第9話 その先へ ―①

 ――透子とうこside



 いつもと何も変わらない一日が始まると思っていた。

 が、違った。



 昨日遊び疲れていたせいか、目を覚ましたのは午前11時。

 起きてすぐスマホを開き、明から連絡が来ていないかLINEを確認する。


「あれ、来てない。明もまだ寝てるのかな」


 ここ最近、明とLINEのやり取りが途絶えたことはなかった。

 朝は先に起きた方が『おはよう』のメッセージを送り、夜は『おやすみ』のメッセージを送る。

 一緒にいない時間はいつもLINEでメッセージを送り合うか、通話をしていた。


 大概たいがいあきらの方が先に起きるため、起きるといつもLINEにメッセージが届いていたのだが。


 昨日一日遊びつくしたことで、さすがの明も寝坊をしたのかもしれない。

 通知で起こすのも悪い。

 午後になってまだ連絡がなければ、こちらから『おはよう』と送ろう。


 わたしはベッドから起き上がり、顔を洗ってから家族と一緒に昼ご飯を食べた。


 この夏、もう幾度となく食べて飽きてしまったそうめんを腹に流し込み、自室へ戻ってスマホを確認する。

 通知が来ていて、明だと思って開いてみると、クラスメイトからの遊びの誘いだった。


 明からの通知は、何も来ていなかった。


 時刻は午後12時30分。

 明がこの時間まで起きていないとは考えづらい。


 明もこちらが寝ているかもと気を遣っているのだろうか。

 恐らくそうだろう。そうに違いない。


 わたしは試しに『昨日はありがとうね』という旨のメッセージを送ってみた。

 いつもなら5~10分ほどで既読が付くのだが、1時間が経ってもそんな気配はなかった。


 さすがに不安になってくる。

 明に何かあったのではないか。

 ひょっとしてまた風邪で倒れたとか。


 よからぬ想像に駆られ、居ても立ってもいられなくなった。


 わたしはすぐに外着に着替え、スマホと定期だけを持って家を飛び出し、明の家へと向かった。


「明……っ」


 眩しく照り付ける太陽。熱気を放つコンクリート。

 そこら中で鳴り響くセミの合唱と、街の喧騒。

 その中をわたしは駆け足で抜けていった。


 体力を持っていかれようが、汗を掻こうが関係ない。

 今は一刻も早く、明のもとへ行きたかった。


 明の家の前へ来ると、初老と思しき優しい雰囲気の女性が家の前に立って道の奥を見つめていた。

 彼女はわたしを視界に収めるなり、大きく目を見開き、


「明……ちゃん?」


 と呟いた。


「あ、いえ、わたしは」


 え、なぜわたしのことを明だと?

 戸惑いがちに自分の名前を明かそうとすると、その様子を見て女性は納得したように微笑んだ。


「あなたが、透子さん、ね」


「そうですが……」


 わたしのことを知ってる?

 ということは、この人は明のお母さんだろうか。


「明は……? 明はどこにいるんですか?」


 明のお母さんと思しき女性は首を横に振り、穏やかな声音で言う。


「明ちゃんがどこにいるかは私にも分からないの。明ちゃんね、お昼前に突然家を出て行っちゃったのよ。だけど大丈夫、安心して。『ちゃんと帰るから心配しないで』って言い残していったから」


「家を……!? どうし――」


 明が一時的に家出をした理由。

 それには心当たりがあった。


 わたしがこの女性から最初にかけられた言葉は何だった。


 ――明……ちゃん?


 まさか我が子を見間違えるとは考えづらい。

 何せ明の外見とわたしの外見は身長も雰囲気もまるで違うのだから。


 だとすれば、わたしのことを明だと思う理由は一つ。


「第四、段階に……? 姿が変わった、そうなんですね……っ!」


 女性は頷いた。


 そう、か。

 明、そんなにもわたしのことを好きになってくれたんだ。


 嬉しい。

 すごく嬉しい……のに、どうしてこんなにも胸が痛いのだろう。

 どうしてこんなにも泣きたい気持ちなのだろう。


 昨日、明に甘えて一緒にいられる時間を引き延ばした。

 それなのに、延長されたと思っていた終わりの時が、こんなにも早く訪れてしまったから。


 涙がこぼれそうになって、女性に背を向けた。


「コーヒーでも淹れるから上がっていって」


 背後から家の門を開けて中に入る音が聞こえた。

 わたしは深く息を吐き、腕でゴシゴシと目元を擦ってから彼女の後を追った。


 家の前まで明を送り迎えすることは何度かあったが、中に入るのは初めてだった。

 リビングに案内され、ソファに腰かける。


 光を多く取り入れる造り。

 リビングから二階が吹き抜けになっており、天井が高いため開放感がある。


 築年数が浅そうだ。

 そういえば、小学校の頃に一度引っ越したって言ってたっけ。

 初めて、ドッペルゲンガーとして第四段階まで行ってしまった時に。


 嫌な予感が頭をよぎる。


「もしかして、引っ越すんですか……?」


 荷物がまとめられている様子はない。

 しかし、他の部屋のものはもうすでにダンボール箱の中に詰められているなんてことだって考えられる。


「引っ越さないわ。あの子に反対されちゃったもの」


 女性がクスクスと笑って答えた。


 そっか、よかった。

 これからはこれまで通り会えなくなるのだから、どこにいても同じ。

 けれど、近くにいると感じるだけで少しは気が楽になる。

 遠くにいると思うと、余計につらくなるだろう。


 女性は一度キッチンへ行き、少ししてからトレイを持って戻ってきた。

 ソファの前のガラステーブルに湯気を立てるコーヒーカップとチョコレートの乗った皿が置かれる。


「ろくなお菓子がなくてごめんなさいね」


「あ、いえ、きょ、恐縮です」


「んふふ」


 わたしの慣れない物言いに女性が笑った。

 ちょっと恥ずかしい。


「はい。お砂糖いるのよね?」


 コト、とわたしの前にだけシュガーポットが置かれる。

 どうして明のお母さんがそんなことを知っているんだ。


「明から聞いたんですか?」


「いいえ、明が最近そうなったから」


「ああ……」


「明ちゃん恥ずかしがり屋だから、聞いても教えてくれないのよ」


「明らしいですね」


 明は自分のことを進んで話そうとはしないタイプだ。

 それが昨日はなぜか、些細ささいなことまで話してくれた。

 その時はすごく嬉しかったのだが、最後の日だと思って色々と話してくれていたのかと思うとなんだか悲しい。


 わたしはあえて砂糖を入れないままコーヒーを口に流し込んだ。

 苦い……。


「透子さん」


 正面のソファに座った女性が、姿勢を正してこちらを見つめる。

 表情は穏やかそのものだが、目には真剣な思いが宿っているのが分かる。


「明ちゃんのそばにいてくれてありがとう。あの子ね、あなたと過ごすようになってからすごく明るくなってたくさん笑うようになって……あなたにはどう感謝したらいいか」


「そんな……感謝されるようなことじゃありません」


 元々はわたしの我が儘に明を付き合わせただけに過ぎない。

 いや、違う。

 最後までわたしの我が儘だったじゃないか。

 初めに決めたタイムリミットを破ろうと提案して……。


 だから感謝なんてされてしまっては、いたたまれない気持ちになる。


「でも、だからこそ、あなたに感謝をしているからこそ、お願いしたいことがあるの」


 最後の方、声がかすれていた。

 緊張しているのだろうか。

 あるいは、慣れないことをしているのだろうか。


 女性はコーヒーを一口含み、大きく息を吐くと、またわたしの目を見つめて言う。


「どうか明ちゃんを――忘れてあげて」


「それは……っ」


 ……嫌だ。

 けれど、そうしなければいけないという理由はよく分かっている。


「明ちゃんがあなたになれば、明ちゃんだった頃の記憶は残らない。でも、自分がドッペルゲンガーだという認識は忘れないの。あなたという人を消してしまったと自覚した時、あの子はひどく後悔すると思うわ」


 それに明のことだ。

 離れた上でも、わたしが明のことを後に引けば引くほど、あちらもつらい思いをすることになるだろう。

 きっぱりと明のことを忘れ、明るく振舞って過ごすのが一番だと分かっている。

 そう、分かってはいるのだが……。


 明のお母さんは深々と頭を下げて言う。


「だからお願い、透子さん。あの子のためだと思って」



 気が付けば、帰路についていた。

 真夏の炎天下の中歩いていたはずなのに、不思議と汗を掻いていない。

 気温がうまく感じられない。

 今が暑いのか寒いのかよく分からない。


「明のため……」


 明から離れ、明のことを忘れる。

 避けられないその事実に、わたしは深い絶望感を味わっていた。

 まるで自分の半身を失ったような感覚だ。


 わたしにとって明はかけがえのない存在。

 だからこの時を覚悟していた。

 覚悟していたつもりになっていた。


 どう心の準備をしたって、どうしようもなくつらいものなのに。


「でも……これでいいの……?」


 本当に明のためになるのは何だろう。


 夏休み前の、わたしと付き合う前の明を思い出す。


 人を避け、誰も好きにならないようにしていた明。

 いつも一人で、いつでも感情を抑えて。

 明は、一生そうして生きていく道を選ぶつもりなのだろうか。


 いや、ダメだ。

 わたしは、明に幸せになってほしいのだ。


 夏休み中の明は本当に楽しそうだった。

 前よりよく怒るようになったし、笑うようになった。


 明には、笑っていてほしい。

 そのためなら、自分が消えてしまっても構わない。

 付き合い始めた時から――ううん、最初に明を好きになった時から、そう思っていた。


 きっと明には恨まれちゃうだろうなぁ。

 あと、明のお母さん、ごめんなさい……!


 けれど、自分のやらなければいけないことがようやくわかった。


「明を探さなきゃ……!」


 わたしは駆け出した。

 心当たりはいくつかある。

 それをしらみつぶしに探していこう。


 まずは初めて少しだけ遠出をした海。

 次に初デートで行った商業施設。

 一緒に買い物をしたショッピングモール。

 たくさんお喋りをしながら歩いた公園や街の通り。


 そのすべてを見て回った頃には、日はすっかり沈み、夜になっていた。

 しかし、明はどこにもいなかった。


 この夏休みに過ごした思い出の場所はすべて当たった。

 明ならば、きっとそのどこかに行っていると思ったのだが……。


 いや、まだあった。

 わたしたちが過ごした思い出の場所が。


 すでに疲労でパンパンになった足に鞭を打って、わたしはその場所へと駆けた。


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