第5話 新しい人生(4)

 翌日、牧夫は太郎の家で目が覚めた。荷物はすでに和歌山の梅農家に送った。あとは自分が来るだけだ。


 牧夫は部屋の窓から大阪の街を見ていた。大阪で暮らすのは今日で最後かもしれない。この大阪で喜びも悲しみも、そして苦しみも味わった。色々あったけど今日が最後だ。今日から新しい人生に入る。もう迷うことはない。


「いよいよ今日だな」


 誰かの声に気付き、牧夫は後ろを振り向いた。太郎だ。


「いよいよ新しい生活だな」

「そうだね」


 太郎は隣に立ち、一緒に大阪を見ていた。この風景を一緒に見るのは、今日が最後かもしれない。今日という1日をしっかりを記憶しておこう。


「頑張れよ」


 太郎は肩を叩いた。牧夫を励ましているようだ。


「ああ」


 牧夫は嬉しかった。そして、いつの間にか涙を流していた。何もかも失い、あいりん地区にやって来た自分をここまで支えてくれた。ここまで生きてこれたのは、太郎のおかげだったかもしれない。もし、そうでなかったら、飢え死にしていたかもしれない。もしくは、電車に引かれていたかもしれない。


「それじゃあ、行こうか?」

「うん」


 牧夫と太郎は1階の玄関へ向かった。太郎とはここで別れる。ここから梅農家までは1人で行く。


「それじゃあな」

「今までありがとうな」

「行ってきます」


 牧夫は太郎の家を出た。牧夫は後ろを振り向かなかった。目の前だけを見て、前向きに生きよう。最寄り駅の桃谷駅に向かった。ここから歩いて約10分。


 牧夫は桃谷駅に着いた。朝のラッシュアワーを過ぎ、空席が目立ち始めてきた。だが、大阪環状線には多くの人が乗っていた。


 牧夫は桃谷駅を見上げた。もう大阪環状線を見るのも今日が最後かもしれない。この光景もとどめておこう。


 牧夫は桃谷駅のホームにやって来た。桃谷駅は今日も色んな電車が行き交っていた。だが、子供の頃に大阪環状線で走っていたオレンジ一色の電車は姿を消し、真新しいステンレスの電車が大阪環状線を回っていた。時代の流れは早いものだ。


 牧夫は大阪環状線の電車で天王寺駅に向かった。天王寺から阪和線に乗り換えて和歌山に行き、そこから普通電車を乗り継いで南部駅に行く。


 牧夫は車内を見渡した。子供の頃に乗っていた電車に比べて明るく、ドアの上には液晶もある。さらに、アナウンスは自動だ。子供の頃に乗った大阪環状線の電車と全く違う。


 程なくして、電車は天王寺駅に着いた。大阪の南の中心駅で、とても広い。いくつもあるホームには様々な電車が行き交っている。京都と関西国際空港を結ぶ特急はるか、京都・新大阪と白浜・新宮を結ぶ特急くろしお、大阪環状線と関西国際空港、和歌山を結ぶ関空・紀州路快速、大阪環状線と大和路線を結ぶ大和路快速。ここはまさに大阪と並ぶ交通の要衝だ。ここから阪和線と紀勢本線で南部駅へ向かう。純一とはここで待ち合わせている。


 ここで関空紀州路快速に乗り換えて和歌山まで向かう。関空紀州路快速は日根野駅までつないで走り、関空快速は関西空港へ、紀州路快速は和歌山に向かう。


 牧夫は後ろの4両に乗った。これが紀州路快速だ。車両は関空快速と同じで、座席が3列だ。車内は比較的すいている。だが、前4両の関空快速はそこそこ人が乗っている。キャリーケースを持っている人が多い。関西国際空港へ向かう観光客だろうか。


 牧夫はその姿をうらやましそうに見ていた。社長の息子だった頃は海外旅行なんて夢じゃなかった。海外旅行は、卒業旅行でハワイに行った。それ以来、海外旅行に入っていない。もういけないだろうと思うと、泣けてくる。


 牧夫が乗ってすぐ、関空紀州路快速は天王寺駅を発車した。牧夫は一番後ろから大阪の街並みを見ていた。通天閣やあべのハルカスが見える。もう見れないかもしれない。記憶にしっかり残しておこう。


 その頃、理恵が太郎の家の前にやって来た。牧夫がここにいるとあいりん地区の人々に聞いて、ここにやって来た。


 理恵は辺りを見渡した。確か、牧夫は昨夜ここで1夜を明かしているとのこと。今でもこの家にいるんだろうか?


 理恵に気付いて、牧夫が外に出てきた。理恵が来ると思っていなかった。


「理恵さん、どうしたの?」

「牧夫さんは?」


 理恵は息を切らしていた。桃谷駅から走ってきて、へとへとになっていた。


「和歌山に向かったよ。梅農家を手伝うんだって」

「そんな・・・」


 理恵はがっくりした。謝ろうと思ったのに。もう和歌山に向かったなんて。


「謝ろうと思ってたの?」

「うん。もう一度やり直そうって」


 理恵は急いで桃谷駅に戻った。目的地は和歌山県のみなべ町。牧夫と同じ路線で追いかけることになった。


 理恵は泣いていた。謝りたい。もう一度やり直そう。新しい人生を共に歩もう。今なら間に合うかもしれない。早く会いに行かなければ。




 山中渓駅を過ぎ、いくつかトンネルを抜けると、和歌山市の街並みが見えてきた。電車はここから高度を下げて、和歌山市内に向かう。


 牧夫は和歌山市の街並みをしばらく見ていた。よく見ると、大きな川が見える。紀ノ川だ。


 牧夫は紀州路快速の終点、和歌山駅に着いた。和歌山駅は広い構内だ。南海電鉄の和歌山市駅とを結ぶ電車や貴志までを結ぶ和歌山電鐵の貴志川線が延びている。和歌山駅は広い構内だが、そんなに人はいない。全盛期はどれぐらいの人が行き交ったんだろう。


 この駅で御坊行きに乗り換える。すでに乗り換えの電車は和歌山駅に着いていた。牧夫はそのホームに向かった。


 牧夫は御坊行きの電車に乗った。車内は比較的すいていた。データイムだからか。牧夫はクロスシートに座ってリラックスしていた。


 電車は和歌山駅を出発した。牧夫は車窓を見ていた。これから住む和歌山はこんな所なんだ。ここで新しい人生が始まる。牧夫はこれからの生活に期待を膨らませていた。


 それから数分後、次の紀州路快速がやって来た。その紀州路快速から降りた乗客の中に、理恵がいた。理恵はあと少しの所で追いつけなかった。


 理恵は辺りを見渡した。だが、牧夫はそこにいない。もう南部に向かったんだろうか。何としても追いつかなければ。謝らなければ。


 牧夫は御坊駅に着いた。御坊駅は御坊市の中心街と少し離れている。中心街と結ぶ紀州鉄道がここから西御坊まで延びている。全長わずか2.7キロの短い鉄道だ。


 一部の電車はここが終点だ。ここから新宮方面は本数が減る。牧夫は次の電車を待っていた。次の電車は数十分後だ。牧夫はベンチで電車を待っていた。


 牧夫は肩を落として、今までの人生を振り返っていた。社長の息子として生まれ、自分が社長になった。順風満帆に見えた人生だった。だが、パワハラが自分の人生を変えた。会社も家も家族も全部失い、あいりん地区でひっそりと暮らし始めた。やがて職も住処も失い、自殺しようとした。まるで春夏秋冬を見ているようだ。春に生まれ、夏が学生時代で、秋が社長となった頃で、冬が何もかも失った日々だ。だが、私は和歌山で再び春を迎えようとしている。


「牧夫さん!」


 誰かの声に気付き、牧夫は顔を上げた。理恵だ。1本後の電車に乗って、ようやくたどり着いた。


「理恵、どうした?」


 牧夫は驚いた。理恵はもう戻ってこないと思っていた。ここまで追いかけてくると思っていなかった。


「あなたとの間に子供が生まれてたの。でも、未熟児なの」


 理恵は息を切らしていた。ここまで追いかけてきた。牧夫に謝りたい。もう一度やり直そう。そして、結婚しよう。あなたとなら、それぞれの傷を理解し合えるはずだ。


 牧夫は驚いていた。自分と理恵の間に子供が生まれていたとは。信じられない。


「そうなんだ、で、どうしたんだ?」

「私、間違っていた。あなたが今でも敦を恨んでいると思っていた。私、あなたがこんなに苦しんでいたとは思わなかった。そして、自殺に追いやったことを反省してると思ってなかった。それを知らなかった私がばかだった」


 牧夫はもう許してくれないと思っていた。恋はもう終わったと思っていた。結婚なんてもうないと思っていた。


「理恵・・・」

「新しい人生、あなたと歩みましょ?」


 理恵は両手で牧夫の右手を握った。もう一度この恋をやり直したい。結婚して、新しい人生を歩みたい。


「いいよ!」


 牧夫は嬉しかった。また理恵が戻ってきてくれた。一緒に新しい人生を歩んでくれることが嬉しかった。


「ありがとう!」


 2人は抱き合った。もう一度2人でやり直そう。そして、お互いの傷を受け止め合い、生きていこう。そして、ともに新しい人生を歩もう。


 間もなくして、次の新宮方面の電車がやって来た。2人は手をつなぎ、一緒に電車に乗った。この電車から新しい人生が始まる。2人は笑みを浮かべた。

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それぞれの傷 口羽龍 @ryo_kuchiba

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