第30話 最後の語らい
「……すっかり、変わったね」
病室の椅子に座った優菜は一言そう言い、僕の左手に触れた。
体温なんてない、冷たい人工物に侵食されてしまった手を。
ひび割れたそれは、ふれれば凹凸がはっきりとわかる。少しでも乱暴に扱えば、自壊して壊れてしまうくらい、ボロボロだ。
「それは見た目のこと?」
「見た目も、雰囲気も」
「そんなに?」
「うん。全身皹だらけで、身体はボロボロだけど、心は落ち着いてるのがわかる。何だか大人になったみたいだよ」
「……受け入れた、だけだよ。湊と一緒に散々泣いたし、ね」
「そっか」
今、優菜には僕の顔がしっかりと見えている。
幸いにも顔が全て半透明になるなんてことはなかったけれど、面積で言えば半分程は変化してしまっている。
それは左目にもおよび、亀裂まで入っている。
「目は、見えてるの?」
「左目は見えないよ。流石に割れてしまったら、視力は失うらしい。でも、まだ右目があるからね」
「そう、なんだ……」
片方の目が見えないだけでも、かなり大変だろうに、と優菜は思う。
実際、最初は物の距離感が掴めなくて苦労もしたけれど、数日もする頃には慣れてしまった。今後の生活にも問題ないレベル。
しかしまぁ、その生活ももうすぐに終わりを迎えるわけではあるが。
黙り込んだ僕に、優菜はわざとらしく話題を変えた。
「そ、そういえば、如月君と花蓮ちゃんには、お別れの挨拶はしたの?メタセコイア並木で叫びあった時じゃなくて、その後に」
「恥ずかしいことを思い出させてくれるね、優菜」
「……恥ずかしながら、私も遠くで見ていて、泣いてしまいました」
僕は通話越しに、花蓮が泣いているのはわかっていたけれど、優菜が泣いていたことは知らなかった。
「な、なんで君が泣いたの?」
「いやだって、あんな青春漫画みたいなやりとり見せられたら、ね。花蓮ちゃんなんて、大号泣しながら私のこと抱きしめていたし」
「花蓮は、そうだろうね。湊の電話越しに嗚咽が聞こえてきたよ。彼女は耐えられないと思って、君にお願いしたわけだし」
彼女は涙脆いからね。と付け加える。
優菜は苦笑し、確かにと頷いた。
「で、お別れの挨拶に関しては、今日の昼間に済ませたよ。二人揃って……というか、二人の親御さんも一緒にね。久しぶりに会ったけど、変わっていなかったなぁ」
「そうなんだ……泣いていたでしょ?」
「酷いくらいにね。湊なんて、この前の比じゃないくらいに泣いてた。思わず、僕も涙がこぼれてしまったよ」
「親友とのお別れだもん、ね。涙が流れるのは、当然だよ」
「そうかもしれない」
会話が途切れたタイミングで、二人同時に窓の外に視線を移す。
空に輝くエペルト彗星のすぐ近くを、一筋の流星が通過した。
「ねぇ、優菜」
「うん?」
「屋上に行かないかい?もうすぐ、なんだよ。もうすぐ、始まるから」
「……わかった」
優菜は静かに頷き、部屋の片隅に置かれていた車椅子をベッドの端に寄せた。
その上に、僕はゆっくりと乗り込み、彼女にそれを押してもらって、部屋を後にした。
「屋上、だったね」
廊下の椅子に座っていた佐伯先生は話を聞いていたのか、笑って僕らを送り出してくれた。次いで、「僕は少し後に行くから、先に行っていなさい」とだけ。
心の中でありがとうございますと言い、会釈だけを返す。
「行こうか」
「うん」
僕らは暗い廊下を音を立てないよう静かに、無言のまま進み、屋上に向かった。
◇
屋上には冷たい風が吹き、肌寒いくらいの気温になっていた。
高いだけあって、街が一望できる。暗がりの中で光る建物が綺麗な夜景を生み出す中、僕たちは空に浮かぶエペルト彗星を見ていた。
僕たち二人以外に人はいない。この時間は本来立ち入ることができない時間だから、当然なのだけれど……鍵は、佐伯先生が開けてくれたのだろう。
僕が最後に屋上に行くことを見越して。
「綺麗だね」
「うん。今までで一番、綺麗に見える。なんでだろう、明るさは変わっていないはずなんだけどな」
見えない左手を片手で塞いだ僕は、右目だけで彗星を見つめる。
変わらないはずの明るさを持つ彗星が、今まで以上に綺麗に見えることが不思議で溜まらない。
小さな疑問。だけど、その答えは浮かんでこなかった。
「わからないな。もう、右目にも異常が……」
「最後だからじゃないかな?」
呆然と空を見上げる優菜がそう言った。
僕は首だけを動かして彼女を見る。
「最後だから?」
「うん。もう見れないってわかると、今まで見てきた景色が綺麗に見えること、なかった?」
「……あったね」
例えば、学校の屋上から見るグラウンド。茜色の夕焼けが差し込む教室。僕らの青春の一年を過ごした、部室。
最後に見たそれらは、今までとは違う程、輝いて見えた、尊いものに見える。
「多分、それと同じだよ。あの彗星を見るのは……この夜空を見るのが最後だから、春斗には私が見ている光景とは比べ物にならないくらい、綺麗に見えているんだと思う」
「……そう、か」
僕は納得したと、頷き、優菜を見つめた。
「最後だと、綺麗に見えるんだね。だから、僕も君が普段よりずっと、綺麗に見えるのか」
「……かもね」
照れ隠しだ。
優菜は自覚し、僕から顔を背けて星空に向ける。
「春斗、本当にありがとう」
「ん?」
優菜が突然述べた感謝の言葉に、僕は首を傾げた。
一体何に対する感謝なのかわからずにきょとんとしていると、優菜が背後から僕の両頬にそっと触れた。
「あの時、私に声をかけてくれて。生きることを選ばせてくれて、本当にありがとう」
「……きっかけは、それからだったね」
僕らの出会いは。
一年間を過ごすきっかけは、あの屋上での出会いだった。
あの時僕が投げたペットボトルが──プラスチックの音が、僕らを出会わせた。
「皮肉だよね。プラスチックがきっかけで顔を合わせた僕らが、プラスチックが原因の病気で分かれることになるなんて。しかも、場所は違えど、出会いの場所も別れの場所も屋上だ」
「何か縁があるのかもね」
「そうかも。だけど、地上よりも星が近いし、天文学部としては素晴らしい場所だと思うよ。だって、ほら──」
僕が空に向かって指をさした、その時だった。
「この光景を、空に近い場所で見られるんだから」
無数の流れ星が、まるで地球に降り注ぐ雨のように、夜空を駆け抜けていったのは。
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