西町レトロ館
瑞浪イオ
第1話 西町レトロ館
――行くところが無いの?」
「……どこに行けばいいのか分からないんだ」
――迷子なんだね」
「迷子じゃないよ。皆が僕を忘れて行ったんだ」
――そういえば君、『器』はどうしたの」
「僕にだって分からないよ」
――あんまりそのままでいない方が良いね。僕を使うといいよ。形は君と少し違うけれど、この口も手足もどうぞご自由に」
「……いいの?」
――いいよ。僕はあまり話すのが好きではないし」
「……そうは見えないけれど」
――今日はなんだかね、話したい気分なんだ。ここの皆も僕が久しぶりに口を利いたんで驚いている。……君の名前は?」
「…………忘れちゃった」
――あら、何も泣くことは無いよ。僕はねえ、色々名前があった。名前が無い時もあったよ。名前なんてあっても無くても、ただの記号なんだ。そうだ、僕の名前を一つあげようか」。
紅葉した夏蔦が赤いレンガと溶けあう。葉を落とした林が寄越す木漏れ日が、ひっそりと佇む「西町レトロ館」を浮かばせた。大きい建物ではないが、北欧を思わせる鮮やかな赤レンガの風格が「館」と呼ぶにふさわしい。ある金曜の早朝、住居になっている二階の部屋からお気に入りの銘仙に身を包んで、西条真音(まと)は階段を下りて来た。肩をとうに通り越した長い髪をポニーテールに束ねながら、らせん状の狭い階段を小さな足音が伝う。窓を開けて、部屋に朝の空気を入れてやる。2月の朝は肌を指すほど冷たかったが、綺麗な気持ちにさせた。
店主である祖父がまだ起きて来ないうちに此処へ来たのは、少々気になることがあったからだ。――昨日、骨董品を扱い、修理も行う「西町レトロ館」が客から買い取った日本人形のことだった。
「ねえ、真音、僕そいつ嫌だ。なんか不気味だよ」
鈴を転がすような声が空間を小さく揺らした。
「そんなこと言わないの」
彼女が返事をした先には誰も居なかった、――少なくとも人は。真音は小じゃれた緑のリボンを首元に着けた、年季の入った白いテディベアの頭を優しくなでる。
日の光を透かす硝子のペン立てに収まる何か言いたげな万年筆を軽く握ると当たり前のように真音の白い指の補助を受けて紙の上で滑り出す。
――真音さん、皆さん、おはようございます。一文房具の分際から申し上げれば、『彼女』も大分厄介そうですよ」
滑らかに紙に滑り落ちた言葉はそう言った、そう書いた。――『彼女』とは、日本人形を指している。
「うん。分かっているよ。――でもたぶん、大丈夫」
昨日の夕方、客の持ってきた日本人形を見て、真音は言った。「おじいちゃん、その子、買い取って」。その眼差しに、元より引き取ろうと思っていた祖父の健次郎だったが、意志は確信に変わり、客人との交渉は成立した。
真音は日本人形にそっと触れる。
黒い生きた瞳の中に、造った人へ想いを馳せる。それからぴんと張った糸のような真音の意識は人よりも長く生きてきた『彼女』の心へ溶けていく。拉致のあかない人の話に耳を傾けるよりは楽だ。遠くで今しがた起きてきた祖父がお気に入りの直火式のコーヒーメーカーで淹れる珈琲がふつふつ沸く音が聞こえる。何十にも壁に阻まれたような、ずっとずっと遠くで。そのもっと深淵に真音は行く。
真音は、日本人形のその絡んだ、光る黒髪を梳かしてあげる。
すると、聞こえて来たのはすすり泣く声。寂しい気持ちが真音の胸の奥に沈む、痛みを感じる。
「どうして泣いているの」真音の細く甘い声が幼子に問いかけるように響く。
――……みんなが、私を不気味というの」
何も言わずに真音はその日本人形を抱きしめる。もしそれが等身大なら、本当に人の子かと見違えるくらいの精巧な作りとは裏腹に、人形の中に洞を感じる。物理的な乾いた音と、聞こえないはずの声が聞こえた寂しさと。でもそこに確とある悲しさに真音は出来るだけ近づこうとする。――なんとこの世界で傷つく「物」の多いこと。
「新しい子はうちに馴染めそうかな」
「……おじいちゃん」
コーヒーを左右の手に持ち戸口に立っていたのは真音の祖父、健次郎だった。
「朝食ができているよ。早く食べて、それに着替えもせにゃ。今日は卒業式なんだから」
「……うん」そっと人形を机の上へ置くと、
「……この子、右手の指に傷があるから、おじいちゃん直してあげて。着物は少し傷んでいるから、あとで私が学校から帰ってきたら新しいのをこさえるわ」
「真音、今日は僕も連れて行ってよ」傍のテディベアが幼子のようにせがむ。
「だめ那月。今日はその子の傍に居てあげて。那月の方が、きっと気持ちを分かってあげられると思うの。その子の名前、聞き出せたら、明日連れて行ってあげる」そして思い出し、「……あ、明日から春休みだから、当番の日にね」真音は小さな声で言った。祖父は耳が遠い。
「じゃあ明日から真音ずっと家にいるの? やった! でも僕そんな人形なんて興味ないや。別に友達になりたくなんかないし」
――まあまあ、坊ちゃん、今日は兄ちゃんたちと遊んでようや」部屋の隅に居るにも関わらず圧倒的存在感を持つ、ガラスランプが言った。部屋に降り注ぐまだ柔い太陽の光で表情を変える彼は遠い昔スペインのグラナダから来た。日本に来てからは色んな地方で方言を習得し、面白がって不思議なイントネーションで喋る。
不服そうにも納得した那月とその周りを残し真音は中学校へ向かう。最後の登校日だ。陽だまりのなかの冷たい空気が肺に染み渡る。店の一筋の日光の中に祖父と静けさが残った。最も祖父には最初から、真音の小鳥のように小さな声しか聞こえていなかったが。このようにして西町レトロ館の時間が止まったような退屈で美しい一日が始まる。
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