恋獄

緑夏 創

恋獄

「善悪の境が、わからないのです。人が、わからないのです」


その声はまるで、凍土で落ちた涙が地に着くまでに凍りつき、そして落下と共に砕け散るような、そんな儚い美しさを孕んでいた。

 そんな声の持ち主である、目の上で漆黒の艷髪を水平に切り揃えた、反面顔は凍死体のように蒼白な少女は、消え入りたいかのようにそのか細い肩をさらにすくめて、使い古され黄色い中身がまるで裂けた腹の中身のように覗いているパイプ椅子に縮こまって座っていた。そんな彼女のすぐ向かいには、一人の白衣の男が同じようにぼろぼろのパイプ椅子に座っていた。男はその腐った青魚のような眼で彼女を俯瞰しながら退屈そうに頬杖をつき、されど口元だけは、形だけはと言いたげな、そんな取り繕った微笑みをいやらしく貼り付けていた。


「ねぇ、"先生"」


 先生、男は確かにそう呼ばれた。

 だが、"先生"。そう敬称するには憚られる程、どうも彼もまた不健康に蒼白で、下瞼には小判のような隈がべったりと張り付き、目には潤いも光も見受けられず、深い深い底なしの、またはすぐ底であるような、そんなべっとりとした灰色がその瞳に塗り広げられていた。まるで衰弱死して間もない人間を無理やり機械で動かしているかのような、そんな印象を抱かせる。

 そんな男に対して、パイプ椅子の縁を片方の手でぎゅっと握りながら少女は、震える唇を押し広げて、水晶のように澄み渡った冷たいその声を放った。


「……本当に、わからないのです。それなのに、押し付けられるのです。普通を、当たり前を、道徳を、価値観を、皆が共有するコミュニティを、何もわからぬままに、納得できぬままに押し付けられるのです。教えを乞う事すら許されません。今日もまた虐げられたのです」


「そうですか。それは実に難儀ですね。腕を見せてご覧なさい」


 男の放つ冷徹なまでの慈悲。

 少女は言われるがまま、その黒い制服の袖を重たそうに持ち上げた。そして顕になった腕には赤黒い線がまるで降りしきる雨のように揃っては、その白い肌の居場所を根こそぎ削り尽くし浮かび上がっていた。

 その凄惨な事態を始めから知っていながら、なお男は、


「またこれは随分と切りましたね」


 そう慈悲深く微笑んだ。


「すみません……」


「取り敢えず消毒をしておきますね」


 だが、少女は横に首を振った。


「化膿してしまいますよ。そうなると、厄介だ。化膿すれば、それは心の傷と同じように治り難く、そして深く痛む事になります。私は医者ではありませんから、そうなれば私は手の施しようがなくなり、ただ貴方が更に増えた痛みに苦しむ様を何も出来ず見ている事しか出来なくなるのです。私は一応貴方の先生であるのですから、それは良心が痛むのです」


 男は一切表情を崩さず、ただ聖者のように微笑んだまま、声音だけは慈悲深いような、哀れみ深いような、打ちひしがれ傷ついた心を下から大きな両手でそっと包み込むような、そんな声で少女を抱擁した。

 だが少女は意に介さず、ただ冷淡に、


「その、良心とは何なのでしょう」


 と、水平に切り揃えられた前髪で元々乏しい表情を更に隠しながら首を傾げた。


「そうですね。良心、それは人を思いやり、善き事をしてやろうとする心の働きの事でしょうかね。まさしく貴方が直面している難題そのものでもあると言えるでしょう」


「善き事、悪き事、善悪。……あぁ先生、聞きたい事があるのです。皆に虐げられ、時にはまるで化け物のように見られる、私はただわからないだけというのに。でも、ああでも、そんな私はやはり悪しき者なのでしょうか」


「……それは測りかねます。私は……」


 続けられようとする男の言葉を遮って少女は、パイプ椅子を吹き飛ばす程の勢いで立ち上がると一直線に、一目散にその男の胸に飛び込んだ。少女は、その薄く頼りなくとも、自分よりかは大きく広いその胸に、無邪気な幼子のように顔を当て、反面男を逃がさぬよう両の腕を男の丸まった背にまわし、抱き締めた。人を恐れに恐れて震えきっていた先程までの少女とは思えぬその大胆な行動に目を丸くする事は一切無く男は、表情筋に貼り付けられたその完成された微笑みを微塵に崩すことも無く、その曇りしかない灰色の瞳を僅かにも揺らがせる事なく、先程と何ら変わり無い様子で少女をただただ俯瞰していた。少女は先程の死人のように青ざめていた頬をまるで愛を告白して間も無い生娘のように赤らめて、そして熱い吐息を男の胸に吐き当てては、跳ね返ってくる自らの吐息の温もりに生の実感を確と得て、そうして愛おしげに瞳を潤ませた。


「ああ、やっぱり先生は優しい。優しいから、そう答えるのは分かっていました。 ああ……でも、私も質問が悪かったかもしれません。だから今一度問いますね。……ねぇ、先生。私、人間がわからないだけじゃ飽き足らず、ましてやそんな人間を殺してみたいとも思ってしまっているのです。フ……フフ、どうでしょう。やはり私は悪しき者なのでしょうか。 教えてください、先生」


「世間一般の観点で見れば、それは悪と言えるでしょうね」


 男は間髪無く、迷いすらなく、ただ頭に浮かんだ回答を機械のように発した。それに対して少女は最早朗らかと形容すべき仄赤き笑みを、青白い月光のように白麗としたその肌の上に咲かして、満足気に、また妖艶に目を細めるのである。


「……ところで先生。人がわからぬ私ですが、それでも一つ二つはわかりかけていそうな事があるのです。私、人は皆好きな事をしたいと思って生きていると思うのですけど、そう思い、実行する事、それは悪なのでしょうか?」


「いいえ」


 男はただ首を振る。


「なら、私は私を虐げた人達に報復等そんな野蛮で窮屈なものではなく、ただ単純に好奇心から人を殺してみたいのです。当たり前を、普通を、道徳を、ただ私欲のままに切り裂いてやりたいのです。ねぇ、先生、教えてください。好きな事を、やりたい事をやりたい私ですが、それでもやはり殺しは悪なのですか」


 少女の指は、男の背をなぞり、首をなぞり、輪郭を経由して、耳に至るとそこにかかった髪を優しく払い、そして口元を近づけた。温かで柔らかな吐息が耳孔を駆ける。その蜜のように甘美で、そして扇情的な仕草に瞬き一つ乱さず男はまた「測りかねます」と、ただ一言、機械的に呟いた。


「…………………先生」


 しばらくの沈黙の後、紡がれたその言葉には、男をどこまでも彼方に突き放すような失望が込められているようだった。

 だが、少女はフフと艶めかしく笑って、如何にもご機嫌を粧って見せた。その意図は誰にもわからぬ。ただその不気味に愛らしい微笑みが、より一層少女を孤立させていく。それを誰も教えぬ不幸せがより一層少女を歪めていく。

 そんな少女に対し、男の心が抱くのはただ一つ、「美しい」、その感嘆一つであった。


「ただ一つだけ教えてあげましょう」


 そう言って男は少女の瞳を覗き見た。遊女の如き扇情的な、また恋する生娘のようなひたむきの熱を帯びた彼女も、やはりその実態は、この世に怯えきった、割れる寸前の氷の如き儚き少女である。そんな歪み脆く崩れゆく彼女を、男はやはり美しいと、そう何度も心の内で感嘆を漏らしていた。


「善も悪も、その人の主観ですよ」


 男は熱い嘆息を漏らした。


「普通も道徳も当たり前も価値観も全て当人の主観です。周りと認識を共有するだとか、客観的に考えるだとかも結局は全て主観でしかないのです。この世は人間一人一人の主観が渦巻いているのです。故に貴方は正しく、また同時に間違っている。実際善悪の境なんてものも、白黒も有るか無いかも、全て貴方の思うがまま。故に」


 そうして男は少女の震える身体を両の腕で感じながら、自ら覆い被さるように抱き抱えた。胸と胸が重なり、互いの心音を互いに感じ合う。心が重なり、呼気が合わさり、彼らは互いに一つになったような感覚に、心が堕落するような安堵を覚えた。


 そして、


「貴方の思うがままに為しなさい」


 続けられたその言葉に、一人は涙を流し、一人は変わらず微笑んだ。

 見えぬ表情を互いの胸で、指で、肌で、体で、頭で、心で感じ合い、


「ああ……」


 そして二つの恍惚が重なり合った。


 砂の城が濡れた所から崩れ出すように、少しづつ、ずるずると先生の手は少女の背から落ちていく。少女のか細い肩に顎を乗せ、支える力を失った身体は少女にそのままのしかかり、それに任せて少女は床に倒れ、二人はまるでまぐわっているかのように全身を重なり合わせた。

 男の白衣には赤い花がじわりじわりと咲いていく。それを重なり合わせた全身で少女も感じていた。あぁ、あぁ、と恍惚はさらに深まり溢れ出し、少女は頬を赤らめ絶頂に震えた。

 そして男の温かな腹部を弄り回しながら、堪えきれずに彼女は、


「アア、好きです! 先生」


 そう胸に去来した愛を叫んだ。

 男は凍ったように、いつまでもいつまでも、どこか満足気にも見える微笑みを浮かべていた。





 アア、どうして間髪入れずに悪だと、間違っていると、たった一言、いつものように言ってくれなかったのですか、先生。私、もう後戻り出来ません。嗚呼、私……本当は。


 本当に凍ってしまったように固まった先生の冷たい唇に触れながら、少女は少し悲しそうに微笑んだ。

 目の前の惨憺たる地獄。男の創り出した芸術に、少女はただ熔けるように身を任せた。

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恋獄 緑夏 創 @Rokka_hajime

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