第1章 旅立ちと、来たる過去よりの使者

蒼穹と鳥影と奈落

 ふと目を開けると、そこはただただ何もない真っ青な空間だった。


 窒息しそうなほど、深くて濃い青色の中を、私はふよふよと漂っている。


 ここはどこ? 無限に広がる青の中で別の何かを見つけようと、私はぐるりと辺りを見回した。上を見て、左右を見て、後ろを見て、そして最後、下を見て……げげげ。そこに信じられないものを見つけ、恐怖で慌てて上へ逃げようと、手と足としっぽをジタバタさせる。けど、ちっとも身体は動かない。


 ど、どうやらここは空で、私は宙に浮いてるようなんだけれど、これ一体どういう仕掛けになってるんだろう!?


 って慌てたのにもちゃんと理由があってね。ほら、下を見てみて! 


 私のつま先から遥か下、地面のところ! この高さからでもハッキリと分かるぐらい、とんでもなく大きな穴が開いている。とてつもなく深い穴らしく、底が全く見えないのだ。さらにただの穴という訳ではなくて、えっとお、なんていえばいいんだろ。ドーナツ状の円を思い浮かべてほしいんだけど、その穴の部分だけ地面が残されていて、身の部分が穴、つまり溝となっている状態っていえばわかってもらえるかしら。


 遥か遠く、彼方から流れ来る大河の水が、ゴウゴウと地響きをたて、その深い溝に流れ落ちていく。けれど溝に水が溜まり、あふれてくる気配はない。それほどふっかーい穴なのだろう。


「いよっ! ダンナ。どうやら雌雄を決する戦もここで終わりのようだねえ」


 この異様な風景の中で、突然場違いな、のん気な声が響いた。私は驚いてあたりを見渡す。今のは人の声だった! 声はどこから? また足下から? つま先からさらに下を見下ろすと……あ! いたいた! 確かに人がいる。いや、その誰かさんも宙に浮いてる!? だいぶ距離があり、上から見下ろす私にはその人物の顔はわからない。けれど、陽の光を受けて輝く浮かぶ美しい黒髪に、同色の衣服を身にまとっているのはわかった。背格好からして私と同じくらいの年齢の男性に見える。


「……ああ、そうだね」


 また別の声だ。今のはすごく低くて落ち着いた大人の男性の声。声のした方を見ると、やっぱりだ。黒髪の少年から少し離れたところに、彼より背丈のある、ストロベリーブロンドの長髪の男性がやはり同じように浮かんでいる。藍色のローブを身につけていて、裾が風ではためいている。


「君のお陰で……は守られた。我々の勝利だ」


 え? なにが守られたの? 大切なところが聞こえなかったけど? その場から動けないけれど、位置は変えられる。私は逆さになって耳をそばだてる。


「まさに天命ってヤツだったね。そうでなきゃ、こうはいかなかった」


 少年が足下を見下ろした。そこにあるのはもちろん大穴。え、まさかこの大穴を開けたのって……?


「味方ながら恐怖を感じるなあ……この大穴どうしろと?」

「んー、でもほら、うまく地形を利用すれば難攻不落の城とかが築けそうじゃん?」


 やっぱりそうなんだ! この穴を開けたのはあの男の子なんだ! 大切なテラ・マーテルの地面にこんな穴開けちゃってどうするつもりなの!? そんな私の気持ちが伝わったのか、青年は深いため息をつく。でもそれも束の間、途端、緊張が走る。


「しかし、まだ終わりではない、私にはあと一つだけ仕事が残っている」


 和やかな雰囲気が一転、青年が少年に向けて構えたのがここからでもわかった。まさか二人はここでやり合うってこと? って相手はこんな大穴開けちゃうようなヤツでしょ? かなうわけないじゃない、逃げて、お兄さん! 逃げてー! って叫んだものの、私の声は全く出てこない。


「そうだねえ。でも大丈夫。俺も引き際くらいは心得てるからさ」


 一方の少年に、その気は全くないらしく、相変わらずのん気な態度でそう返した。


「俺、実はふわふわした生き物、大好きなんだよねえ」


 バトルとかにならなくてよかった、とほっとしたのも束の間、何かと思えば唐突に少年の自分語りが始まった。私もだけれど青年も、気を削がれてしまう。青年は呆れたように腕を組む。それを笑って受け流し、少年は話しを続ける。


「オコジョだっけ? フェレットだっけ? 昔飼ってたんだ。モモちゃんって名前でさあ」


 オコジョ、フェレ……え? 一体なんの話かしら? 私には全くわからない単語を並べ、少年は心から楽しそうに笑い、なぜか顔を上げた。え? 私の存在がバレる!? と思いきや。彼はすぐさま前に向き直る。はぁ。気のせいかあ。こちらの存在に気づいた雰囲気は全くないところを見ると、私の姿は、彼らに見えていないようだ。


「だから転移して消された記憶が、戻ったのかもしれないなぁ」


 不意に少年がうつむいた。


「……不本意であったとはいえ、しばらくの間、彼らを手にかけてしまったのは……辛かった」


 絞り出すような声がして、しばらく沈黙が続く。でも、少年は髪をかきあげ、自ら重たい空気を振り払うように明るい声で笑った。


「もしチャンスがあるとするなら次は、彼らに囲まれて、平和で楽しいラブコメみたいな日常を送ってみたいね」

 

 呆れ果てた青年の制止も聞かず、彼は続ける。


「筋肉ダルマたちと紡ぐ戦記モノはもうやり尽くしたからさ。俺だって一応は夢と希望あふれる健全な青少年なんだ、だから今度はジャンルを……」


 わかった、わかった。と青年が制し、二人は吹き出し、笑いあった。和気藹々とした時間が過ぎる。しかししばらくして青年が一度息をのみ、


「それならば……」


 言いにくそうに切り出した。それを少年が遮る。


「わかってる。その夢を実現にするには、今俺は、ここにいない方がいい。それに」


 肩をすくめる。


「今の俺に、旦那に抵抗できるような力は残されちゃいないしね」


 彼はひらひらと、降参といった様子で手を振った。


「おやすみ旦那。お手柔らかに頼むよ」


 ストロベリーブロンドの青年が、少年に向かい、小さく何か囁いた。その声は風にかき消されて私には聞こえない。でも少年はというと小さく、うれしそうにうなずき返した。


「……おやすみ。……てくれ」


 青年が最後につぶやいた。お別れの言葉に違いない。。寂しげなかすれた声がすると、黒髪の少年の身体から力が抜け、仰向けに倒れた。その時初めて私は、少年の全身を見ることができた。革で作られた身体の線がはっきり出るような上下黒の服を着ている。身体は華奢で、身長は私より少し高いくらいだ。けど衣服はあちこち無残に破れ、その穴から白い肌が見え隠れしている。声からはわからなかったけど、酷いケガを負っていたみたい、とても痛ましい姿だ……。


 その満身創痍の少年の身体を、両手に抱こうと青年が手を伸ばした、その瞬間だ。


 視界の端からとんでもない速さで、大きな羽を持つ白い何かが飛び込んできた。それは、今まさに気を失った少年を奪わんと、青年に飛びかかる。


「貴様何を!? 約束が違う……!」


 もみ合う青年と大きな鳥。舞い散る真っ白な羽。少年の身体は宙に投げ出されて……いけない! 真っ逆さまに落下を始める。 とはいえ今の私では彼を追うことも、ましてや彼を助けることなんて出来なくて……。


 少年の後を追う鳥。さらにその後ろを追い急降下する青年。少年はどちらに助けを乞うこともなく、ただただ深い穴の奥底へと、静かに真っ逆さまに堕ちていった。

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