第36話 帰村
もう次の会合の日まで間もないのだから、そのまま滞在していればいいじゃないか。
そう言うナギに礼を述べて、ハルはヤマトの村に帰る支度をしていた。
一日だって早く、ピアノに触れたくて。
明日は、ヤマトに帰る。帰ったらすぐに、ピアノのある地下室に行く。
(あああぁ……早く触りたい! 何から弾こうかな……)
考えただけでも胸が高鳴る。手がうずうずしていた。もう指が動き出しそうなほどに。実際に、気づくと時どき動いていたけれど。
かれこれ二週間以上ヤマトを留守にしてしまっただろうか。ピアノはだれにも触られずに、寂しい思いをしているかもしれない。まさか雨漏りや火事や崩落でダメになったりしていないだろうな。大きな事故があればアスカにも報せが来るだろうが……心配だ。
シブという老人からもらったバニラの鉢。苗よりは大きな、昔よくインテリアの装飾品として見たような観葉植物然とした一メートルほどのその鉢植えを、どうやってリュックに詰めようかと四苦八苦しながら、頭はピアノのことでいっぱいだった。
アラベスクがいいかな。ドビュッシーの楽譜を思い出して。あの日の光を映してキラキラと輝く小川の流れを見ていて浮かんだ音楽。早く、音にしたい。夜のせせらぎを思い浮かべれば、「月の光」ももちろん悪くない。いや、むしろドビュッシーも同じ小川を見ていたのではないかとさえ思えるくらいにぴったりだ。さて、どちらから掛かろうか。けれど、またしばらく弾いていないから。指が動くだろうか。まずはノクターンあたりで軽く指慣らしをして――。
鉢をしまい茎は外に出す感じで、どうにかリュックが安定したところで、
「チハル」
戸口から声を掛けられた。
「サヤ……どうしたの?」
床に座り込んだまま、ハルは少々慌てて戸口を振り返る。
「おれ、記憶喪失っていうことになってて、
サヤは廊下へとちらりと目をやって、
「だれもいないから、大丈夫。それより、明日帰るんでしょう?」
「うん」
サヤは、床に座り込んでいるハルと、その周りに散らばっているリュックや麻袋や、土産の品だと言ってナギたちがくれたものへと交互に目をやって、それから部屋に入ってきてハルの目の前に膝をついた。
「私も連れて行って」
わずかに落とした声で。真剣な瞳で、訴える。
「どうしても新宿に行きたいの。ヤマトからは近いんでしょ? あなたは新宿に関係のある用事で、ここに来たんでしょ?」
「え、なんで、それ……?」
「あなたが眠っている間に、ナギさんやあの体の大きな男の人が、何度も『シンジュク』って言ってた。ちょっと発音は違うけど、『シンジュク』って聞こえた」
……あの二人。
サヤは言葉が分からないと思って、彼女の前で堂々と話をしていたな?
(大丈夫なのか……?)
まあ実際、内容までは伝わっていないらしい。少々安心したが、同時に小さな落胆がある。サヤがハルのことを一生懸命看病してくれていたというのは、新宿の情報が知りたかったからなのだ。
(……いいけどね、別に)
でも、心配してくれてるみたいだったって聞いたら、ちょっと嬉しいじゃないか。
「ヤマトと新宿は遠くはないよ」
リュックに持ち帰るものを詰める作業を再開しながら、ハルは答えた。
「だけど新宿に行くのは諦めたほうがいいよ。あそこではもう暮らせないんだ」
「どうして?」
「だから、言ってるだろ? ほとんど人が住んでない。……それに。もうすぐ、あの都市は閉鎖する」
「……どういうこと?」
サヤの大きな瞳が、真っすぐにハルを覗き込む。
その不安と期待のないまぜになった視線に負けて、ハルは手を止め、バニラの葉へと目を落とし少し考える。
彼女に話すくらい大きな危険があるとは思えないが、万一のことを考えれば秘密は貫いたほうがいいだろう。一方で、彼女の望みを諦めさせるためには、あの場所にもう彼女の期待する暮らしはないのだということを理解してもらわなければならない。
「……ごめん」
バニラに目をやったまま、呟くように言った。
「これ以上は、今は話せない。だけど……横浜でなんて聞いてきたか分からないけど、新宿は廃墟なんだ。悪いけど諦めて、ここで暮らして」
「無理だって言ってるでしょ!」
「新宿で暮らすほうがよっぽど無理だ」
「それは行ってみて考える。新宿に連れていってくれるだけでいい。あなたには迷惑はかけない」
「そう言われても……」
連れ出して、放っぽり出すわけにもいかないじゃないか。
仮に――新宿に連れて行ったとして――。考える。トキタは彼女のことを拒みはしないかもしれないが、都市で生活を始めれば必ずハシバに知られるのだ、おそらく。だとすると、今この計画を温めている時に余計な波風を立てることは避けたい。
それに。
彼女の考えは、どちらかと言えばハシバに近い。
ハシバが知れば、彼女を利用しようとするのだろうか。
それが彼女にとって良いか悪いかは分からないが、トキタと自分には障害となるだろう。
考えていると、
「チハル」
呼びかけて、サヤがくっと顔を寄せた。
「……え」
ドキリと胸が鳴った。
すぐ目の前に、彼女の大きな瞳があって。それが覗き込むように、わずかに下からハルを見つめている。
その茶色がかった瞳が、瞬きをひとつ。ゆっくりと再び開いた瞳に、とろりと虚ろな色が宿った。次第に近づいてきたサヤの顔は、息が掛かるほど近くにあった。
「ねえ」
ささやくような甘く小さな声で、彼女の形の良い唇が震える。その息が頬に触れた時、ハルは何かに縛り付けられでもしたかのように動けなくなった。
彼女の冷たい手が、ハルの左手に静かに触れる。最初それは手を、そして指の上を這うように撫で、そうして彼女の指がハルの指に絡んで。その指を弄ぶかのように、絡みついてくる。
「ええっと……サヤ……?」
心臓が跳ね上がるように鳴っている。
「チハル。あなたのことが、好きになった」
「ええぇっ?」
「一緒に連れていって。あなたと」
耳元でささやかれる。
左手が頬に触れ、撫でるように通りすぎていって、そして――。
「サ、サヤ? ちょっ……」
その手が頭の後ろに回される。
もう片方の手は、まだ指を絡めあいながら。
彼女の長いまつげがまぶたに触れた。
唇が重なる柔らかい感触。
呼吸を、奪われる。
「ん……っ」
あまりに突然のことに、一瞬思考を手放しそうになり――。
「んんん……!」
心臓の音が部屋中に響いているような気さえして、
「だっ――」
ハルは必死でサヤの肩を掴み、
「だめだよっ」
両手で肩を抱くようにして、サヤの体を引き剥がしていた。
「だめ、だって……っ」
「どうして?」
傷ついたような、サヤの顔。先日小川のほとりで「この時代が嫌いだ」と言った時の強い視線は、そこには見当たらない。本当に、好きな相手に拒絶されたかのように……。
気まずくなって、ハルは目を逸らした。
「そうじゃないだろ……だって、きみの好きなのはおれじゃなくて、二〇六〇年代だろ?」
「違う、私は」
「おれは……」
ほんの一瞬の躊躇い。彼女の柔らかい感触が、まだ左手に、唇に、残っているから――。
でも。
「おれは、新宿では暮らさない。ヤマトの村に帰るし、そこで暮らしているんだ。これからもそこにいる。それでも一緒に行くか?」
瞬きほどの沈黙。その後で、サヤは頷いたけれど。
そのわずかな時間に、彼女の本心は雄弁に語られていた。
「もしも――」
心臓が、まだドキドキ言っている。声が上ずっているのを、隠せない。
「ここを出てほかの場所に行きたいなら、協力する」
視線を合わせているのが気まずくて、ハルはまた荷物をリュックに詰めだした。そうしながら、
「横浜に戻るんだったら、連れてってもいいよ」
「横浜には戻らない……パパもママもあそこの人たちのために眠ったし、目覚めてからも働いていたのに、あの人たちはパパとママに出て行かせた」
サヤは、静かな声で拒絶する。
「だけど、新宿もだめだ。それに、客を勝手に連れて行くのはルール違反みたいだから、ここを離れるならちゃんとナギさんに話して、了承をもらって」
「でも――」
「五日後におれはまた用事があってここに来るからさ、その時までに決めておいてくれれば。どこかほかの場所に渡るにしても、ここに残るしても……できれば、行きたいところまで送っていくから……」
なるべく感情を込めずに――心の中にまだ残っている動揺を表に出さないように、淡々と言ったつもりだった。
サヤが立ち上がる気配がして。少しの間、その視線を感じていた。
気づかないふりで、作業を進めるハルの頭の上に、
「だけど」
ぽつんとサヤの言葉が降ってきた。
「あなたのこと好きなのは、ほんと」
手が止まる。ハルは小さく息を吐きだして、
「違うだろ?」
「違わない」
「だって……だめだよ。おれは」
振り返らずにそれだけ言うと。ほんの少しの間があって。それからサヤが走り去っていく小さな足音が聞こえた。
(だめだよ、だって――)
トキタの計画を遂行したら、自分はこの世から消えてなくなるのだから。それはあと、一年か二年か。どちらにしたって、遠い先の話ではない。
サヤの気持ちが――まずないとは思うが、万が一、もしかして、一パーセントでも――いや、そもそも彼女がハルと出会ってから、好きになるようなタイミングがいつあった? しかしことによると、どこかほんの一欠けらでも――本物だったとして、それでも。ハルには彼女に関するどんな責任も負えないのだから。
黙々と荷造りをしながら、ハルは大きなため息をついていた。
翌朝、太陽が東の空から頭の真上に差し掛かる前に、ナギに見送られてアスカの村を出た。サヤは見送りには来なかった。何も言えずに出ることになって少しばかり心残りだったが、また数日後に来た時に様子を見ればいいと、自分に言い聞かせて。
来るときに半日掛かったと話したら、そんな距離じゃない、案内してやると言ってオキが同行してくれた。オキは「これが最短の道筋だ」と胸を張ったが、目印になるものなどほとんどなく、もう一度同じ道を通れる自信はさっぱりない。
帰ったらグンジへと「計画」の話をしなければならないのは、少々気が重かった。自分の頭を飛び越して、オキやナギや周辺の村と先にすり合わせを行ったと聞いたら、グンジは気を悪くするだろうか?
『あいつだって、村が大事なんだ。あんたの気持ちは分かってくれるよ』
オキはそう言って慰めてくれたけれど。
『行って、おれから説明してやろうか?』
そう言ってくれるオキに、まずは自分の口から説明するからと言って、ネリマとの分かれ道――らしい――でオキと別れた。
村が見えてくると、門から一頭の馬が飛び出してきた。
「ハルー! ハルーー!」
(……デジャビュかな)
ルウが馬を駆って、ものすごい勢いでこちらに向かってくるのだ。
なんだかいつかも見た光景だな……とハルは苦笑する。
「ハル! おかえり! 今日帰ってくるって聞いて、門でずっと待ってたんだよ!」
「……ただいま」
苦笑交じりに応えるハルに、ルウはいつかと同じような泣き出しそうな目を向けた。
「ほんとに、ほんとに、ずっと待ってたんだからね! もう帰ってこないんじゃないかと思って心配してたんだからね!」
「ごめん、向こうでの用事が思ったより長引いちゃってさ」
「ほんとに……ん? それ、何?」
ルウはわずかに背を反らすようにして、ハルのリュックから葉っぱを出しているバニラの葉に目をやった。
「ああ、これは……村へのお土産」
「ふうん……お土産って言えば」
ルウはまた涙目になる。
「アスカの人たちが来て、ハルを借りるお礼だって言って、いろいろ持ってきて置いてってくれたんだけど……」
「うん」
「食べ物とか……美味しそうなものがいっぱいあったんだけど」
アスカの食べ物は、たしかに美味しかったな、と思う。
「でも、食べたらハルがアスカの人になっちゃうかもしれないって思って」
ルウは瞳に涙を溜めて、鼻をぐずぐず言わせだした。
「ハルが帰るまであたし、アスカのものは絶対に食べない! ……って思って」
「……ルウ……」
「そしたら……サンとハヤトとルミと……あとトウマとミラと……あとほかのみんなが、全部食べちゃったんだああ!」
(ああ、それで泣いてるんだな)
「ごめん」
苦笑しながら、ハルはリュックのほかに肩に掛けていたカバンから小さな包みを取り出した。あのバニラ味の柔らかいパンだ。
「はい。これやるよ」
「えっ、なに?」
「ルウへのお土産だよ。アスカのパン。ほかのみんなに見つからないうちに食べな」
ルウは受け取ると、即座に包みを開いて一口かじった。
(ええ、ここで食べるの?)
馬上である。
が、気にする様子もなくルウはそれを呑み込むと、瞳をキラキラさせて、
「なにこれ! おいしいーーー!」
絶叫した。
* * * * *
アスカ編、終了。次回から新章です。新章開始まで、数日お休みするかもしれないし、そんなにしないかもしれません。
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