むっつ

「オヨー!(作戦変更!)」


 作戦『プランB』は目的地までの距離が延びるが、ある障害物(建築物)があった。

 その頃、息子はまだ相棒を夢中で愛撫していたが、クラクションや罵声でちょうど我に返ったところであった。


「おふくろはどこだ⁉︎」


 見渡すと母親は交差点を渡った先にいた。


「畜生‼︎」


 息子が母親に対して使う言葉ではなかったが使っても仕方ない気がする。

 彼は相棒である(元)新品の金属バットのグリップをめいっぱい握りしめてあとを追いかけた。


 前にいた通行人はみな脇に避けて道を空けてくれた。

 それはそうでしょう。

 むさいヤンキー(DQN)が凶器にもなる金属バットを振り回して走って来るのだから。


 しかし息子はそのような使い方をする気は毛頭なかった。

 青春時代の一番輝いていた一番立派な時の相棒を、乱暴に扱うつもりは微塵もなかった。

 ただ長くて太くて硬い相棒を握った右手が熱かった。


「もう逃げられないぞ!」


 初めて使ったセリフがカッコいいと思った息子は、部活で校庭を走らされた事を思い出していた。

 嫌で嫌で堪らない思い出が、この追いかけっこで甦ったのだ。


 でも今は楽しい。

 自分の手元に(元)新品の金属バットが帰って来たのだから。

 腕を振って走っていると相棒の振動がまるで脈を打っているかのようにドクッドクッと右手に伝わり、興奮して気持ちよくなって来た。


「もう、はぁはぁ、いい加減……はぁはぁ、あきらめろや、はぁぁん!」


 だが、かなり疲れ果てて来た。

 距離はかなり近付いて来たが、まだ届かない。

 息子はへばり始めたが、母親はまるでオリンピックで見る長距離ランナーのような華麗なフォームを保ったままだ。

 股関節を痛めたとは思えない強靭さで独走した。


「なんてヤツだ!」


 母親は角を曲がった。

 そこには謎とされていた障害物(建築物)があった。

 その建築物は白く比較的こぢんまりとしていた。

 脇には白黒の自動車が止まっている。

 入り口の上には派出所と書かれてあった。

 つまりKOBAN(交番)の事である。

 母親の考えでは、小心者の息子ならここで足がすくんで追ってこないだろうと踏んだのだ。


 しかし息子は追いかけて来た。

 右手に握りしめた相棒が力と勇気をくれた訳ではなく、気持ちが高揚して周りが見えなかったからだ。

 ただランナーズハイになって意識が飛んでいただけの事であった。


 母親は焦った。

 この先の距離を計算すると目的地に着く前に捕まる可能性が限りなく大きいからだ。

 親子なら、おおごとにしたくないはずの行動を起こした。

 彼女にはもう関係ない、ミッション遂行の障害物をただ排除するだけだ。

 派出所に向かって母親は大声で叫んだ。


「オ、オヨ! オヨヨヨ!(お、お巡りさーん!) オヨーー!(助けてーー!)」


 いくら歯を失ったとしても、もう少しまともに喋れたはずだが、もう癖になってしまった。


「なんだ! なんだ!」


 なにを言っているか分からなかったが、なにか事件が起こったと交番にいたお巡りさん達がざわめき立った。

 入り口のドアを開け確認すると、逃げる婆さんと追いかけるヤンキーにいちゃんが見えた。

 しかもヤンキーにいちゃんは凶器にもなる金属バットを持っているではないか。


 事件だ! 事件の香りがする。

 これからパトロールの巡回を行うため準備万端なお巡りさん達だった。 

 交番には三人いて、二人が追いかける事にした。

 ひとりは中年のパパで、もうひとりは着任したばかりの新人の若手だ。


「待てー!」

 

 中年のパパが叫んだ。


「ちょ、待てよ!」


 新人の若手がチョット決めながら叫んだ。

 だが息子はランナーズハイなので気付かない。

 でも息子は不摂生なので、日頃から鍛えているお巡りさんには敵わない。

 すぐに追いつき近付いて、中年のパパが優しく語りかけた。

 優しく対応しないと逆に危険とマニュアルに書いてあるからだ。


「君、待ちたまえ!」


 今度は聞こえた。

 息子は振り返った。

 いつもの癖でヤンキー風のガンを飛ばしながらの振り返りだ。


「なんでぇ!」


 息子は決まったと思った。


「署まで来てくれないかな」


 声の主が中年のパパのお巡りさんであることで、息子は決めたまま緊張で硬直してしまった。


「な、なんでぇ……ですか?」


 二人のお巡りさんに囲まれて、頭の中が真っ白で声がうわずった息子。

 お巡りさんは初めてではないが、その時はお仲間がいて隅っこで空気になってやり過ごしたが、ひとりぼっちでの対応は初めてで怖かった。


「ちょっと話を聴くだけだから」


 中年のパパがマニュアル通り優しく応えた。


「で……ですか?」


 息子の体が震えているのが声の震えで分かる。

 体の震えが右手に持った金属バットに伝わり大きく揺れた。

 それを見たお巡りさん達はたじろいだ。

 ヤンキーにいちゃんが今にも金属バットと言うその凶器を振り回さんとしている姿に見えたのだ。


「凶器は危ないから下に置いて」


 中年のパパは諭すように話しかけた。


「早く凶器を捨てるんだよ!」


 新人の若手が生意気そうに叫んだ。


(凶器を捨てる?)


 息子には訳が分からない。

 手に持っているのは大事な相棒。

 やっと取り戻した宝物の(元)新品の金属バットしか持ってないのだから。


「と、とにかくその手に持った凶器を地面に捨てなさい」


 中年のパパは焦りながらも優しく言った。


「抵抗するな! 早く凶器を捨てろ! 捨てろってんだ!

 捨・て・ろ! 捨・て・ろ!」


 新人の若手があおるように生意気に叫んだ。


「君ぃ……

 あっ、ゴメンねぇ」


 中年のパパが新人の若手をいさめようと汗をかいている。

 凶器を持ったヤンキーに暴言を吐く新人の若手に、笑顔で頭を下げて取りつくろう中年管理職がそこにいた。

 新人の若手はあいからわず生意気だ。


 息子は二人の様子を見て、あの最後の試合を思い出していた。

 新人の若手がヤンチャなレギュラーで、中年のパパが自分に置き換えられた。

 あの日、ヤンチャなレギュラーが自分の大切な新品の金属バットを勝手に使っていたのを怒れず、返してもらった時『いいよ、いいよ』とヘラヘラして頭を下げていた自分を……


(オレって……)


 その時、息子は一番やりたかった事を思い出した。

 心の奥に閉まっていた大切な夢を。

 母親に会ったら一番に見せてあげたい事があったのを。


「行かなくっちゃ……」


「はい?」


「ちょ、待てよ! なにいってんだ、お前」


 息子は走り出した、母親を追いかけて。

 母親と別れてからの自分の話を聞いて欲しい。

 そして一番輝いていた自分を見て欲しい。


「待ちなさい!」


「ちょ待てよ!」


 二人のお巡りさんの静止を振り切って母親の元へと走った。


 母親は思ったより近くにいた。

 お巡りさんに息子が厄介になっているので安心していたのだろう。

 鼻唄を歌いながら買い物カゴをグルグル回して歩いていた。


「おふくろ! 待ってくれ!」


 母親はギョッとして足が止まった。


「おふくろに見て欲しい事があるんだ。

 だから、待ってくれ……お願いだから……」


 息子は真剣に訴えた。

 母親にコッチを振り向いて欲しい……自分を見て欲しい……もう他意はなくなりその想いだけだった。


「おふくろ……」


 母親の後ろ姿は別れた当時のままに見えた。

 浮気をして家族を裏切った母親ではなく、一緒に暮らした明るい頃の姿に。

 

 突然、母親が走り出した。


「ちょ、待てよ!」


 驚いた息子は、驚いた事に新人の若手と同じ喋り方をして叫んでいた。

 この機を逃したくない。

 次、逢えないかも知れないし、この大切な(元)新品の金属バットを持って歩くのは今日だけだし、とにかく追いかけた。


「ちょ待てよ!」


 息子は必死でカッコつけて呼び止めた。


「ちょ待てよ!」


 新人の若手がカッコつけて呼び止めた。

 息子は焦った。


「ちょ待てよ!」


 中年のパパのお巡りさんも釣られて同じ喋り方で叫んだ。

 うしろからお巡りさんが追いかけて来る。

 どうする⁉︎


 母親とまた一馬身差まで追いついた。

 お巡りさんからは、まだ距離がある。

 息子は決意した。

 あの夏の魅せたかった一番輝いていた栄光の強打者の自分を……おふくろに。


「お、おふくろ! オレを見てくれ!」


 息子は立ち止まりバットを構えた。

 ヘルメットを触るフリ(エアヘルメット)をしながら地面を足でならした。

 そしてバットを一回転まわした。


 息子の瞳には、あの瞬間が映し出されていた。

 高校最後の夏、初戦の九回表ツーアウト満塁、彼は野球場のグラウンドのバッターボックスに立っていた。

 暑い日差しが眩しい。

 遠く空を見上げていた。

 癖であった。

 バットを構え直し、お尻をヒクヒク左右に振った。  

 腰も前後にパンパン突き上げ、準備を整えた。

 歓声がサラウンドのように耳に響いて来た。

 でも自分を応援する声は聞こえない。

 あの時、相手の応援の方が圧倒的に多かったから、かき消されたのだ。


 相手ピッチャーは控えであったが強豪校なので上手かった。

 でも初球はストレートのど真ん中が多い選手なので、初球打ちのサインが出ていた。


 汗が目にしみる。

 プレッシャーで手汗が酷い。

 緊張で手足が震える。

 でも太くて長くて硬い(元)新品の金属バットが彼に力と勇気を与えてくれた。

 息子は完全に当時の自分になっていた。


 暑さと男達の熱気で球場が蜃気楼のように揺らぐ中、ピッチャーがモーションに移った。


 投げた!

 真っ直ぐだ!

 サイン通りだ!

 しかもボールは一番得意なコースに来ている。

 息子は思いっきり(元)新品の金属バットを振った。

 バットがボールに当たった瞬間、がに股の足がキュンと内股になってオネエのようになるのは彼のもうひとつの癖である。

 

「かっっきぃぃんっ‼︎」


 決まった!

 彼の癖のあるバッティングスタイルは町中で異彩を放ち、まわりの通行人の足を止めさせ観客にした。

 母親はすでに走り去っていた。

 中年のパパのお巡りさんは呆気に取られた。

 新人の若手のお巡りさんは腰に手を当てた。


 今の息子にはまわりの観客はどうでもよかった。

 母親もどうでもよかった。

 ましてや、お巡りさんには目もくれない。

 あの一番輝いていた瞬間が、この(元)新品の金属バットが戻ってきた事で当時の自分を再現できる事が、他のなにより嬉しかった。


(手に馴染むぅ~!)


 今までも何度も再現を行ったが、しっくり来るバットはなかった。

 ちなみに、この偽ブランドの金属バットは量産品でディスカウントストアで大量に売っていた。

 

(やはりこれだ! このバットだ! これこそがオレの相棒だ!)


 男は最高の笑顔でその(元)新品の金属バットを振り切った。

 まさに、この男の最高の輝きの瞬間が、今……


 その時!


“パン! パン!”


 渇いた音が響いた。

 新人の若手のお巡りさんが銃を構えていた。

 銃口の先端からは煙と硝煙の臭いがした。

 本来、銃を使用してはならなかった。

 でも新人の若手のお巡りさんは訓練で撃った銃の快感に取り憑かれていた。


(いつか現場で使ってみたい)


 それが今だと思えた、だから。

 大変な事件であった。

 だが、この事件は揉み消される事となった。

 新人の若手のお巡りさんの親が権力者であったからであった。


「オヨ?」


 母親は音に気付いたが、そのまま走り抜けていった。

 当時の刑事ドラマの銃の音は迫力のあるカッコイイ音で、本物の銃がこんなに軽い音だとは知らなかったのだ。

 爆竹の音? 紙鉄砲の音? それとも息子のオナラ? としか思わなかった。

 だから母親は気にせず目的地へと走り去っていった。


「オヨー!(着いたー!)」


 ついに母親は目的地に着いた。

 目の前にスーパーマーケットがある。

 夕方になると生鮮食品が安く値引きになるのだ。

 しかし真の目的はお惣菜であった。

 お惣菜も同じ時間に安く値引きされるのだ。

 しかも今日は『牛肉増し増しコロッケ』が半額の日であった。


 今日はいろいろあったが走ったので充分、間に合った。

 手にした『牛肉増し増しコロッケ』は、じんわり暖かかった。


「オヨ、オヨ、オヨ(るん、るん、るん)。

 オヨオッオヨン、オヨオッオヨヨヨ(これは夕飯の分、これは明日の分)」


 ご機嫌である。

 母親に日常が戻ったのだ。


 このあと息子の死を知ったのは、アパートに帰って『牛肉増し増しコロッケ』をいただいている最中であった。


「オヨヨ~~ン‼︎」

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