第5章 目覚めた者

第37話 魔法

「あああああああ!」


 白と黒の鍵盤に向かい合って、ハルは絶叫していた。


(だ! だめだ……!)


 頭を抱える。


(左手が……おかしい)


「ああああ……」


 どうにもおかしい左手を右手で掴んで、目の前に持ってきて見つめる。


(なんだ、これ……)


 おかしい、と言って、痛いわけでも痒いわけでも動かないわけでもなく。どうにも説明のできない違和感に、ここ数日悩まされていた。アスカの村から帰ってからだ。


 ――サヤに触れられてから……。


 ハルの左手は、サヤの妙な魔法にかかってしまったように。動かないというか動くというか動きすぎるというか、ふわふわと温かいかと思うとじんわりと疼くような、何かに触れたくてもどかしくて。

 あの冷たい、柔らかい指に――


(ああああ! だめだ、だめだ、だめだ!)


 ふるふると頭を振る。腕を伸ばし左手をできるだけ体から離して、手に付いた水滴を払い落とすように――手に残った感触を振り払うように、手首から先をぶんぶん振る。そのまま握ったり開いたりを繰り返して。

 そうして心を落ち着けると、両手を鍵盤に載せひとつ深呼吸をする。


(よし)


 頷いた。

 視線の先にあるのは、譜面台に広げた楽譜。トキタからもらってきた、ドビュッシー名曲選。その、「アラベスク第一番」。


 指が、鍵盤を滑り出す。流れるようなアルペジオ。蔦のように、絡み合う旋律。

 ――ほら、行けるじゃないか。


(よかった。弾けてる)


 楽しくなってくる。アスカの村で見た、あの小川のせせらぎを思い浮かべて。

 月の光を受けて、昼の日差しを映して、キラキラと輝く水面。岩の隙間から染み出す、冷たく清らかなせせらぎ。


(キレイだったなあ)


 細かい綾を織ったようなあの清流の水面と――茶色い瞳の少女――。


「あーーーー!」


 鍵盤に両手を叩きつけて、そのまままた頭を抱える。

 唇を噛んで、目の前の大きな楽器を見つめ――目が合った。――気がした。


(ごめん。おれにはおまえだけだ。だから、もう許してくれ……)


 大きなため息をついたところで、パタパタと足音がしてルウが駆け込んできた。


「ハルっ」

 声を掛けてピアノに近づいてきて、頭を抱えているハルに気づくと訝し気な視線を送る。


「は? どうしたの、ハル。頭でも痛いの?」

「……なんでもないんだ」


 ゆるゆると頭を振りながら、ハルは手を下ろした。


「なんかバーンっていう音が聞こえたけど。新しい曲?」

「違う。なんていうか、これは……ちょっとした事故だよ」

「ふうん。ピアノ聞きにきたんだ。それから夜にミラたち一家が聞きにきたいって言ってたよ」

「そう……弾けるといいんだけど……」

「はあ?」


 ため息をついたハルに、ルウが変な顔をする。

 と、ハルはひらめいた。


「そうだ、ルウ。握手しよう」

「握手ってなに?」

「手をつなぐんだ。……つまり、友好の挨拶だよ」

「へええ」


 左手を差し出しながら、

「ほんとは右手でするんだけど、ワケあって左で頼む」


 そう言うと、ルウは両手でそれを掴んでぎゅっと握り返してきた。

 思いがけず痛かったが、その無粋な刺激にサヤの感触を一瞬忘れる。


(いいぞ。魔法を封じ込めた)


「よし。それで、何を弾く?」

「あのパララララランってやつ」

「うん、『幻想即興曲』だな。いいよ」


 弾きながら、

「ルウは早いテンポの曲が好きだな。音がいっぱい入ってるヤツ」


 そう言うと、コンクリの床に寝転がって頬杖で音楽に聞き入っていた少女は、「うん」と目を上げた。


「なんか、すごく豪華な気分になれるよ」


 うっとりとした口調で言うルウにちょっと笑って、彼女の好きそうな曲を考える。先日もらってきたドビュッシーでは、好きだろうと思ったゴリウォーグよりもアラベスクのほうが好みのようだった。代わりにグンジがゴリウォーグを気に入ったのにはちょと驚いた。

 「ラ・カンパネラ」なんかどうだろう? でもあれを弾くならもうちょっと弾き込まないとだめだ。二週間もピアノから離れているようじゃ、とてもとても。それに、できたら楽譜が欲しいなあ。


 ルウだけじゃなく、ハルも音符のいっぱい入っている曲が好きだ。

 急に難しい曲に挑戦させられるようになった時は戸惑ったし、たくさんの音符で真っ黒な楽譜を初めて見た時は泣きそうになったけれど。でも、弾けるようになるとものすごく気持ちが良くて。


「ハルのピアノは、魔法みたいだなあ」

 寝転がって頬杖のまま、ルウは目を閉じて言う。


「ええ?」


 弾きながら軽くルウへと視線を向けて訊き返すと、ルウは床の上から上目遣いに、


「ただの楽器なのに、ハルが弾くと喋ってるみたいになるんだよ。モノに喋らせるなんてことができるなんて、まるで魔法だろ? どうしてそんなに指が動くんだ? なんでそんなに一度にいっぱい音が出せるの? 指は本当に十本しかないの? 右手と左手、どっちのことを考えてるの?」


(魔法みたい、か)


 まだずっと子供のころ。バイエルをやっていたころ。ピアニストの演奏を見て、自分もそんな風に思ったなとハルは思いだす。知らず知らずに、小さく笑っていた。


「練習すればできるようになるよ。ルウも弾くか?」

「えっ、弾けるようになるの? あたしにも?」

「うん。いま遊んでる時間を全部練習に使えば、楽勝だよ」

「……やっぱいいや」

「そう?」


 鍵盤の上を、指が動き、跳ねる。歌う。

 アスカから帰ってきたその日と次の日は、あんまり手が鈍っているので不安になったけれど、多少は取り戻せたと思う。そもそも練習時間が足りないのはいかんともしがたいが、どうにか毎日少しでも時間が作れたら……。


(ああ、楽しいな)


 やっぱりこの時間が、一番だ。


 左手は無事に思い通りに動いて、そのまま数曲弾いたところでルウが寝そべっていた体を起こして胡坐をかき座りなおした。


「ハル、またちょっと感じが変わったね」

「え? おれ?」

「うん。ハルもだし、ピアノの音も変わったよ」

「ええ?」


 椅子の背もたれに背を持たせて、首を傾げる。


「またって? 前のヤツを聞いてないけど?」

「うーん」


 ルウは視線を斜め上に上げて、ちょっと考えるようにして、


「最初はなんか……何しろものすごく辛そうだったよ。その次は、なんとなくぼんやりした感じになって。いつもほかのこと考えてるみたいな」


 ああ、グンジがいつだか言っていたな、と思う。目覚めて半年。最初にトキタに会いに新宿に行ってから。


(ルウはお見通しだな)


 内心でまたちょっと笑って、膝に肘をつき、ルウに向かって身を乗り出した。


「じゃあ今は?」


 聞くと、ルウは丸い目でじっとハルの顔を見つめ、

「ほら、それだよ。その顔」

 指さす。


「え?」


「なんていうのかな、柔らかくなったし、ちょっとは楽しそうになったよ」


「……え?」

「うん。前は全然笑わなかったもの。笑った顔してても、笑ってなかった。なんかキツイのを誤魔化すみたいに笑ってたよ。けど今は、そうだなあ、キツそうでも、柔らかい」


「……」

 体を起こす。


(まいったな……)


 そんな、目に見えて楽しそう? おれ?

 それは、マズいだろ。小さな胸の痛みを感じていた。


(おれは……)


「どうしたの?」

 ルウが軽く首を捻って、ハルを見つめている。


(だめなんだ、それは)


 みんなが、見ている。

 どこからともない視線を感じていた。いつも心の片隅に、それはある。

 大好きなピアノに向かい合って。大好きな音を鳴らして。その音色に浸って音楽を紡ぎだして、けれどその時も、いつだって忘れない。


 みんなの思いを。


 鍵盤の上を、手は、指は自由自在に動き回っていても、常に何かに縛られている。

 楽しくっちゃ、いけない。いなくなった者たちみんなのために、すべての音を奏でることはできないのだから。


(だけどおれ、たしかに楽しいって思った……)


 ごめん。浮かれて。……おれだけ弾いてて。

 そっちに行ったら、思いっきり罵ってくれていいよ。だって、おれは弾いている。独りで。


 弾かないではいられないんだ。孤独と罪悪感に押しつぶされそうになっても、弾かずにはいられない。

 ああ、おれはいつ解放される? こんな思いから。


「……ハル?」


 うかがうように見つめるルウと、視線が合って。


「あ、いや……」


 何か言わないと。そう思ったところで、


「ハルー? ちょっと来てちょうだい」


 階段の上のほうからリサが呼ぶ声がする。

 かすかにほっとした気持ちでそれに答え、ピアノの蓋を閉じるとルウと一緒に階上に戻った。

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