第24話 洗脳
広場を突っ切って元の場所に駆け戻ると、トキタはハルを送り出した時とまったく同じ場所に同じ体勢で立っていた。
「どうした、真っ青な顔をして」
わずかに首を傾げるトキタ。だが、そう問いかけながらも、ハルの反応を意外に思ったり心配したりしている様子はない。初めからこれを見越していたかのような。「分かっただろう?」とでも言いたげなその表情に、ハルは思い切り抗議の視線を送った。
「なんだ、ここ。なんか気持ち悪い」
「ふむ」
走ってきて気持ち息を切らしながら言うハルに、トキタは満足げに小さく笑う。
「そうだろうね。きみには」
そう言うと、トキタはくるりと背を向けて、先ほど来た道へと歩き出した。
「戻るの?」
心なしかホッとして後に続いたハルだったが、トキタは、
「その前に、『裏』を見せよう」
来た時と同じペースで、ハルの二、三歩前を歩いていく。
大きなドアをひとつ過ぎると、「表」に来る前まで見ていたのと同じ無機質な廊下に出た。
トキタについて歩いていくと、今度は一回り小さなドアを開けて「入るぞ」と目で示す。あとに続いて入ったハルは、「あれ?」と小さく声を上げていた。その光景に、見覚えがあって。
「ここ……さっきの店?」
男子生徒が買い物をしていた菓子屋。それを裏側から見ているような、妙な感覚。
「『マーケット』の裏だよ。店だけじゃない、ゲームセンターも、レストランも、シアターも。広場を取り囲んでいた建物はすべて、『裏』と繋がっているんだ。こちらから――」
トキタは店の向こうに見えるガラスの自動ドアを指さした。
「あのドアを出て、さっききみの歩いていた『表』に出ることもできるよ」
子供たちが買い物をしていた空間と、今ハルが立っている場所。その間には、遮るもののひとつもない。ハルがあと数歩踏み出せば、さっき外から見た店内に入ることができる。男子生徒がしていたように、入店システムのチェックを受けることなく、裏から街に立ち入ることができるというのか。
「けれど、『表』で生活している子供たちがこちら側に来ることは、絶対にない」
「いや、それは――おれだって、向こう側から見て奥にまだ何か続いているなんて、思わなかったよ?」
「ああ、一見すればそうかもしれないが、奥まで入れば……あるいは何度も立ち入るうちに、おそらく気づくだろう、きみなら。そして興味を持つ。試しに足を踏み入れてみるかもしれない。それが、彼らときみとの違いだよ」
(おれと、あいつらの、違い……?)
怪訝に思って、眉を寄せる。
「隣の町まで歩いていくみたいな冒険を、もっと小さな頃にしたことがあるだろう?」
「そりゃ、まあ」
「彼らにはそれがない。知っている場所以外、存在しない。いまわれわれが立っている場所。この場所は、彼らにとってはないんだよ」
「はあ?」
「彼らにとっては、彼らが生活を許された『表』が世界のすべてだ。こんなに簡単に、それこそ仕切り板のひとつさえなく知らない場所に足を踏み入れることができるなんて、考えてもみない。考えてもみないから、たとえ目の前にあっても、見えない」
「それ……どういう……」
理解の追い付いていないハルに軽く笑いを見せて、トキタはまた歩きだした。
「表」から見たら別々の店に見えていたそれらは、「裏」では一つに繋がっていた。「舞台装置みたいだ」と思ったのはどうやら正しかったらしい。裏から見れば、それは同じ一つの「舞台」という空間なのだ。
「チハル、村から連れ去られてきた子供たちが何歳くらいだったか、聞いているか?」
歩きながらトキタは、唐突にそんなことを尋ねてきた。
「え? ……っと、村じゃ正確に年齢を数えないみたいで。分かんないけど、『よちよち歩きから計算ができるくらいの子供』って言ってたから、一、二歳から七歳くらいかなって、漠然と」
「だいたいそんなところだ。けれど、チハル。一、二歳ならともかく、七歳の子供がそれまでの暮らしをまったく覚えていないと思うか?」
「……え?」
「きみは、七歳の時のことを覚えていないか?」
え? と考える。たしかに事細かに覚えているとは言いがたいが、記憶にないわけではない。
小学校の入学式。一年生、二年生のクラスや担任教師。初めてピアノのコンクールに出たのも、そのくらいの歳の時だった。
いや、もっと前のことだって覚えている。ピアノを習い始めたのは四歳の時。
ピアノの椅子に座って、子供用の足台を置いてもまだ足が微妙に届かなくて、ぶらぶらさせていたら叱られて泣き出してしまったことがあった。指遣いを教わったのも、黒い鍵盤やペダルの意味を教わったのだって、小学校に入る前だ。覚えている。
そうハルが思考したのを待っていたように、トキタは歩を進めながら、
「物心はついている。思考も記憶も連続している。村から連れ去られたら、その時のことだって、それより前の村での暮らしだって覚えているはずだろう。いくらその後のここでの生活が長くなったとしても、自然に忘れるはずはない」
「だから、つまり……どういうこと?」
「都市の子供たちは、記憶も思考も感情も、コントロールされているんだよ」
「はあ? そんなことって……」
言いかけて、言葉を探す。他人の記憶や思考や感情を、コントロールする? それじゃまるで――。
「『洗脳』だな。言うなれば、これは」
立ち止まって視線を合わせて、トキタは真面目な顔で言う。
そうしてそこで――そこは、あの音のないゲームセンターの「裏」だった――バックヤードに置かれたり積み上げられたりしているゲーム機の中の適当な高さの場所に腰を下ろした。
「ちょっと、座ろうか」
言われてハルも、テーブルくらいの高さのゲーム機らしい台に、寄りかかるように浅く腰かける。
「自分が村から連れ去られてきたことと、それまでの生活や父母のことを忘れさせる。これはまあ、少し複雑ではあるが、まだ思考能力の発達していない子供のことだ。不可能ではない」
淡々と言うトキタ。その内容は恐ろしく不快で、ハルはトキタを睨みつけた。たった七歳までの記憶だって、ハルには大切な思い出だ。奪われるなど、たまったもんじゃない。
「次に――自分の世界はこの狭いシェルターの中の、さらに狭い『表』の空間だけだと思い込ませる。もう少し外側に行くことも物理的に可能だというのに、子供たちは行けないと思い込んでいる。マーケットを見ただろう? 不用心すぎると思わなかったか? 子供たちは、教えられた通りにしか動かない……というよりそれしか出来ないと信じているから、万引きの心配はほとんどないんだよ。素直で従順で――自分でものを考えるということをしない」
「はあ? そんなの……」
「ああ。恐ろしく不愉快で、不自然な世界だろう? 安全ならいいか? 管理されて最低限の本能的欲求が満たされれば、ほかに何もいらないか? たとえばきみはこの都市の中でここの子供たちのような暮らしをしていて、ピアノを弾きたいという意欲が湧くか?」
畳みかけるように言われ、その語られることの薄気味の悪さに、ハルは言葉を失っていた。
それは先ほどのハルの、「外の世界が本当に都市の中よりもいいのか?」という問いかけへの答えなのだろうか。
だったらたしかに、少なくともハルはこんなのごめんだ、と思いはするけれど。
「けど……そんなこと、ほんとにできるのか?」
「無論、個々の性格や知能によって程度には差があるよ。跳ねっ返りもいるし、自我の強い者もいるからね。全員が完全にとまではいかない。だが、まったくコントロールを受けない者もいない」
トキタはそこで腕組みをして、斜め下に視線をやると大きく息を吐きだした。
「何かに興味を持ち考える前に回答を与えられて、一方的に教えられたことだけを素直に信じる。何かを欲しいと思う前に手ごろなものが与えられるので、欲求が起こらない。限られた情報と人間関係しかない、外界からの刺激を受けない、時間の流れも定かでない、この狭い隔離された空間は思考能力を奪うにはちょうどいい」
「ちょうどいいって、あんた――」
「私が、それをしたんだよ。ハシバの求めに協力してな」
ハルは愕然と、トキタを見つめていた。
そうだ。こいつは大悪党なんだ。この上ほかにどんな罪を犯していたって不思議ではない。
「私の専門分野はヒトの『記憶』と『思考』について――。以前言っただろうか、冷凍睡眠技術を人間に適用できるようになったのは、眠る前の当人の記憶を覚醒後まで維持できるようになったからだ。――その技術を開発したのが、私だよ」
そう……こいつは、おれの友達を全員殺した大悪党。
きっと睨みつけるハルに、トキタの反応は小さく肩をすくめて見せることだけだった。
「ハシバが妙な野望を抱いて、子供たちをコントロールしようとしていること、それに私を利用しようとしていることは分かっていた。けれど逆らえずに、私は彼の求めるままに砂漠の子供たちの洗脳に手を貸した」
「……なんで?」
「都市の中に、息子がいる。それはハシバも知っている。いわば人質だな。私が逆らえば、彼は息子に何をするか分からない」
「だって、あんた……それなら、息子と一緒にさっさと出ていけば良かったじゃないか。ほかの覚醒したヤツらはそうしたんだろ?」
「ああ」
「結局あんただって、中のほうが良かったってことなんじゃないの? それとも息子を育てるのに? 悪環境の砂漠よりも、この変な社会のほうがいいからじゃないのか?」
「何度も考えたよ、それは。けれど、私はやはり」
そう言って、トキタは静かに目を上げた。
「きみたち、眠りから覚めていない者たちを都市に残して出ていくこともできなかったんだ」
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