母親が、つい試合のことについて話してしまい、二度ほど奈津美が訪ねて来たそうだが、
”奈津美さんには申し訳ないが、今は逢えません”そう言って頭を下げたという。
彼女は不安そうな顔をしていたが、龍之介の為に、
”応援しています。これを食べて下さい”と、手作りの稲荷ずしを置いて行ってくれ、
”借金の事ですが、父が奔走して、五千万円だけは何とか都合が出来ました。だから、だから無理をしないで、お願いします。”
この二点だけを言い置いて帰っていったという。
そうして、瞬く間に一か月が過ぎ去り、試合の当日になった。
十月終わりの、よく晴れ上がった日曜日の事だった。
エントリー開始は正午。試合開始は午後二時。
場所は”格闘技の聖地”といわれる後楽園ホール。
流石にあの”欲しいモノを手に入れるためなら手段を択ばない”と豪語する杉野社長である。
幾ら金もうけのためとはいえ、流石に
当日は俺と龍之介、そして鉄之介先生の三人がセコンドに付くことになった。
控室に入ると、既にエントリー受付を済ませた選手がひしめいている。
柔道、空手を始め、プロレス、サンボ、ボクシング、ブラジリアン柔術、総合・・・・等々、ありとあらゆるとまではゆかないが、割とよく耳にする格闘技ばかりだ。
日本人ばかりではない。
米国系、ロシア系、アフリカ系、アジア系がいたが、その悉くが龍之介よりも遥に体重や身長の点で優っているように見えた。
総勢30人、全員がエントリーを済ませると、ルールが発表される。
・試合はワンデイトーナメント形式で行われる。
・体重は基本無差別。
・武器の使用及び股間、眼球、鼻、耳、肛門などへの攻撃は禁止。
・関節技はどこを極めても可とする。但し指関節は二本以上とすること。
・勝負の決着はどちらか一方が降伏の意志を示すか、若しくはそれも出来ないくらいに完全に意識を失うかのいずれかによる。
・故意の反則はその時点で一方の反則負けとする。
・試合時間は五分三ラウンドの完全決着ルールとする。
・時間以内で勝負が決まらなかった場合には1ラウンド3分の試合を5ラウンドまで行い、それでも勝負が決せぬ場合は、ここで初めて審判団による判定が行われる。
そして肝心の優勝賞金は・・・・当初噂では一千万円と発表されていたが、何と正式発表では五千万円ということになった。
『五千万円だってよ・・・・』
『随分高額じゃねぇか・・・・』
控室の中にもそんな声が聞こえた。
ルール表の隣にはトーナメント順を大書した紙も貼りだされてある。
彼はAブロックの一回戦、何とのっけの第一試合、相手は・・・・イワン何とか言う、ロシア人のサンボ(ロシア式格闘技のこと、柔道によく似ている)の選手だという。
そんな声が控室のあちこちから聞こえ始めた。
『大丈夫か?』
俺は控室に入ると、手早く柔道着に着替え始めた龍之介に声を掛ける。
彼は意外に気負ってはいない。
柔道着に着替え終えると、彼は軽く屈伸運動をし、俺の顔を見ると、子供がみせるような顔で笑って見せた。
『大丈夫だ。乾君、龍之介はもう達観しておるよ』
俺の隣で鉄之介先生が腕を組んだまま大きく頷いた。
一時間が経った。
控室のドアが開くと、黒いジャージの上下を着た係の男が顔を出し、
『選手の皆さん、開会式です。入場のご準備をお願いします』と英語と日本語で、妙に勿体ぶった口調で宣言をする。
龍之介は両手にオープンフィンガー・グローブを嵌め、他の選手たちと一緒に会場入りした。
観客席はほぼ満席である。
雑誌などを使った派手な宣伝は殆ど行っていないそうだが、インターネットのツイッターや掲示板などによる口コミが功を奏して、この入りだという。
リングは格闘技界伝統の、三本ロープの張られたあの四角いジャングルである。
まったくあの杉野って男の狡猾さには恐れ入る。
一人づつ選手が名前を呼ばれ、リングイン。
一人上がるごとに会場にはどよめきと拍手が沸き起こるが、七番目くらいに呼ばれた龍之介が上がった時には、どよめきは起こったが、拍手は起きなかった。
ブーイングこそなかったものの、ところどころで失笑が起きていたのは間違いない。
何しろ、他の選手に比べても遥かに、いや、それどころか比べ物にならないくらいの小柄だったのだから。
おまけに他がそこそこ名が知れた選手だったというのに、龍之介の名前を知っていたものは殆どいなかったからだ。
”おい、誰だい?あのチビ”
”鍬形龍之介?知らないなあ”
”柔道の選手みたいよ”
”あれで勝てるのかねぇ。幾ら体重無差別だからって”
これでも耳はいいんだ。
どこからか囁き声が聞こえてくるのがはっきり分かった。
しかし、一人だけ、熱い視線と拍手を送るものがいた。
そう、三条奈津美である。
誰が知らせたのか知らないが、いてもたってもいられなかったんだろう。
リングに上がった彼は、他の選手がするような派手なパフォーマンスは一切せず、黙って表情も変えずに二三度軽く会釈をして見せただけだった。
『いい顔をしとる。あんな顔を見たのは初めてだ。』
満足げにそう言ったのは、鉄之介先生だった。
なるほど、確かにそうだ。
いい顔をしている。
次にリングに上がったのは、あの
リングの上は選手が主役の筈なのに、この二人は選手よりも遥かに悪目立ちしている。二人とも長々と、
”皆さんに本物の格闘技をお見せする”だとか、
”格闘技の復興がどうの”といった、やけに修飾語の多いスピーチを喋った。
”では、選手の皆さん、一旦退場を願います。選手、退場!”
場内アナウンスがまた響いた。
ぞろぞろと選手たちが東西に分かれて引き上げて行く。
控室に一番最後に入ったのは、龍之介を先頭にした、俺達三人だ。
『龍之介、大丈夫だと思うが、気負うなよ』
俺はベンチに座った彼の肩を軽く揉んでやる。
『いつものお前を出せばよいのだ』
そう言ったのは鉄之介先生だ。
何しろ彼は口開けの第一試合、相手はロシアのサンボ選手。
龍之介の丸い目が、すっと細くなった。
戦闘モードに入ったんだろう。
『よし、行くぜ』
俺の声に、頷いて、すっとベンチから立ち上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます