十二、もがく人

「一旦休憩を取りましょう」

 太った男は端末を操作して通信を切った。片倉は端末を取り出した。


「本当だ。論文が公開されてますね。『大分裂以後の公共の福祉の限界と人々が幸福を追求する際に国家が果たせる役割について』だそうです」

 片倉は摘要と結に目を通しながら、画面を分割して東陽坂組織連合関連の資産変動グラフを表示させる。それを見て太った男も同じようにした。

 資産のうち株は取引停止寸前まで下がったが踏みとどまっていた。通貨の信頼度は地に落ちていた。太った男の端末に呼び出しが入り、部屋を出ていった。

 一人残された片倉は論文に線を引き、メモを取りながら読み進めた。


 しばらくして太った男が帰ってきた。茶と菓子を置く。


「今ざっと読みましたが試算にごまかしはないようです。ただし、さっき言っていたように人々が被るであろう心理的な衝撃はまったく考慮されていません」

 片倉がそう言うのを聞きながら太った男は茶を入れ、返事をした。

「そこの部分をまったく考えていないのであれば無意味ですね。その御説がいくらご立派に見えても」

「もう一度話をしてみましょう」

「そうして頂けますか。しかし、まずは菓子をつまみましょう。とにかく落ち着かないといけません」

「そうですね。ああ、これはいける」

「気に入って頂けてよかった。ただの大福ですが、栗餡がちょっとおつでしょう」


 食べ終わるとまた管理体を呼び出した。


「休憩、と言いますか、確認とか打ち合わせとかはお済みですか」

「なかなかご立派な論文で。おかげで東陽坂組織連合の資産価値にいささか変動が見られます。浄水場の保守にはあまり良い方向ではない動きですが」

 片倉は指についていた餡をなめ取りながら返事をした。

「やむを得ません。当面私も含めて甘受すべき変化です」

「しかし、筋は通っていますが、休憩前に指摘したように人々への心理的影響を無視している点が非現実的です。はっきり申し上げますが、これは机上の空論です」

「厳しいですね。ただ、今のままだと公共財という過去の遺産を食いつぶしているだけだという所は同意頂けると考えてよろしいですか」

「ええ、そこはその通りでしょうが、だからと言って建国までは飛躍し過ぎではないかと思います。論文では切り捨てられていますが、市町村程度のサイズの組織の緩やかな連合、といった位が現実的ではないでしょうか。つまり、今の状態から少しだけ結合を強める方向に誘導してはどうかと考えます」

「それではだめです。小さすぎます。例えばですが、そんな小規模な組織連合が宇宙開発を進められるでしょうか。また、原子力発電所の再稼働ができるでしょうか」

「宇宙開発? 原発? そもそもそんな巨大な事業の必要性が分かりませんが」

「本当にそう思っていますか。片倉さん、あなたの端末の位置測定はどの程度信頼できます? また、新しい事業を起こす際に電気の手配に苦労した事はないですか」

「だから建国するというのですか」

「ずっとそう言っているでしょう。公共の福祉のためです。それが整っている事こそ人々の幸福に必須の条件です」

「心が傷ついているのに幸福なのですか」


 管理体は黙った。機器は通信の接続は正常と示している。太った男の顔は固まっており、なんの表情も浮かんでいなかった。


「私への反論は、主に心が傷つく可能性が大きいという面から来ていますね。片倉さん」


 一分ほどしてから話し始めた管理体に返事をする。


「そうです。二件のうち一件は私への襲撃ですが、その経験からして肉体的被害よりも心への被害のほうが大きいと言えます。あなたが建国への活動を開始すればそういった害を被る人々が数え切れないくらい発生するでしょう」

「また言いますが、その害は不確定要素が大きく算定不可能です。しかし、過去の事例からすれば建国の利益を覆い隠すほどではないと推測できます」

「管理体、あなたの能力に疑いはありませんが、それは浄水場管理という点においてです。建国というはるかに大きく異質な事業に対しては荷が重すぎるでしょう」

「その通りです。だから私は各地の人工知能に協力を呼びかけ、行動指針や活動目標の算定と導出を行ってもらうつもりです。人間のためなら皆快く力を貸してくれるでしょう」

「私は人間として、あなたが明確に予想される問題から逃げている点を残念に思います。人は心にも傷を負うのです」

「逃げてはいません。その種の傷は寄り掛かれるような大きく、しっかりとした存在によってかなり軽減されます。さっきそれを考えていました」


 片倉と太った男は顔を見合わせた。管理体は続ける。


「私は天皇陛下を呼び戻すつもりです」


 二人ともすぐには返事できなかった。戸惑いながら片倉が口を開いた。


「天皇を拠り所に?」

「なります。と言いますか、そう誘導します。傷つき、疲れた心が癒される丈夫な柱として位置づけられるよう広報します」

「ハワイでしょ?」

「そうです。陛下は皇族ともども遷座後、現在はホノルルで日系人組織集団の保護下にあります」

「戻ってきて頂くのですか」

「国の象徴として、です。大分裂によって日本という土地を離れた陛下が建国の宣言を機に戻ってこられるという形になります」

「管理体、私がしているのは現実の話です」

「私もです。片倉さん。日本において人々の心をまとめる存在として最も都合の良い存在は天皇陛下と皇族です。そこの所は昔と変わりありません」

「不可能だ」

「建国という夢の前には不可能などありません」


「水野さんは認めないでしょう」

 太った男が口を挟んだ。

「これは私独自の計画です。連合とは無関係です」

「計画が明らかになれば連合に損害を与えます」

「ご迷惑ですか。では連合から離脱しましょうか。私も片倉さんのような独立人インディーズになってもいいかも知れない」

 ペンを机に打ち付ける硬い音がした。片倉は手ぶりで落ち着くよう制した。


「いいですか、お二人とも。色々と探りを入れておられるようですが、私の行動目標は一貫しています。人々の幸福の増大です。そのために必要とあらば一見突拍子もないように思えても実行します。建国もそうです」

 管理体は言葉を切ったが、二人が口を開かないので続けた。

「しかし、片倉さんの指摘で人々が被るであろう心の傷を無視してはいけないと思い至りました。だからこそ天皇陛下に日本の地へお戻り頂きます。それのなにがいけないのですか」


「管理体。良い悪いや実現性の議論は置いておきましょう。計画をどこまで広めたのですか。あの論文のように公表してはいないでしょうね」

「すでに全国の公共財管理人工知能には相談済みです。私のような存在ですね。ほぼ賛同を頂いています。修正案などの助言も来ています」

「勝手すぎる。相談もなしにする事ではない。そう考えなかったのですか」

「あなた方は遅いからです。なにをするにも遅い。しかも同時並行で複数の案件を走らせるのが下手だ。建国のような大計画にはふさわしくありません。黙って観客席で見ていて下さい。厄介事を起こさなかった組織にはご褒美をあげてもいいですよ」


「我々はF50試の提供と引き換えにあなたの全権を掌握している。今ここで機能を停止する事もできるのですよ」

 太った男が言った。

「私を全面的に制御する認証をお持ちなのはその通りです。でも、実行できますか。できないでしょう。あなた方のようなやわな人間が上下水処理の停止に耐えられるとは思えません。飲み水に色や臭いがついたり、そこら中を処理されない汚水が流れたりするんですよ。たぶん一日だって無理でしょう」

「昔は技術者が処理を行っていた。非常時用の手動操作盤は生きている。我々にだってできる」

「いいえ、できません。できるならとっくに私を止めているはずです。そうせずに口ばかりなのは無理だと分かっているからです」


 片倉は声に出さず口の動きだけで冷静にと言った。管理体はさらに続ける。


「あなた方は上下水処理のような生命線を人工知能制御にし、大分裂によって科学者や技術者といった人的資源が集中できない状況を作り出しました。慢性的な資源不足。それは力の喪失です。一方の私には力があります。勝負はつきました。あとあなた方にできるのは邪魔をしない事だけです。おとなしくしていれば幸せになれます。日本国民になれるのですよ」


 片倉は腕組みし、太った男はペンを回していた。沈黙がしばらく続いた後、管理体が言った。


「もうなにもありませんか。それではこの会話を終了したいのですが。わずかとはいえこれに費やしている演算能力を他へ振り向けたいのです」


 太った男が黙って端末を操作し、機器の接続表示が消えた。


「我々の完敗ですね。片倉さん」

「しかし、管理体は人間の幸福を追求しようとしているだけです。道具が仕様通り動いているのだから喜ぶべきかも知れません」

「人間の幸福を実現しようとすると、人間は不要とはね」

「作業は彼らのほうが得意なんでしょう。しかし、社会のあり方まで規定されるのはもやもやします」


 二人で報告すると、木下は笑った。

「建国とはたしかに大きな夢ですね。でも案外さしたる抵抗はないかも知れないな。心に傷を負う人も思ったより少ないかもですよ」

 木下は二人の顔を順に見て話し続けた。

「つまり、我々のような世代は元に戻るだけだから。民主主義制度の日本で、象徴に天皇がいる。むしろ大分裂以前になるなら歓迎する層が多いんじゃないですか。片倉さん、国家というのはそんなに悪いものじゃないですよ」

 片倉はそう言う木下を見て言った。

「でも、私は独立人インディーズなんです。国家という概念の対極にいる存在なんです。自分の主人が自分でなくなります」

「それは困りましたね。結局のところ、組織間の摩擦で傷つくよりも、あなたのような考え方の人の方が痛みを抱えるんでしょう。でも、時代は流れ、変わります。うかがった内容からして今の分断しきった組織では抵抗できないでしょう」

 大きく息を吸った。

「多分ですが、この動きは日本だけとは思えません。世界の各地域で人口知能たちが同様の活動を始めるでしょう。大分裂が終わり、集合していく時代になったんです。民族毎か、地域毎か、とにかく利害を一にする最大の集団が生まれる。それはほぼ旧国家と変わりないでしょうね」

「新しい時代、ですか。中身は古いけれども」

 木下は笑った。

「それが歴史ですよ。片倉さん。細かい所は少しずつ変わりますが、繰り返しです。今度の維新は人工知能が起こすようですが」

「そうかもしれません。ただ流されるだけですが、もがいて苦しむよりも、のんびり浮いていられるようにしますよ」


 木下は片倉を睨んだ。


「嘘はだめです。片倉さん。あなたはずっともがく人だ」

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