第32話 コンパス
「真音ぉ!」
「もう結構な時間よ。神田君のお父さん、心配してうちに連絡してきたわ」
「え? でも俺たちまだ1時間くらいしかここに……」
「こっちは時間の流れが違うんだよ。早く帰らないと。真音、僕たち、もしかして、この階段怒らせちゃった?」
占の問いに真音は、
「物は怒ったりなんかしないわ。人間に八つ当たりされることはあってもね」
--階段は本来『渡る』ためのもの。どこかにつながるものだからな。いつもとどこか違うところにつなげたい時もあるだろうさ」
真音のお供、遠いグラナダから来たランプのアズルが言った。
「さあね……。原因がわかればいいけれど、分からないのがこの世界。懐かしい人が来たのかもしれないし、塵一つかもしれないし。私たちの理解の及ばないところで起きているから」
「どうすればいいの?」
「放っておけば次第にもどると思うけど。でもこれ以上けが人が出て階段のせいにされるのもね……」
真音は持ってきた鞄から20㌢四方ほどの大きな木の箱を取り出す、船用のコンパスだった。
銅を緑青が包む、水にぷかぷか浮かぶ針は、船の一生を見届けた後も、まだ正確だ。真音は 『えらいねえ』とよく褒めていた。
「ちょっと頼める?」
――勿論」
普段は無口な彼と、彼を支える同じく年期の入った木箱が言った。
「起こさなきゃね。占は、これ、鳴らして。目覚まし代わりに」
そういうと、二つの10㌢ほどの金属の円盤を取り出す。円盤の端と端を打ち鳴らすと、おりんを思わせる澄んだ音を出すアンティークシンバルという楽器だ。
「方位磁石って……ここは階段だぜ? 上と下しかないでしょ?」
そう言いかけた神田は、ぞっとした。いつの間にか階段は四方八方上下逆さに廣がり、エッシャーの迷宮のようになっていた。
「じゃ、行きましょうか。神田君は私と占の間に入ってね。那月、頼める?」
「ん、いいよ」
「……那月君、俺の近くで辛くない?」
「別に。平気だよ」
「縁はすごいなあ。君のおかげだよね。さっきより大分楽になったような気もする」
――僕が干渉したから、君とこちらの世界の距離が近くなったのかもね。こうして普通に話もできるみたいだし。……僕こそ、ありがとう。自分の役目を思い出すことができて僕も嬉しいよ」
真音は、コンパスが示すままに歩を進める。占は神田の後ろで鈴虫のような優しい音をだす。
「――あのさ、那月君、俺と昔、会ったこと、ある?」
「え? なにそれ? 他人のそら似じゃない? 僕死んでるし」
「いや……」
神田はそれとなく縁に口止めされたことを思い出した。
触れてはいけないことなのかもしれない。
神田は漠然と思った。見えるものと見えないものとの間には、よく秘め事があるものだ。
「僕は、知らないね。もう、那月として、ずっと真音と一緒にいるって決めたんだ。カンダも昔にとらわれていると、そのうち自分の名前も忘れちゃうよ?」
「……あはは! そうだね。那月。ありがとう。君とこうして話せて良かった。これからもよろしく」
「うん。占よりいじめ甲斐はなさそうだけど、仲良くしてあげる」
「着いたよ」体感で上に下に斜めに横に、10分ほど歩いたとき、霧は晴れ、いつもの裏山の入り口になっていた。
「ちゃんと路を歩いて整えたから、もう大丈夫だと、思う」
「ほんとに?」
「そもそも迷うから迷路になるのさ」
緑青を纏ったコンパスが得意そうに言った。控えめな木箱が彼を支えている。
「あとはまあ、噂が悪化してまた言葉が悪い方向に行かないように、そこは神田くんに任せるわ」
「任せて! 俺、小学生にはすっごくモテるから!」
疲れ切った顔だが漸く自分に任務をもらえた神田は言った。
後日、神田の努力の成果か、子供の世界の時事は早くて、瞬く間にあの階段の噂は消えてしまった。
思い出すには季節は過ぎてしまった。家から除く桜の木はすっかり緑を繁茂させてしまって、太陽を喜んでいる。それでも神田は二階から見えることのない幻に微笑みを向けた。後でこっそり縁が伝えてくれたことを思い出して。
「君の力は、ある意味、神様に大事にされているといってもいい力だよ。余程君を守りたい人がいたんだね。君とそのちからの縁を完全に切って無くしてあげることもできるけれど、それもきっと君が授かったものだから、繋ぎ方だけ変えて、残しておくね。
……もう一つ言うと、その「賢い子」はあのとき消えて居ないよ。本人は覚えていないかもしれないけれどね。でもそれは言ってはだめ。彼が世界にいるためのまじないみたいなものだから」
「なんでそれを知って……」
「僕はたいてい何でも知っているんだよ。……自分のこと以外はね」
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