肆
数分後、俺たちは再び元の居間にいた。
床の間を背負って座ったのが鍬形鉄之介先生。そしてその右手に龍之介君、一番下座に座ったのが俺という訳だ。
『
俺が陸自にいたのは、もう散々喋ったから知っているだろうが、何の間違いか、一時オリンピックの強化選手に選ばれて、体育学校で柔道に励んでいたことがあった。
その時に非常勤でコーチに来ていたのが、この鍬形鉄之介先生だったのである。
先生の教え方は厳しくはあったが本筋だった。
柔道を単なる格闘スポーツではなく、武道であると捉え、それを俺達に叩き込もうとしておられた。
しかしながら、柔道はもう既にオリンピックの正式種目だったから、漢字ではなく、ローマ字になっており、先生の教え方は体校側と肌が合わなかったんだろう。
僅か一年ほどで職を辞してしまわれた。
『儂が教えた中で、お前さんが一番筋が良かったな。もっと徹底的に鍛えれば、誰にも負けん柔道家になれたぞ。上手くすれば鬼の木村だって抜けたかもしれん。』
(*鬼の木村・・・・木村政彦七段の事。戦前、全日本選手権で連覇し、天覧試合でも優勝をした不世出の柔道家。後にプロレスに移り、あの力道山と死闘を演じたことでも知られている)
『ご冗談でしょう。私はあんなに強くはありません。それに先生と同じで根っからのへそ曲がりでしたから、オリンピックでメダルを獲るなんて興味がありませんでした。』
先生は今でも警視庁の所轄で、警察官に柔道を指導しているそうだ。
それで渡辺警部補があんなことを言ったのか。
『ところで、今日は一体何の用事でここに?』暫く雑談をした後、先生が俺に訊ねてきた。
『仕事ですよ。実は・・・・・』俺はそう前置きして、依頼内容について話した。
『つまり、その娘さんが孫の龍之介に恋をしていると、しかし龍之介がそれを拒んでいるという訳なんじゃな?』
先生が龍之介の方を見る、
彼は無言のまま、頷いた。
『いいじゃないか。龍之介、その娘さんに会ってやんなさい』
「し、しかしお
『別に会って礼を言われるだけなのだろう?何の問題があるというんじゃ?』
『やはり、僕には出来ません』
先生は腕を組み、片手で顎を撫でた。
『すまんの。乾君、誰に似たのやら、堅物に育ってしまって・・・・・』
そしてしばらく考えていたが、ふと思いついたように、
『よし、ならばこうしよう。乾くんと試合をしなさい。』
『はぁ?』
今度は俺が驚く番だった。
『いや、乾君と試合をして、お前が勝ったら断っても構わん。乾君が勝ったら、言うことを聞く。どうじゃ、これなら文句はあるまい。』
『しかし、お祖父様、武道をそのようなことに使うのは、それに僕は今・・・・』
『儂が許すといっておるのだ。それとも儂の言うことが聞けんというのか?』
『い、いえ・・・・』
流石の龍之介も、この先生の前では、一言も返すことは出来ない。
『分かりました。』と答えるしかなかったようだ。
『よし、これで決まった。善は急げという。すぐに始めよう。時に乾君、君はどうだね?』
とんだことになったが、俺だって嫌だと言えるわけがなかろう。
『いいでしょう。』そう答えるしかない。
『龍之介、すぐに乾君を道場にお連れしなさい。道着は持ってきていないだろうから、こちらで貸してあげよう。予備のが何着かあったろう?』
龍之介君はまだあまり気が進まないような表情ではあったが、先に立って、
『ではこちらです』と、案内してくれた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
柔道場は家とは別の、裏庭に面したところに立っていた。
中に入ると、広さは二十畳ほどで、今時の柔道場としては特別広いわけではないが、武者窓、羽目板張りの壁。そして青畳。正面に設けられた神棚と、そして壁に掲げられた講道館柔道の創始師範の肖像と、彼の有名な言葉、
『
正に昭和の、いや、ことによるとそれ以前からの、
”武道の空気”がそこにあった。
龍之介は道場に入る前に、沓脱で一旦立ち止まり、一礼をし、それから道場に入ると、畳に静座をして、再び礼をした。
俺もそれに倣う。
え?
”無礼を常としているお前にしちゃ随分礼儀正しいな”だって?
はばかりながら俺だって一応黒帯だぜ。
最低限の礼儀ぐらいは心得ているさ。
龍之介が道場の一角にあった扉を開くと、そこは半畳ほどの物入になっていて、中には棚があり、柔道着が何着か壁から吊るされていた。
俺の身体を眺め、それから一通り見まわすと、その中の一着を手に取り、
『これくらいが丁度いいでしょう』と、俺に渡してくれた。
『言っておきますが、手加減はしませんよ』服を脱ぎ、柔道着に着替え終えた俺に、龍之介はぼそりと小さな声で宣言した。
『当たり前だ。俺にも意地とプライドがある。八百長なんかされるほど落ちぶれちゃおらん。』
負けずに言い返した。
久しぶりに着た道着だったが、借り物とは思えないくらいに身体に馴染んでいる。
俺たちは二人とも目を合わせず、柔軟から受け身、そして壁に手をついて打ち込みをやり、身体を動かす。
『どうだ。ほぐれたかな?』
いつの間にか鉄之介先生が、柔道着に紅白だんだら帯を締めて現れた。
(余談だが、紅白だんだら帯というのは、講道館で六段から八段までの高段者に許される帯のことだ)
先生は俺達二人の顔を交互に見て、”よし”とでもいうように大きく頷いた。
『では始めるか。一応最低限のルールだけは決めておくとしよう。
一、打撃技は使わず。
二、急所への攻撃もなし。
三、勝負は一本勝ちか、いずれかが参ったというまで続ける。
四、試合時間は無制限。
五、寝技への引き込みも認める。
こんなところでどうじゃ?』
『異存はありません』龍之介が言う。
『同じくです』俺も答えた。
『よし、それでは立会人は儂がやろう。双方中央へ』
『正面に、礼!』
俺達は神棚に向かって礼をする。
『お互いに、礼!』
互いに相手の目をしっかり見て、頭を下げる。
『初め!』
俺達はがっしりと組みあった。
今時の柔道の試合であるような、引手や釣り手の取り合いなんて真似はしない。
まず仕掛けたのは龍之介だった。
一本背負いを掛けてくる。
俺は身体を捻って、引手を切りながら畳の上に足から着地した。
もう一度組みあう。
次に仕掛けたのは俺だった。得意の払い腰を掛ける。
だが、流石に龍之介だ。やはり引手を切り、巧みに逃げる。
凡そ一時間も続いたろうか、寝技の攻防になり、関節の取り合いになった。
俺だって一歩もひけん。
年はとっているが、負けるわけにはゆかないのだ。
全身汗まみれになる。
結局一時間、お互いに決め手がなく時計が回った。
『それまで』
静かに老先生の声が道場の中に響いた。
『有難うございました。先生が止めて下さらなければ、私の身体は空中分解していたところでした。』礼を終えると、俺は苦笑いをしながら頭を掻いた。
『あまり良い決着の付け方ではないがな。龍之介、ここはお前が譲ってやってはどうかな』
先生は龍之介の傍に歩み寄り、膝を折って彼の肩を叩いて微笑んだ。
彼は何も答えず、黙って頷く。
『見ての通りだ。乾君、これではご不満か?』
『助かります。日頃の不摂生ががたたっていましたな』
『よし、では立ちなさい』
二人とも立ち上がり、正面と互いに礼をした。
『流石です。乾さん、もう少しで僕が負けるところでした。』
『おっさんに花を持たせてくれたな。やっぱり現役の高校生には勝てんよ。』
俺達は互いに声を掛け合い、笑った。
気分は正に”姿三四郎”である。
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