いつつ

「オヨ!(ファイティン!)」


(あっ、カギが!)


 息子はカギの開いた音に驚いた。

 確かにカギが解除されたのだ。

 恐る恐るドアノブに手を伸ばした。

 ドアノブを握りしめ、ゆっくりと回す。


“ガチャ!”


(ドアが開いたー!)


 ドアをそっと開けた瞬間、ドアが思いっきりの力で開かれた。


“バーン‼︎”


「あ痛ー‼︎」


 ドアを少し開けて中を覗こうとした瞬間、内側から母親が思いっきりの力でドアを開けたのだ。

 ぶつかった弾みで思いっきり尻もちを突いた息子であった。

 そしてドアとドアノブの思いっきりの破壊力で顔面は見る見る赤くなっていった。


 衝撃と痛みで地べたにしゃがんだブサマな息子を母親は仁王様のように凝視した。

 眼孔鋭い形相で睨まれた息子は恐怖で体が震えた。


(おふくろはオレを憎んでる?)


 実際は自分が開けた思いっきりのドアに息子が当たって倒れたのに驚いて、びっくりした顔が硬直してそのような表情になっただけなのだ。

 逆に心配して息子をジッと見ていただけの顔だった。


 しばらく二人は硬直したままだったが、息子は母親の手に持っている物にさらに恐怖した。

 左手は買い物カゴを持っている普通のおばさんの格好だが、右手は鈍く光るずっしりと重く金属質のスポーツ以外にも凶器として使用される道具が握られている事に恐怖したのだ。


「きゃん! 

 お、おふくろ……」


 息子は腕を伸ばして防御姿勢のまま後ずさりした。

 その姿を見て母親は手に持っている鈍く光る英文字が読みづらくデザインされた金属質の棒の先っぽを息子の前に突き出した。


 息子の怯えが仔犬が震えているように見えて、相手が格下だと本能が認識したからだ。

 目の前の息子が冷たく軽くあしらわれた昔の男達の姿と重なり、一泡吹かせてやりたい気持ちがふつふつと湧き上がってきた。


 そう、今までの生意気な男達に反撃を果たす時がやって来たのだ。


(あれ? あれって、ひょっとして?)


 息子は驚愕しながらも確信した。

 母親が握っている格好いい英文字が書いてある金属棒が、自分が一番輝いていた青春時代の大切なアイテムであることに。


「その手に持っている物は、わぁー!」


 あれは甲子園を目指して練習には使わずに本番まで大事にとっておいた一流ブランド名の英文字が書かれた金属棒。

 本番の試合でベンチに立て掛けて置いたら、ヤンチャなレギュラーに勝手に使われて傷が付いてしまって廊下の隅で泣いた、一流ブランド名の一文字が間違ってるデザインの金属棒。

 そのヤンチャなレギュラーにブランド名が違うのは偽物でまがい物だって、みんなの前で馬鹿にされて本気で泣いた金属棒。


 あぁ、あれは我が青春の『あの新品の金属バット』ではないか。


「オメェの持ってんの、オレのあの(元)新品の金属バットじゃねぇか‼︎」


 なくなったあの日からずっと探していた、あの(元)新品の金属バットが母親の手の内に。


 これまでも幾度となく疑ったが、母親を疑うなんていくらなんでもと、首を横に振って自分をいさめていた思いを踏みにじられたことよりも、目の前でさも自分の物であるかのようにあの(元)新品の金属バットを扱っている母親に怒りの頂点がまた達したのだった。


「テメェが盗んだのか! オレの大事な、あの(元)新品の金属バットを‼︎

 ずうっと探してたんだぞ! やっぱりテメェが持ってたんか! 

 返せよ! オレのその(元)新品の金属バットをよおっ‼︎」


「オヨ~~ッ!(あれ~~っ!)」


 母親は息子の怒声に臆して縮こまってしまった。

 立場があっという間に逆転した息子にマウントを取られてしまったのだ。


 だが自分には大事なミッションがある……そう思い起こし踵を返して走り出した、いや逃げ出した。


「えっ⁉︎」


 息子はまた呆気に取られたが、我に返って立ち上がり追いかけた。


「オラァ、待ちやがれー!」


 なかなか追いつかない。

 出遅れた息子であるが、昔は運動(野球)をやっていてそれなりに鍛えていたはずだ。

 だが追いつかない。


「はぁっ、はぁっ、くそー! なんて速いんだ! はぁっ!」


 早くも息子の息は上がり始めた。

 母親の足の速さに驚愕したが、実際は日頃の不摂生で自分の足がもたついたせいであった。

 距離がなかなか縮まないまま母親は交差点の角を曲がった。


「オヨーツ‼︎」


 ここで母親は足を滑らせた。

 交差点を速度を落とさずに無理して曲がったからだ。

 履いているのがサンダルなので仕方がない。

 息子にチャーンス! この機に全力を出した。

 でも不摂生なので大して変わらなかった。


「オヨッ!(あうっ!) オヨッ!(痛っ!)」


 母親がスピードダウンした。

 先程のターンでのつまずきで股関節を痛めたのだ。

 いけない! このままでは追いつかれてしまう。

 二人の距離が一馬身差まで縮まってしまった。


 息子が手を伸ばして捕まえようとした瞬間、母親がくるりと彼の方を向いて立ち止まった。

 息子も驚いて立ち止まった。

 ついに観念したのかと思った息子は、優しく扱おうとニッコリスマイルしながら手を広げた。


「はぁっ、はぁっ! おふくろ……げほっ、げほっ! もういい加減、返してくれないか? なにもしないから、げほっ、げぼぉお‼︎」


 もちろん借金返済の事ではなく(元)新品の金属バットの事だ。

 もう借金の事は忘れて目の前の(元)新品の金属バットの事しか眼中にない息子であった。

 

 しかし母親には返せる当てのない借金返済を請求する悪徳業者に見えて、借金を踏み倒すため威嚇を始めた。

 なんと自分の息子に対してバットをブンブン振り回したのだ。


「ひえ~!」


 母親の必死の形相に殺意を感じとった息子は鳥肌ものだ。

 そんな母親に恐怖しながらも、とりあえず落ち着かせようとなだめる事にした。


「ま、まあ、落ち着けよ」


 息子はその(元)新品の金属バットに殴られることより、その凶器に傷がつくのがイヤで気が気で仕方なかったからだ。

 母親にとっては、ただの古いバットで昔の家から目についたから黙って持ってきた、ただの汚い棒でしかない。


「あっ、そうそう! (元)新品の金属バット、誰が買って来てくれたのか、分からないんだなぁ~これが!

 おやじは分からないって言うし、妹は知らねぇって言うし……

 この(元)新品の金属バット……ほのかに女の匂いがするんだよなぁ」


 これは優しさである。

 真実は父親が購入した物であった。

 そしてバットに母親の使っていた香水を振りかけたのだ。

 まるで母親がプレゼントしたかのような言い回しまでして息子に渡した。

 一人親の寂しさから元気づけるためだった。

 息子は父親の難解な言い回しに気付かなかったが、バットにつけられた懐かしい匂いが母親を感じさせた。


 そして配慮があった。

 息子は母親の香水の匂いを女の匂いと言ったのは、母親に『実は自分がプレゼントしたんだよ』と言わせるため、ワザと遠回しに言って気付かせることで話やすくなると思ったからであった。


 しかしすべてが失敗であった。

 それはバットを買ったのは母親ではなかったからだ。

 父親の優しさで勘違いして、息子の配慮で台無しにしてしまった。

 父親のせいで母親が購入したと思い込んだ息子が、母親に感謝の意を表すために分かりにくい言い回しをして勘違いを起こしたのだ。


 なぜなら母親は鬼の如く、怒髪天を衝く表情になって現れていたからだ。

 母親には、そのバットは元夫の女からのプレゼントだと聞こえたからだ。

 元夫とはいえ嫉妬から息子に対して殺す気でバットを振り上げる母親の姿は鬼その者であった。


「ひょえ~~!」


 息子は恐怖で腰を抜かして、またしゃがんでしまった。


「あわわわーー!」


 まさに放尿寸前である。


 他人にすぐ頼る癖がある息子は、助けてくれそうな通行人を捜そうと目を泳がせた。

 しかし物凄い勢いでバットを振り回す母親の姿は、息子だけでなく通行人をも恐怖させ遠くへ追いやってしまった。


 通行人達は距離を置いて成り行きを見守っている。

 今ならスマホで写真を撮るが、ポケベルと呼ばれる通信機が出始めた頃でカメラ機能という概念もなかった。

 通行人が出来ることは、恐怖したり内心楽しんでいるくらいの野次馬根性を見せるだけだ。


(くそっ! みんなオレの事、他人の不幸は蜜の味と言わんばかりの笑みで見ていやがる。

 オレだって他人事だったら大爆笑なのにな!)


 野次馬(世間体)が気になった息子は股間に力を入れて放尿を我慢した。

 とにかく目の前の対処方法だ。

 手がつけられない母親の目は焦点が合わず、正しい判断が出来ない危険な状態であるのは誰が見ても明らかだ。


 母親には目の前に哀れにしゃがんでいる息子が、昔実家で飼っていた犬に見え始めた。

 それで懐かしくなり、手に持ったバットをボールやフリスビーのように息子のいるさらに向こうへ放り投げ、捨ててしまった。


“カランコロン、カランコロン!”


「ああー‼︎」


 バットは息子を通り越しはしたが、すぐに地面に落ちた。


「なにしやがるんだ!」


 息子は一目散に追いかけた。

 でも円柱の構造なのでゴロゴロ転がっていく。

 しかもバットは先端とグリップエンドの径が違うため、あらぬ方向へと転がり続けて行くのであった。


「バッぁっト! バッぁっト! オレの(元)新品の金属バッぁっトがぁ‼︎」


 転がり続けたバットは、なんと車の通る道路の中央まで転がって行った。

 それでも息子は脇目も振らずバットを追いかけた。


 道路一帯はパニックだ。

 車のブレーキの音、クラクションの音、ドライバーの罵声、通行人の悲鳴とヤジ、だが息子には聞こえず眼中にもなかった。

 彼には(元)新品の金属バットしか目に入らなかったのだ。


 ここで大事なことは、バットを不用意に投げたり、車道に勝手に入ってはいけない。

 みなさんはくれぐれもマネをしないで下さい。


「くそー!」


 目の前には高校時代を共に過ごしたのに行方不明になった、オレの相棒。

 なんとしても取り戻したかったオレの相棒が、すぐそこにあるのだ。

 車が行き交う中、息子は手を伸ばしてそのままスライディングした。


“ザザザザー、ピタッ!”


 短いスライディングの伸ばした手の先に、あの懐かしい金属の感触がある!


「取ったぁ‼︎」


 ついに息子は(元)新品の金属バットを取り戻した。

 息子は相棒を強く抱きしめ頬ずりをした……しゃぶりつくさんばかりの喜びようだ。

 息子は相棒のグリップを握りしめシゴキ始めた……相棒の感触を味わいたかったからだ。

 息子は相棒に鼻をくっつけて臭いを嗅いだ……


(ああ~、あの時の臭いだ)


 あれから時間が経っていたので臭いなど残っていないが、思い出が脳を刺激して当時の青春の香りを醸し出ていると感じさせた。

 相棒からは野球部員の汗の臭いと、練習で先輩にシゴかれた男臭さを感じるのだ。


「はぁはぁ、オレの、オレのぉぉ〜!」


 それを見ていた母親にも懐かしい記憶が甦った。

 昔、犬と木の棒を投げて遊んだことを……棒を追いかけて走り回る姿や、口で咥えて勝ち誇った表情でハァハァしてる姿が、今の息子と重なり心がほっこりした。


 だが、こんな所でほっこりしてはいられない。

 母親は振り返って走り出した、ミッション遂行のために。

 でも手元には武器がない、だが彼女には『プランB』があった。

 コースを変えて違う道を走り出した。


「オヨー!(作戦変更!)」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る