ほどよく、青

進藤翼

ほどよく、青

 借りてきたDVDを見ていた。電気を消した彼の部屋で。二人掛け用のソファに並んで。私が右側で、彼が左側。それがいつの間にかできた私たちの定位置だった。

 彼の部屋に来るといつも、青いと感じる。玄関で靴を脱いで、短い廊下を渡って、すりガラスのはめられたドアを押してリビングに一歩踏み込むと、青のイメージが広がる。それは彼のここにいる時間の長さを表している。ソファやベッドやテーブル、そして積まれた本に、浸透していっているのだ。

 五十年代に公開された映画だ。ロマンチックコメディといった作風で、セリフ回しがお洒落で気が利いている。古い映画だからと敬遠していたのだけど、代表作を見て以来すっかり主演である女優のかわいらしさにやられてしまって、ほかの作品も見始めた。この作品の彼女も魅力にあふれている。

 彼の青には黒が混じっている。夜明けの直前の薄ぼんやりとしたあの色に近い。群青よりも濃く、深い青。

 寂しい色だなと、思う。それでもずいぶんと明るくなったほうだ。

 暗い部屋だといつも以上に青の気配が濃くなる。彼と青との境目が曖昧になる。私の隣に、本当にいるのかわからなくなる。

 やがて音楽とともにエンドロールが流れ始めた。ハッピーエンド。物語はこうでなくちゃいけない。面白かった。

 突然彼が言った。

「僕はさ、君のことがすきだよ。とてもいい子だと思う。本心だ。でもさ、君は僕のことずっと、すきじゃなかったでしょ、たぶん」

 私は彼を見た。テレビが彼の顔をぼんやりと浮かび上がらせている。キレイな横顔だった。短い髪の毛、男性にしては長いまつげに、高くすっと伸びた鼻、薄い唇、少しだけ生えているひげ。ぽつりとひとつ顎の近くが腫れているのは、カミソリ負けのせいだ。肌が弱いのが彼の悩みだった。

「どうして?」

 画面では細かく並んだいくつものアルファベットが下から上に流れていた。彼の黒い瞳にも映っていた。

 人には纏っている雰囲気がある。彼からはいつも、どこか世界と距離を置いているようなそんな印象を受けていた。誰もいない公園のベンチのわざわざ端っこに座るとか、眠るときは足をたたんでまるまって眠るとか。

「わかるよ。最初は気づかなかったけど、三年もいれば。感覚で。なんとなく」

 首元のくたびれたティーシャツから伸びる彼の首。血管が浮いている。突き出ている部分は喉仏だ。骨ばった身体つきだった。それに袖から伸びる腕は同年代の男性と比べてはるかに細い。

 抱きしめるたびに、彼のその身体の薄さにハッとさせられる。擦り減っていっていつか消えてしまうのではと思ってしまう。だから私は彼に触れられることに泣きそうになることがある。存在しているということに安心するのだ。

「そう思う?」

「うん」

「そっか」

「うん」

 普段通りの一日だった。


 少し帰りが遅くなるというメッセージを送ると彼から、ピーマンを買ってきてほしいと返信があった。言われた通りにしてお家に行くと、彼はちょうど焼きそばをつくっている最中で、フライパンからはみ出しそうなほど大量の麺を豪快に炒めていた。

「どうして今つくってるの。私の帰るタイミングがわかったの?」

「わかるよ。なんとなく。それよりほら、ピーマンちょうだい」

 ソースのにおいが食欲を刺激し、途端にお腹がすいてきた。私が食卓にお皿やお箸を用意すると、彼は大皿に盛った焼きそばをでんと置いた。それからキノコのはいったスープに、レタスとスプラウトとトマトのサラダが運ばれてくる。

「夕方に夏祭りの開催までを追ったドキュメンタリーがあって。おっちゃんのつくる焼きそばが映って、それがやけにうまそうでさ。食べたくなった」

 彼はそういう番組ばかり見ている。外国の町を歩くとか、山を登るとか、和菓子づくりの修行に励む青年の話とか、そういうの。自然や生活を描いているのがすきなのだそうだ。

「ありがとう。食べていい?」

「もちろん」

 私たちは大学で出会い、交際に発展した。卒業すると私は就職して彼は院に進学した。比較的時間に余裕がある彼が、こうしてご飯をつくってくれることが多かった。

 私が洗い物を終えるころ、彼はコーヒーを用意していた。彼のカップはそのまま、私のカップには小さなミルクピッチャーとティースプーンが添えてある。そうしてソファに並んだところで明日返す予定の映画を再生した。ぱち、と電気を消す。

 そう、私にとってはいつもの一日だった。でも彼にとってはなにかのタイミングだったのかもしれない。衝撃的な物事というのはこちらが思ってもみないときにやってくるから、衝撃的なのだ。

「だからさ」

 彼は言葉を切った。

 次に来る言葉を想像できないほど鈍感ではなかった。今私と彼とで繋がれた糸がある。それを彼は断ち切ろうとしているのだ。いや、本当は彼はずっと切ろうとしていたのかもしれない。手に持っていたナイフを隠していただけでその機会を窺っていたのかもしれない。それをなんとか阻止したいという気持ちはあったけれどそれ以上に、そのまま切らせてあげようという気持ちもあった。だってこれはすでに彼の中で完結している。私がなにか言ったところで事態は変わらない。わかりきっていることだった。止めることはできない。私に突き付けられた選択肢はひとつしかなかった。

「だからさ、出て行ってほしいんだ」

 彼はナイフを振り下ろした。

 なんとなく、本当になんとなくだけど、予感みたいなものがあった。彼が纏う空気は、私と付き合い始めたところで消え去りはしなかったから。だから私は交際が始まった時点でいずれ終わるときが来るのだろうなと、どこかで感じていた。彼の本質的なところに私は一生触れることはできないと理解したうえで、それでも私は彼の近くにいたかった。

「そっか」

 私はゆっくり、ゆっくり息を吐き出した。体内に残っている空気という空気を全て吐き出した。これ以上できないというところで、今度は息を吸う。これは覚悟の呼吸だ。ソファから立ち上がるための覚悟の呼吸。彼のにおいがする。彼の部屋のにおいがする。青に包まれたにおいがする。最後にふうと、軽く息をついてみる。

 隣にいたはずの彼の気配が遠のいていく。瞬間、青が彼を飲み込んだ。もう私に彼を見ることはできない。コーヒーカップに残った、すっかりぬるくなった中身を一気に飲み干す。いつもならそのまま台所で洗うところだけど、最後の小さな反抗、テーブルに置いたままにする。彼のほうを見ないで言った。

「私はね、あなたのことすきだよ。ちゃんと。じゃあね。おやすみ」

 立ち上がったその勢いでカバンを手に取って、私は彼の部屋を出た。ドアの閉じる音が聞こえた。


 あと十分ほどで日付が変わる。電車に乗り込む。座席は空いていたけど座る気にはなれなかったから乗降口のすぐそばにある手すりを掴んだ。走り出した電車に揺られながら反芻する。

 すきじゃなかったでしょ、たぶん。

 たぶん? たぶんって、なんだ。たぶんって。別れ話をするときに、そんな自信なさげに聞こえる言葉を使うな。

 どれだけ振り返ってみても、私は彼のことがすきだった。本当に。私にとって彼は特別だった。それは胸を張って言える。

 こんなにも急に、それでいてあっさりと関係が終わるなんて思ってもみなかった。まるで実感がない、のは、まだショックが心にたどり着いていないから? 家に帰ったら泣きたくなるのだろうか。そうじゃなくても、もっと動揺したりうろたえたりするものなのではないか。

 失恋したのか、私は。

 平日のこの時間だというのに乗客は多かった。みな一様にどこを見るでもなくうつむき気味だった。立っているのは私だけだった。くぐもったアナウンスが聞こえる。最寄り駅まであと三つだ。停車して何人かの人が降りて、何人かの人が乗ってくる。電車は再び走り出す。なにも変わらないいつもと同じ日だ。……いつもと同じ日? 違う、同じように見えていたけどそうじゃなかったということを今しがた体験してきたばかりじゃないか。私だけがズレているんだ。この感覚は破けた写真をなんとか繋ぎ合わせたときと似ている。上手くできたように見えて実は上下や左右が微妙にズレている。今の私はまさにそんな状態だった。誰にも気づかれていないけれど。いつもと同じ日だと、思っていたんだけど。

 窓ガラスに自分の顔が映っていた。見慣れているはずなのにどこか他人のような気がして、私は動物園で檻の向こうにいる見たこともない鳥を観察するみたいに自分のことをしばらく眺めていた。

 マナーの悪い客が置いていったのか、どこからか空の缶コーヒーが転がってきた。行くあてを探しているみたいに転がって転がって、座席の下で止まる。

 そういえば、彼はよくコーヒーを飲んだ。行きつけの喫茶店のマスターと仲良くなって豆を分けてもらっていて、それが特にお気に入りだった。これこれこういうのがいいんだよと説明してくれたけど、申し訳ないことに私はその詳細を覚えていない。

 彼はコーヒーを用意するとき、私に飲むかどうか確認してくる。私はそんなにコーヒーが得意ではなかった。でも彼にそう聞かれるとつい飲むと答えてしまう。彼の嬉しがる顔を見たくて。

「いっしょに、ミルクもつけて」

 飲みやすくするために毎回そう付け加えていたからか、いつからか彼は私専用のミルクピッチャーを添えるようになっていた。ティースプーンで混ぜているとカップの中を見て

「その色味はとてもすきだな」と言っていた。

 彼はきっとずっと大きな秘密を抱えている。それが彼の纏っている空気や雰囲気の正体だ。内側に隠しているそれが外側にまで漏れ出しているのだ。

 小さい頃になにかあったらしいというのは察していた。彼は極端に自分の幼い頃の話をしようとしなかったから。

 私はそのことについて知る必要はないと思っていた。話したくないことは、話さなくていいと。誰にでもいくつか話したくないものはあるものだ。だから質問したこともなかった。彼がいつか話したくなったら、そのときに聞けばいいと思っていた。でももしかしたら、断られるのをわかったうえで、どこかのタイミングで聞いてみるべきだったのかもしれない。


 大学で初めて彼を見た日のことを覚えている。春のことだ。大教室の一番前、その右端の席に座っていた。講義が始まるまでの時間、彼は黙々と本を読み、ときおり大きなガラス張りの窓のほうに顔を向けていた。その向こうで桜の花びらが舞っていた。

 私は後ろ側の左の席に、友達何人かと座って話をしていた。どうしてだか彼のことが気になってチラチラ見ていた。ざわついている教室の中で彼のいるところがひっそりとしていたからかもしれない。そこだけがスポットライトを外されてしまったかのようだった。やけに影が濃く見えた。私の見ていることに気づいたのか友達も彼のほうに目をやった。

「あの人いつも、一人でいるよね」

「私ほかの講義もかぶってるんだけど、誰かと話してるの見たことない」

 友達たちは興味なさそうに言った。それより髪の毛の巻き方がうまくいったということで盛り上がっている。

 彼はいつも同じ席に座っていた。だから私は友達から離れて(彼女たちからなにか言われたような気もするけど覚えてない)、講義があるごとに少しずつ彼に近づくように席に着いた。近づくほどに周りの雑音が小さくなり、彼の異質さを感じるようになる。彼の周囲には、なんて言えばいいのか真っ黒い闇が渦巻いていた。その正体がわからなくて怖かった。でもやめようとは思わなかった。それ以上に彼に触れてみたいという欲求があった。もしかしたら、その闇に惹かれていたのだろうか。

 声をかけたのは四回目の講義、いよいよ彼の後ろの席に座ったときだった。その距離までになると彼の読んでいる本の文字が見えるくらいだった。私は、努めて普通を装って肩をたたいた。手が触れたとき、触れられたことにホッとした。ほんのわずかだけど、そのまますり抜けてしまったらどうしようと思っていた。

「ねえ、それ、私も読んだよ」

 彼は身体をビクッと跳ねさせて、ひどく驚いたように振り返った。どうして自分に話しかけたのかわからないといった様子だった。黒々とした大きな瞳が私を捉えている。今まで後ろ斜めからしか見たことのなかった彼と視線が重なる。そんな顔をしていたのねと一人で納得する。

「静かに読んでるところごめんね。知っているから話したくなっちゃって」

「びっくりしたな、なに?」

 数秒私を見て落ち着きを取り戻した彼はそう尋ねてきた。思っていたよりも低く、心地よい声だった。

「その本。先週発売されたやつでしょ。短編集の」

 私が指を指すと、戸惑いながら彼は今読んでいた文庫本を見て、また私を見た。

「ああ、うん。そう、そうだよ。生協に売ってたから」

「どこまで読んだ? 私はね、五つ目の話がすきだったな。船乗りの話」

「待って、まだそこまで読んでないんだ」

「じゃあ読んで」

「でも講義が始まるから」

 スーツを着た男が教室にやってきた。前に立ち、「講師の方が急病のため休講になります」とアナウンスをする。それだけ伝えると大学職員と思われるその男は去り、続いて学生たちも喜びながらすぐさま教室を出ていく。残ったのは私と彼だった。あっという間に静けさがやってくる。雲に隠れていた太陽が再び顔を出したらしい、窓から光が差し込んできて私たちを照らす。春の日差しはやわらかく、彼の雰囲気も少しだけ緩んだように見えた。

「これで読めるね」

「そうだけど、待つの? 急かされるのは苦手なんだ」

「急かさないよ。ゆっくり読んで」

 私は安心していた。だって彼はこんなにも普通だった。普通過ぎるくらいだ。読み終わるまで、私は彼のページをめくる手を眺めていた。その手つきで本を丁寧に扱う人だとわかった。

 次の週に、講義のあと互いにすきな本を持ってきて貸し合う約束をした。私が取り出した本を渡そうとすると、彼はその表紙を見るなり「あ」と声をあげた。

「読んだことあった、これ?」

「いいや、そうじゃなくて」

 彼がかばんから取り出した本は、私のものと同じタイトルだった。彼はおかしそうに笑った。なんだ、笑えるんじゃん。

「あるんだな、こういうこと」

 彼の笑った顔は私を魅了した。豪快に大きく口を開けて笑うって感じじゃない。微笑むという表現がぴったりだった。普段しゃべるときはあまり表情を動かさないのに笑うとかわいらしい。私もつられてしまうほどに。

「でも、いい機会だから借りようか」

 彼は持っていた本をどうぞと渡してきた。自然に渡されたから私はついそれを受け取ってしまう。両手にそれぞれ同じタイトルの本を持つなんて経験をしたのは初めてだった。ただひとつ違うのは彼のは単行本で、私のは文庫本ということ。私が戸惑っているのを見て彼は説明してくれた。

「その様子だと知らないみたいだ」

「どういうこと?」

「単行本と文庫本じゃ、後半の展開が違うんだよ」

「え、そうなの」

「そう。作者がどうしても納得できなくて書き直したんだ。だから、読み直すのにいい機会かなってね」

 彼は私の持っていた文庫本を受け取った。触れてないのにどきりとした。最初のほうのページを開くと、ほら、と私に見せてくる。

「三章以降のタイトルが違うでしょ」

 そこは目次が載っているページだった。私は単行本を広げてみる。

「あ、ホントだ」

「のちに作者は納得できなくて書き直したというのを撤回して、この作品は複数の結末がある作品だと考えてほしいと言ったんだ。マルチエンディングだね」

 ありがたく読むことにするよと、彼は文庫本をかばんにしまう。私は自分のものが彼の手元にあることに嬉しくなった。そして彼のものが私のところにあるということにも。

 そのときに気づいた。黒々としていた彼の闇の中に、わずか、数滴だけ垂らしたような青が混ざっていることに。深海のような色だ。苦しそうなだけどキレイな色。私は彼のことを瞬間的に理解したような気がした。

 水気のあるやわらかな春の風が窓から流れ込んでくる。

「風に色があるとしたら、ねえ、君のような色をしているんだろうね。気持ちのいい風だな」

 本当に気持ちよさそうな顔をして、彼は風を浴びていた。まつ毛が長いことに気づいたのはこのときだった。

「人と話すのが苦手で、すきな本のことを勉強するためだけに大学に来たけれど、それ以外にも通う理由ができたよ」

 彼はいつも本を持ち歩いていた。かばんの中から取り出される本は毎回違うもので、私はそれがどんな本であるか説明を受けるのがすきだった。彼のお家に初めてお邪魔したとき、その本の数に驚かされた。壁一面が本棚で、上から下まで隙間なく埋め尽くされていた。それだけでは足りず、溢れた本が床に積まれていた。私たちは互いにすきな本を読んだ。心地いい時間が過ぎていった。


 いつのときも彼は静かだった。とにかく音を立てない。食事をするときも歩くときも。ドアの開け閉めさえノブをゆっくり戻して「かちゃり」と鳴るのを極力抑えようとする。自分の家であってもだ。食器を洗うときもお風呂に入るときも、できる限り蛇口やシャワーの水量を絞っている。それは一見ひどく丁寧なように思えるけれどそうじゃない。病的だった。彼のその行動は意識的なものではなく無意識的におこなわれているものであるということは見ていて明らかだった。無音で生活することが、彼にとっては習慣になっている。まるで自分の存在を隠しているみたいだった。

「自分の家なのに、どうしてそんなに静かに過ごすの」

 思い切って尋ねると彼はなんでもないように言った。

「自分の家、だからだよ」

 それ以来私はそのことについて質問するのをやめた。

 彼は大きな声や音が苦手で、そういうものに出くわすとうつむきがちになり、できるだけ早くその場を離れようとする。どんなに急ぎ足でも、やっぱり足音は聞こえない。

「耳に悪いから、いやなんだ」

 彼は私にそう説明した。私は、そうだね、とだけ答えた。

 春に出会ってから季節が動いた眩しい夏の頃、彼とある画家の展覧会を見に美術館に行ったことがある。湿度が低くからりと気持ちの良い暑さの日だった。美術館の周りは手入れされた芝生が広がり、横になったら気持ちよさそうだった。水を撒いている職員がいて、その水の煌めきがきれいだった。

 いっしょに絵を眺めていたつもりが、彼はいつの間にか隣から姿を消していた。そうなると彼を見つけるのは至難のわざだった。なにしろ彼の気配というものは殊更に薄い。賑わう人波の中で彼を探すのは骨の折れることだった。私は彼を探そうとして、でもやめた。集合時間は決めてあったし、この館内にいるのは間違いない。それよりも各々のすきなように絵を眺めたほうが気楽でいいだろうと思ったからだ。

 彼はどうだろう。私とはぐれたことに気づいているだろうか。気づいているとして、彼は私を見つけようとするだろうか。たぶん、ノーだと思う。彼はおそらく、執着しない性格だ。冷たいわけじゃなくて、そもそも離れていくものを追うという発想がないように思う。離れていったものは、そのまま離れるのを受け入れることしか知らないのだ。

 出口で待っている私に気づかず通り過ぎようとする彼に声をかけたとき驚いた表情をしたのには、そんな理由もあったのではないだろうか。

「置いていかれたと、思ったんだ」

「しないよ、私はそんなこと」

 だからどうか安心して。心の中で付け加えた。

 そのとき記念に買ったポストカードは、彼の家に飾ってある。池が描かれた絵だ。

 生活を一年、二年と共にしていると、彼にも変化が訪れた。習慣的にある無音もいくぶんか改善され、それでも静かではあるものの以前よりはマシになっていた。笑うことも増えたし、表情もやわらかくなって、口数も多くなった。それは喜ばしい変化だった。深海のようなわずかな青から、今はより明るさの増した冬の夜空のような青になっていた。彼はきっと気づいていない。気づかなくていい。彼の青がこのまま、増えていくといい。

 どんなときも彼の青は美しい。彼自身と重なるようにして静かに佇むその色を眺めるだけじゃ満足できず、私は思わず触れたくなる。低い彼の体温。指先に伝わるほのかな熱が心臓の鼓動を早くさせた。反面、寂しさも感じさせる。美しいものは寂しいものなのだと私は知った。


 電車がまた駅に着いた。大きな駅で、ここでいつも多くの人が降りる。乗ってくる人は少ない。最寄りまであと二つとなっていた。

 日付が変わった。九月が終わって十月になる。昼間はまだまだ暑いけれど、夜になるとずいぶん過ごしやすくなってきた。

 彼の部屋に溢れていた青、あれは彼の背景のようなものだ。彼が抱えていた闇を、コーヒーに注ぐミルクのように割って、割って、薄めていったもの。

「僕はさ、君のことがすきだよ。とてもいい子だと思う。本心だ。でもさ、君は僕のことずっと、すきじゃなかったでしょ、たぶん」

 頭で何度も響く言葉。張りついて離れなさそうな予感がした。きれいなことばかり思い出していたいのに、人間はうまくできていない。後にこの言葉がどんどん重くなっていくだろうことは見当がついていた。今のうちだけだ、こんなに冷静なのは。

 速度を上げていった電車が駅を抜けると、駅や町の光が遠のいていく。代わりにやってきたひっそりとした夜に包まれて住宅街を走る。窓から見えるのは、家々に灯された生活の明かりだ。このあたりの閑静さが気に入っていた。私の職場までは少しかかるけれど、その周辺の目にうるさい派手な看板や人々に囲まれながら近所で過ごすより、こっちに住んでいるほうがよほどよかった。

 初めて彼と話したとき彼の普通さに安心したけれど、それはあくまで彼のひとつの側面に過ぎなかった。接するうちに気づいたのは、彼はそもそも人を信用する性格じゃないということ。心の扉を開いているように見えて、その奥からこちらの様子をじっと見ている。適切な距離を取り、それを保ったうえで関係を築く。それは彼が自分を守るための防御策。

 その距離の、私は内側に飛び込んだ。最初は驚いたかもしれないけど、彼は私を受け入れようとしてくれた。だからこそ彼は変わっていった。

 彼は本当に私をすきになってくれていたと思う。だって、そういうのって伝わってくるものだ。日々の生活、言葉遣いや態度からは、確かに愛情を感じていた。それを受け取るたびに私は心があったかくなった。彼の色がだんだんと青くなったのは、彼自身が変わっていったからだ。

 だからこそ、彼が糸を切った理由がわからなかった。

 アナウンスが最寄り駅に着くことを告げて、いつの間に一駅通り過ぎていたことに気づいた。ドアが開くとけっこうな人数が降りた。私はその人波の後ろのほうを歩いた。空気のにおいが、秋のそれになっていた。私の気分がどうであろうと関係なく、季節は等しくやってくる。東口の改札を抜ける。お家はここから十分ほどだった。

 もうなにもかも過ぎたことだ。いくら考えたところで無駄なことだ。だいたい、どうして別れた男のことを考えなければいけないのか。

 目の前のコンビニでなにか買おうかと思って足を止めた。

 月だ。はるか頭上に細い月が、そこだけ切り取ったように浮かんでいた。それはどこか、さっき見た彼の横顔に似ていた。

 月には手が届かない。どれだけ手を伸ばしても。いったいどれほどの距離があるというのだろう。

 さっき見た映画が頭をよぎった。素敵なセリフだった。

「月が私に手を伸ばしているの」

 はるか前から月は大きすぎる空に一人でいる。月は、彼のようだ。

 月が私に手を伸ばしているのなら、私はその手をつかみたいと思う。

 以前の彼はほとんど執着しない性格だった。でも今、変わった今の彼に執着する気持ちが芽生えたとして、その対象は私なのだとしたら。

 そうだとしたら、彼は私と離れることを恐れているんだ。いっしょにいたいくせに、なにかのきっかけで私に切られるのが怖くて、先手を打ったんだ。

 なんてこんがらがった気持ちなんだろう。糸を切ったはずなのに、彼はその糸に絡まっているんだ。

 コンビニに向けていた足を、再び駅のほうに向ける。西口側の出口へ歩いた。だんだん早足になりながら。商店街の反対側に当たるこちらの人気は少なく、あたりは暗い。だけどホームの明かりと街灯が夜を照らしていた。だから私は怖くなかった。

 西口にはタクシー乗り場がある。しかし運が悪いことに私が到着するのと同時に、客を乗せたタクシーが出発した。

 彼の中で完結していても、私が再開させてやろうと思った。距離なんて些細なことだ。彼をこのままにしておくわけにはいかなかった。どうしようもない彼を、私は放っておかない。

 伸ばしてきた手を、つかまなければ。

 待っているとやがて一台のタクシーがやってきた。私は飛び乗ってすぐさま行き先を運転手に告げた。


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