雨上がりのChameleon

レオニード貴海

第1話

 幻覚を見ているのかと思った。

 電車の窓には呆けた顔をした自分の姿が写っている。

 『俺』は目を細めた。

 雲の下、ぼやけた夕日の遠景を突っ切って二輪を走らせているのは、あれはマイケルだ。

 一緒に買った悪趣味な黒と赤のヘルメットを見ればわかる。

「大アホめ」

 思わず小さく呟いて巡ってくる記憶をかき消す。

 俺たちは困難へ向かっていく。どちらも、どこにいてもただ息をしているだけでも。これまでのようにうまくはいかない。この世界に俺たちの居場所なんかないんだ。

 言葉にすると安っぽいありきたりなセリフでも、渦中の人間にとっては胸に捩じ込まれる硬い石だ。砕くことも取り除くことも忘れ去ることも絶対にできなくて死にたくなるがいつかその石で俺たちを押し潰そうとしたやつらを叩き壊してやる。

 窓に手をかける。いまさら何を探しているんだ。じっと、走るバイクを見つづけている、俺は――



「マイケぇ〜る?」

 低俗な親の余罪は低俗なコピーの量産を容易にしてしまうことだ。べつに馬鹿は親になるなとか、子育てに失敗した親が皆悪いと言いたいのじゃない。それはある種の物悲しい事実でしかない。そして誰に悪気がなくても悪というものは自然に生まれる。蛆虫と同じだ。蛆虫は俺たちに嫌悪感を抱かせるために存在しているわけではない。ただ生まれた分だけ必死に生きているだけだ。俺たちと同じように。

 マイケル・イワミはアフリカ系の日本人で転校生でも美男子でも連続殺人犯の隠し子でもないが肌の黒さと唇の分厚さそしてぎょろりと大きな二つの瞳がクラス大衆の好奇の目を否応なくさらった。時代は変わった、昔と比較すれば随分良くなったと大人たちは言う、まあそうかもしれない。それはある種のきらびやかな事実のひとつだろう。大人たちは薄い唇を震わせてばらばらに歌う。昔はもっとずっと大変だった。いまの若いものは我慢が――

「おっと、ごめんごめん」

 ゆっくりと立ち上がった五木は学ランの汚れを軽く振り落とすとこちらをぎりりとにらみつけた。大柄な男で目の前にそそり立つ姿を見るとちびりそうになる。

「ぁんだ、てめえ?」

「ごめんって、足が滑ったんだ。雨の日はダメだよね、ちゃんと裏まで拭いとかないと」

 想定外の不意打ちが効いたのかもしれない。あるいは俺の、『女』という生物学的な性質が。五木はぼそぼそとこいつは頭がおかしいとかなんとか呟いて、仲間と一緒に教室を出ていった。噂に依ると五木の両親は離婚していていまは母親と二人暮らし。元父は医者で母は元高校教師だったがいまは風俗で働いているらしい。同情はする。嫌なことがたくさんあるのだろう。だからといって何をしても許される言い分にはなり得ない。嫌なことはたくさんある。生きていれば、そんなことは当たり前だ。

「ありがとう」

 俺は目立たず静かな高校生活を送るというささやかな希望を永遠に失ってしまったが、マイケルはシャープペンシルの芯を数十本折られて筆箱を蹴り飛ばされただけだ。礼を言われて当然ではある。もっとも、別のやり方もあったかも知れない。平和的な解決手段と呼ぶべきもの、非暴力的不服従のまだ少しまっとうなやり方が。だが俺は暴発してしまった。弱い者いじめが許せないという正義感などではなくもっと原始的な怒りだったように思う。その時はまだ正体がわからなかったが。

 マイケルは助けられた理由を訊かなかった。いま思うと最初から気づいていたのかもしれない。『彼女』にはどこかそういう節があった。他人の機微に異様に鋭いところ、それでいて悲しくなるくらいに優しい性格が、俺はなんとも言えず好きだったのだ。



 俺たちはよく一緒に時間を過ごすようになった。クラスのはぐれもの二人。俺は自分のあり方を他人に合わせて変化させるのがそれほど苦手ではなかったし、実際友人には事欠かなかったが、何をしていてもいつも虚しさがあった。そりゃ、結局は皆他人なんだから、ほんとうのところはわかりはしない。理解し合うとか、心が通じ合うなんていうのは幻想だ。それでも、少なくとも近づくことはできる、少なくともそう思いたい。これ以上は近づけない、そう感じる距離がある。他人同士の交わりを見ているときどうしても、自分との距離を比べてしまう。誰にも言えない、誰にも伝わらない気持ちを抱えて息を殺して笑っているのは、たとえそれなりに得意でも、純粋な喜びとは程遠いものだ。カメレオンは楽しくてカラフルに擬態するのじゃない、生きるために必要だからしているのだ。

 二人の時間が増えてまもなく、カミングアウトされた。

「そんなこと言っちゃっていいの?」

「君もそうだろ」

 俺は心臓が裏返る心地だった。思わず目をつむった。それからまた瞼を開いてマイケルを見た。

「さとりなの? お前さとりなの?」

 違うよ、とマイケルは笑った。

「妖怪じゃない」

 俺たちは話が合った。互いの趣味には理解し合えないものも少なくなかったが――俺の方がブラック・ミュージックに傾倒する一方で、彼女はジャパニーズ・アニメーションの信者だったり――、それでも多くの面で尊重し合い、認め合い、想い合うことができた。人類史における数少ない美しい奇跡をまるごと踏襲するみたいにして、俺たちは誰にも容易には真似できないくらいに、強く固い絆を育んだ――と思う。

 国際化の恩恵か、俺たちの仲は周りの目に、それほど奇異には映らなかったようだ。黒人、というか異物感の残るあらゆるものに対する差別は依然としてあったが、見た目には『健全な』男女の関係だったわけだから、中身が転倒していることなんて誰も気が付かないし気にしなかった。俺たちはわかっていた。彼らは知りさえしなければ、そんなに悪い人たちじゃないのだ。情報が人を悪魔なり、鬼に変える。

 いろいろと問題はあった。俺に必要なものを彼女が股の合間に有していて、彼女が喉から手を出して掴もうとするものが、俺の胸にぶら下がっていた。それでもなんとかお互いが繋がれていたのは、俺たちが求め合っていたものが、原理的欲求を満足させる以上の、何かだったからだろう。



 別離に前触れはない。

 仕事の都合で転勤、まあ、よくある話ではある。そういう職業を選んだのは父だし、その父を選んだのが母なら、彼らの子である俺になにが言えるだろう? なにか言っていいのかも知れないが、俺には言うべき言葉を見つけることができなかった。大事な一人娘の一人暮らしなんてまだ認められない、愛情たっぷりの瞳でそう言われて、なんて返せばいい?

 悪い運は集まるもので、マイケルも半年後、ヨーロッパに移住することになった。詳しいことは知らない。訊いたところで、現実は変わらないからだ。

 荷物は業者に運ばせ、俺たちは電車で、新幹線の発着する駅まで向かっている。しばらくは真っ直ぐの道が続く、それを見越して、追いかけてきたのか?

 かれこれ五分近くは経っただろうか、そろそろカーブがやってきて、車道と別たれる。雲の膜が過ぎ去り、夕日の光が強まる。平べったい緑の景色の向こう側に、巨大な虹がかかった。あの空は俺たちのことさえ見守ってくれているのかもしれない。人が、俺たちを許すことがなくても。

 窓を開けて叫んだ。


「アッホォオオオオオオオオッ!!」


 ムカつくくらい、高い声。

 わずかにこちらを振り向いて、彼女はグローブの親指を立てた。

「あらちょっと、彼氏?」

 母が訊いた。

 俺は答えず、初カノ、と心のなかで呟いた。

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雨上がりのChameleon レオニード貴海 @takamileovil

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