第32話 せせらぎ

「ハア。どうにか無事に済んだな」


 片腕をテーブルの上に投げ出し背もたれにのけ反って、オキは疲れたように言った。


「ま、あれだ。まずは、忌憚のない意見ってヤツだ。あれこれ文句は言うが、今日いた連中は自分が納得しさえすりゃちゃんと条件は呑むヤツらだよ。問題は、これから声を掛ける村の連中だ。ぶっちゃけ、気心の知れねえヤツも話の分かんねえヤツもいるからな。今日のヤツらから出てた意見は、これからのいい参考ってことだ」


「ああ。少なくとも彼らの支持は得られるだろう。次は――」


 ナギが椅子に腰かけたまま腕を組んで、テーブルの上を見つめながら考え込むように言って。

 次の言葉を待つ間に、オキは身を起こした。


「ハル、大丈夫か? 立てるか?」


 正直、限界……。そんな言葉を呑み込んだ。

 体のあちこちが痛んだ。


(おれ、ケガ人だった……)


 ここ数日寝ているだけの日々で、もう大したことないような気になっていたが。起きて椅子に座って、他人と話すいうのは、想像以上に重労働だった。


「大丈夫。もう戻って寝るだけだし」


 重いため息を吐きながら言うと、オキが眉を寄せた。


「部屋までおぶってってやろうか?」

「いや! いいよ!」


「次の会合までに、南の村々にも声を掛けるかどうか……輪を広げるのには、少し早いだろうか……」


 考え込むように、ナギが言う。

 次の会合――約束は、およそ半月後。


「掛かる時間が長けりゃ、口の軽いヤツは我慢できなくなるからな。慎重にする必要はあるが、地道に根回しはしていくほうがいいだろうな。いきなり子供が帰ってきても、困る村がないとは限らねえ。武器の手配も、分担してひとつひとつの村の供出量を揃えたほうがいい。タエのヤツが序列云々って言ってたけどな、後々『うちが多く出した』とか言ってほかの村の上に立とうとしてくるヤツがいるかもしれん」


「そうだな」

 呟くように言うと、ナギはハルへと体を向けた。


「村々への根回しは、われわれに任せろ。きみにはシンジュクとの連絡を頼むことになる。危険があるだろうが、やってくれるか」


(村に話を持ち掛けるほうが、よっぽど危険だったけどな……)

 痛む背中を伸ばして、頷いた。


「何度も痛い目に遭わなくて済むと思うと、嬉しいよ」


 すると、ナギは苦いものでも口に入れたかのような顔になって目を逸らした。そうして恐ろしく言いにくいことを口にするみたいな口調でぼそぼそと、


「ハル。きみが持ってきたのは災いではなく希望の種だった。私は危うくそれを踏みつぶしてしまうところだった。本当に申し訳なかったと思っている。オキにはこの失態を、この先ずっと詰られ続けるだろう。これで、許してくれないか」


「あっはっはっはっ!」

 唐突に、オキが大声で笑いだした。


「ハル、あんたいいよ。ナギにこんな顔をさせるガキはあんたしかいねえ。はっはっはーっ」


 たまらなくなったように、体を折り曲げながら笑うオキ。

 ナギは苦い顔のまま、笑い続ける男を睨んでいた。


「ほんと、気に入ったよ。なあ、あんた、もしまた渡る気になったら、おれの村に来いよ」

「……渡るって?」


「ああ」目に涙さえ浮かべて笑っていたオキが、顔に笑顔を残したまま、「客が、別の場所に移るってことさ。ひとっところに居続ける客もいるが、それはそいつの希望次第だ。そいつのいる村から奪うのは反則だから、あくまで当人の意志だがな。あんたヤマトに飽きて別のとこに行きたくなったら、ネリマに来いよ」


 言葉の最後で、オキはひらめき顔になった。


「そうだ、あんた、おれの娘を嫁にもらわないか?」

「はあっ? 五歳児だよね!」

「あ? ゴサイジってなんだ? まさかあんた、おれの娘の悪口を言おうってんじゃないだろな」

「えっ、いや違うよ、それは――子供たちが戻れば、もっと似合いの年頃のヤツがいるかもしれないし……」


 一瞬だけ瞳に剣呑な色を浮かべたオキだったが、すぐに元の笑顔に戻った。


「ま、あんたはヤマトをだいぶ気に入ってるようだしな。居つくのも、悪かねえさ」






 ネリマへ帰っていくオキを見送って、ハルは部屋への道を歩いていた。

 ずっと部屋の中にいたのでアスカの村の中を歩くのは初めてだが、やはり全体として裕福で手が行き届いているのを感じる。人の住み着いた廃墟ではなく、現代の村の人々のために建てられたと思われる建物が多い、というのもあるが、道から砂が避けられていたり、建物沿いに花壇が手入れされていたり、村の隅々まで気を配られているのが見えるからだろう。


(まあ、痛い思いをしたけど、アスカに来たのは間違いじゃなかったかな……)


 結果的に。ハルが半月近く地図と睨めっこしてようやくひとつの村の協力に漕ぎつけた――いや、むしろ失敗して死にかけたというのに、一個行動を済ませたら、後はナギとオキの手によってここ数日の間でトントン拍子に話が進んでいるわけだから。


 会合が終わると、冬の早い日はもう暮れかけていた。

 右手の建物の隙間から、日が沈んだ後の赤と紺に縁どられた稜線が切れ切れにのぞく。左手には、世界に顔を見せたばかりの大きな満月が浮かんでた。


(ああ……十五夜か……)


 ここ三回ほど続けて通っていた、シンジュクへの通路が開かれる日。今月は、お休みだ。


(あいつ、待ってるのかな)


 まあ、いいや。せいぜい心配させてやれ。

 そもそも別に約束しているわけでなく、トキタが勝手に入り口でハルを待っているだけなのだし。

 そんなことより、早くピアノが弾きたい。ヤマトに帰って、あの地下室で待っているピアノに早く触れたい。

 トキタから楽譜をもらって、ようやくピアノの鍵盤に触れることができるようになったのだった。もらってきた楽譜に載っている曲はひと通りさらったけれど、まだ弾き込んでいないのが数曲残っている。

 せっかく指が鍵盤に触れることができたってのに、またこの数日のお預け状態。指が動かなくなっているんじゃないかと、心配だ。


(前は、一日だって弾かない日は考えられなかったのにな……)


 そのことに比べたら、トキタとの面会の機会を一回棒に振るなんて、大した問題ではない。

 あいつの頼みごとを聞いてやったせいで、ハルは何日もピアノに触れなくなっているのだ。

 あの老人の依頼を着々とこなしてやっている気持ちの余裕から、そんなことを考えながら歩いていると。


 部屋のある建物が見えてきたところでふと、どこか古い記憶を呼び起こす感触の音が、耳を掠めた。


(――?)


 立ち止まって耳を澄ます。


(水の、流れ?)


 一面の砂の大地でも、ここはやはり日本であるらしく水が湧き出ている場所はそれなりにあるのだが、せせらぎの音というのは目覚めて砂漠にやってきてから聞いたことがない。たとえば小川。湧き出すだけの泉とは違う。小さな流路を、水が流れていくような。


 川が流れてるのか?


 会合の席からずっと引きずっていた体の痛みは、その瞬間、忘れていた。

 建物の角を、部屋に戻るのとは反対の方向に曲がって、音を頼りに足を進めていく。

 緩やかな砂の斜面に並べられた、いくつかの大きな岩。そこから身を乗り出して覗き込むと、透明な水が、狭い水路を十センチくらいの浅い流れで左から右へと流れていく。


(川があるのか……)


 かつての世界で見たような、大きな河川ではない。剃刀状に切り立った護岸に守られた、確たる水路でもない。でも、ただ水が湧いて砂の大地に浸み込んでいくだけの泉でもなく、一定の流路を持った水の流れというものを、この世界で初めて見た。

 川って、まだあるんだ……。


 それは、小さな感動だった。かがみ込んで手を水に浸すと、冷たい感触が指の間をさらさらと通り過ぎていく。

 岩の間を流れていくせせらぎが、人工的な明かりのない大地で昇ったばかりの月の光を映してキラキラと輝いていて、それは本当に――。


(ああ、今、弾きたい……)

 堪らない欲求。

 水面に反射する、月の、光――音にしたい、今すぐに――。


 指に触れる冷たい感触。耳に、その音が聞こえていた。

 しばらくそうして手を浸して水の感触を味わっていたが、岩の隙間から流れてくるその水の出所を追って目をやると、小さな渓谷が見えた。

 なんとはなしに、岩に手をついて身を起こし、その水の出所を目指して歩いていくと。


(えっ――!)


 それは唐突のことだった。

 地面の下から足を引っ張られるかのような感覚があって。

 足元の砂が崩れたのだと分かった時には、すでにきつい傾斜の砂の中に引き込まれていた。


「うわぁ!」

 思わず声を上げる。


 重力に逆らえずに、砂の崖を削って体が斜面を滑り落ちていく。数メートルも落ちたと思われるところで背中が固いものに当たって止まった。息が詰まるような痛みに一瞬目を閉じて。――再び目を開くと、そこは岩場に囲まれた小さな空間だった。

 背中の痛みに堪えながらどうにか身を起こすと、眼前には捕まるところなどない砂の急斜面。背後には、切り立ったような岩場。

 先ほどまで追っていた水の音が、頭上を流れていく。


(……え?)


 どうやらとんでもない奈落に落ちてしまったようだと把握するのに、数瞬の間を要した。


(ええええぇ……)


 たぶん先ほどいたのであろう場所は、砂の急斜面の上。岩が並んでいる、あの向こう。


(どしよう……)

 砂の斜面に手を伸ばして、どうにかそこを登ろうとする。けれど、手は砂を掴むばかりで体が引き上げられることはなかった。岩場を回って、元いた場所に戻ることはできるだろうか?

 周囲を見回し、もう一度上に目をやった時。


 頭上の岩の陰からこちらを覗いている、一人の少女の姿が目に入った。

 アスカの村で最初に目を覚ました時にいた、あの子。あの時は、逃げて行ってしまったけれど。

 月明りに照らされた横顔は、不安げな表情で。ハルがさっき足を滑らせたと思う岩場から、身を乗り出してこちらを見下ろしている。


(ああ……)


 ハルは、心の中でため息をついていた。この身動きの取れない状況で、彼女が何かの手助けになってくれるのか、くれないのか、ということの以前に。

 月の光に浮かび上がるその少女の横顔が、美しくて――。


(あ……ほんと、今ピアノ弾きたい……)


 それどころじゃないというのに、頭の中ではピアノの音が、ハルの指が鍵盤に触れるのを待ちきれずにもう溢れだしている。

 この場面を表現するとしたら。どんな曲がいいだろう? 月の光に、小川のせせらぎ――水面のきらめき。そして……美しい少女の横顔――。


 だが――。何を言う間もなく、彼女は身を翻して走っていってしまった。


(あぁ、行っちゃうんだ……)


 ぼんやりと状況を把握している。落胆に、砂を掴んで身を引き上げようと伸ばしていた手が止まる。

 はあ、と漏らした息が、白かった。


(寒い……)


 砂漠の冬の夜の空気は、身を切るように冷たい。少しの距離の移動だと思って上着もマントも着てこなかった。知らず知らずに、両手が腕をかき抱いていた。

 それに先ほどからずっと感じていた――せせらぎを発見した興奮で一瞬のあいだ忘れていた――体の痛みを思い出した。体を砂の斜面に預けて、寝転がる。

 背中に感じる砂の感触。それは少しだけ温かく、心地よかった。


 綺麗だったなあ、と思う。あの、月の光を映したせせらぎ。そして、あの少女。


 ――この都市の中でここの子供たちのような暮らしをしていて、ピアノを弾きたいという意欲が湧くか?


 ふと、トキタの言葉が頭に浮かんだ。

 都市の――シェルターの中で暮らしている、自分と同年代の者たち。表現したい、と思うような光景を見ることは、あるのだろうか――。

 こんな景色を見たことがないんだったら、やっぱり損かなあ。そんな気持ちが頭を掠める。


 二〇六〇年代。ハルのかつて暮らしていた時代には豊かな緑に包まれた、美しい世界があった。

 だけど――。

 この一面が砂に覆われた世界だって、十分に美しいじゃないか。

 砂色の丘陵。風が吹いた後でそこに残されるきめ細かな模様。青い空と砂の丘の境目に描かれる、緩やかな曲線。それを日暮れごとに彩る、毎日少しずつ違った色のライン。雲の形。日の光に白く輝く廃墟。蒼穹の下、たわわに実をつける赤いトマト畑のコントラスト。泉と小川。月明りを写す、清流。昼の日差しを吸い込んだ、砂の大地の温かさ。眼前に広がる、満点の星空。それに、人――。


(ああ、キレイだなあ……)


 星空に目をやりながら、うとうとと、意識は遠のきかけていた。

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