第30話 優しいちから
自分を自分と認識するまでに時間がかかった。――手を痛いくらい握るのは、占だった。
「神田君!」
「……西条、くん……?」
気づけば、石段に片足を載せたままの恰好で硬直している。薄桃色の靄は神田の知っている裏山の景色を映さない。
「良かった」
かすれた声。……長い夢を見ていたような気がする。一体どれだけの間、占は自分の名前を呼んだのだろう。神田は息を荒くして、へたり込むように安心した様子の占を見た。そして周りの様子を見た。
「ここは? この霧みたいなのは一体……」
自分の足元の石段を見ることがやっとなくらい、景色は飲み込まれる。
「僕たち、
「あちら側って?」
「真音の言葉を借りると物の世界、みたいな。でも猫とかも通るし……まあ、とにかく、人間が主役じゃない世界なんだよ」
「……そりゃいいね」
先日しゃべる猫に会ったのを思い出した。ふら付く神田を占が支える。
「どうしよう、神田君が」
――夢を見せられていたみたいだからね。ここは普通の人間には辛い。でもこれだけいたずらやったんだ。真音がそのうち気づいて助けに来てくれるよ」
「誰?」
声の主に神田が聞くと、占は慌てて上着のポケットから
「君は、幽霊ではないの? 俺の近くにいて
――僕はただの糸切鋏だよ。僕らの世界にようこそ。それより、ここから早く出た方がいいかもね。貴方のこと考えると」
「どういうこと? 神田くん、
占は那月が以前、彼について何か言いかけていたことを思い出した。
しばらく気まずそうに、次の言葉を探す神田だったが、
「消しちゃうみたいなんだ、俺」
「何を……?」
「幽霊をさ、有無を言わさず。木っ端みじん。よく言えば成仏? ……な? 最悪だろ。別にやろうと思ってやっているわけじゃないんだけどね」
「さっきはごめんねぇー!」
空に向かって那月に神田は手を振った。
「俺、かなり迷惑かけていたみたいね? 本当にごめんなさい」
神田は口角を下がったいの字にして本気で申し訳なさそうに思っている表情だった。
「……西条君たちが羨ましいよ。人に見えないものが見えて。それにとても優しい力だ」
「物たちの声も聞こえるの……?」
「や、俺には普段は幽霊しか見えないよ。でもこの前の葉太朗のときもだし、今、君の鋏の声が聞こえたから、こっちの世界に入れば聞こえるみたいね」
「全然驚かないんだね」
「人間が幽霊になるなら、物にだって魂はあるって思うよ。幽霊は見えても君たちみたいにものと仲良くする力はないけどさ……見えないけど、信じていたいじゃないか。その方がずっと、面白ぇもん」
上を向いた神田の顔が月明かりに照らされる。階段は、まだ静かだ。
「……あー。いいなあ。俺の力ももっと役に立つものならよかったのになあ」
眉尻を下げてへらへらと笑って見せた。
「俺は、『彼ら』を無理やり浄化させちゃうだけ。強力な漂白剤ってとこだよ。話を聞いて、助けてあげる真音さんや西条くんとは大違い」
「人と違うってことは……、きっと何かできること、あるんだよ。きっと……」
妹と同じ事を言っている。自分にも言い聞かせるように。それを占自身も探しているのだ。
この石段が、何を見せたがっているのか、そもそもこの無口な石段の仕業なのか。ただの人間へのちょっかいか。
「……登ろう」
神田の苦しそうな様子を考慮したうえでの占の決断だった。薄桃の霧は行き先を示していないが。ここで3人、離れてはいけないということだけはわかる。こちらから何かアクションをしなければこの霧は抜けられないだろう。神田の肩を担ぐようにして登っていく。途中で、神田は腕を下した。
「いいよ、ありがと。変だけど、なんか楽になったんだ」
そういうと、見えない階段の先を見据え、足取り軽く占よりも速く登っていく。
「……君から見たら、ここは変な街だろう? 一見ただのさびれた商店街、辺鄙なところだけど、ここには何かある。姿を見せないけれどね」少し切れた息で言った。
「当たり前みたいに、そこに居れば、いいのにな。――それとも『見えない』から大事に思えるのかな。……おーい、階段さんよ、俺にはちゃんと言ってくれなきゃ、あんたが何をしたいか、俺があんたに何をしてあげられるか分からないよ」
そのとき、神田の四肢をつかむものがあった。目には見えないが、人間の手のような感触、一筋の風のように実体がはっきり確認できるものでもなかった。とっさに振り払おうとした弾みで神田は足を後ろに踏み外した。
「神田くん!」
一歩後ろに居た占は、見えない力で引っ張られていく彼を見て息を飲み手を伸ばすが間に合わない。神田の目には光より早い「彼」が、宙から自身に向かってくるのが見えた。
(君、俺に近づいちゃ……)
「駄目だ!」
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