第22話 楽譜

 おいで、こっちでコーヒーでも飲みながら話そう。


 その言葉に大人しくついてくるハルに、自分で言い出しておきながらトキタは不思議そうな顔をした。

 また先月と同じ、「コーヒーなんか要らない」「話すことなんかない」という反応を予想していたのだろう。


「……どうした。今日はイヤに素直だな……元気か?」


 拒絶の言葉も口に出さない代わりに、何も言わずムスっとしているハルに、トキタは部屋まで歩く間じゅう何度も首を傾げた。




「おれ、人を殺したんだ」


 示された椅子に大人しく腰かけて。目の前の机にマグカップを置いたトキタに、ハルはぽつりと言った。


「うん?」


「村に盗賊の集団がやってきて」

「ふむ」

「グンジさんが……あの村でずっと世話んなってる人が、目の前で撃たれて」

「ふうむ」

「夢中で……気づいたら、その賊を鍬で殴り殺してた。この手で」


 両手を広げたらかすかに震えていて、ぎゅっとまた、膝の上で両の拳を握りしめた。


 トキタはハルの拳に視線をやって、

「それで、そのグンジさんは?」


「肩を撃たれたけど、もう起きて動けるくらいにはなったよ」

「そうか」

「それから、グンジさんやみんなから、ものすごく感謝されるんだ。村の恩人だって。よくやったって、褒められて」

「ふむ」


「それが、なんか耐えらんなくて」


(なんでおれ、こいつにこんなこと話してんだろう)


 言いながら自分でも、おかしいなと思う。けれど、だれかに聞いてほしくて、そうして、


「あんただったら、おれをちゃんと責めてくれるか?」


 上目遣いにトキタを見る。

 それは、賊を殺した人間を賞賛するこの世界の人たちではなくて。同じ倫理観を持った時代の人間で。

 何かにすがりたい気持ちで――。


 けれど。


「責めるだって? 私が?」

 トキタは大仰に目を丸くした。

「きみは、私がいったい何万人殺したと思っているんだ」


「は? 万……? 二千人じゃないの?」

 眉を顰めたハルに、トキタは苦い顔になった。


「シェルターは新宿だけじゃないよ。私が眠りにつく前の計画では、全国に八か所。実際にはもっと多いかもしれないし、少ないかもしれない。それに人数もまちまちだと思うが、まあ計画通りなら万単位だろうな」


「みんな死んだのか?」


「ほかのシェルターは確認してないが、ここで判断できる範囲では、どこも似たり寄ったりだろうなあ」


 嘆息交じりに、仕方なさそうな微妙な笑顔を作るトキタ。


「そんな大罪人の私に、きみを責められると思うかね?」


「……そうだ」

 また拳を握りしめて、ハルは呼吸を震わす。

「あんたはおれの友達を全員殺したとんでもない悪人だ。しかも自分の手を汚さずに……卑怯者。悪党。人殺し。悪魔。殺人鬼。なにか言え」


「きみが正しすぎて、何も言い返せない」


 腰に両手を当てて、トキタは小さく肩をすくめた。


「だがその卑怯者の大悪党が推測するに……」


 言いながらトキタは、ハルの座る椅子の横にあった本の山にもう数冊の本を積んで、そこに腰かけた。


「辛かったな、きみは」


 そう言って、トキタはハルの背中に手を置いた。

 ハルはその手を「触るな」と振り払うことができずに。気づいたら、涙がこぼれていた。


 きっと、その言葉が欲しかったんだ。賞賛でも、感謝でもなく。ただ、褒められてはいけないハルの気持ちをだれかに分かって欲しかったのだ。


(くそッ、こんなヤツに……おれ本当に、どうかしてる)


 だけどきっとその言葉をくれるのは、もうこの世界にはこの男しかいないのだ。

 こいつの前で、また泣いたりしたくないのに。そう思うのに、涙は止まらなかった。


「手が……」

 膝に載せていた拳を解いて、ハルはその両手のひらを見つめる。

「あの時の感触を忘れないんだ」


 鍬の柄を通して伝わってきた、人の頭の割れる感触。

 嗚咽を漏らしながら、


「それから……ピアノが弾けない」


 声が震えた。

 あれから何日も、ハルはピアノの前に座り続けていた。その鍵盤に。体の一部だとさえも思えていたそれに、触れることもできないで。


「おれが触ったら……ピアノが汚れてしまう」


 ぐずり、と鼻をすすって。ぽろぽろと、涙が落ちる。

 目の前にある鍵盤に手を触れられずにいるのは、体を切り裂かれるように痛かった。


 気づけばトキタが、ゆっくりと背中をさすっていた。やはりその手を払うことはできずに、ハルは宙を見つめたまま、しゃくり上げる。


「おれっ、あんたの、こと殺すっ、て、言ってんのに、盗賊一人殺したくらいで、こんな……なんて……笑うなよ」

「笑わないよ」

「あんたの時は、ちゃんとやる」


「……そうかい」


 ハルの背中をさすりながら、トキタは口を曲げた。


 しばらくの間、そうしていて。

 トキタはハルの背中から手を外し、正面から向かい合った。


「こんな卑怯者の大悪党の意見で良かったら、聞いてくれるかい」


 腕で顔を拭って、ハルは視線を上げる。


「もしもきみがそこでその盗賊を殺さずに、グンジさんや村の人たちが殺されていたら――」

 トキタは切なげなまなざしで。

「きみはもっと後悔してた。もう取り返しのつかないくらいに、自分を許せなくなっていただろう」


 わずかに身を屈めて、うつむいたハルの顔を覗き込むようにして。

「きみは逃げずに戦った。そうしてきみが守ったものは、村とグンジさんだけじゃない。大事なピアノと、ピアノを弾き続けるきみ自身だ。それを、きみのピアノは理解してくれるし、許すと思うよ」


 ほろりとまた涙が頬を伝う。

「けど……やっぱり、あいつを汚したくない」


「汚くなんかないよ、きみの手は」

 静かにそう言って、トキタはハルの拳を片方の手で包み込む。

「大事なものを守った、強い手だ」


 それでも涙の止まらないハルをしばし見つめて、


「ふうむ……」

 唸りながら、トキタは机の上に手を伸ばした。


「もしももうピアノを弾かないんだったら」


 その手に、一冊の。


「これは必要なかっただろうか」


 もう一度、手で涙を拭ってトキタが手に取ったモノに目をやって、

「……あっ」

 それがなんなのか分かった瞬間、ハルは目を見開いていた。


「ドビュッシー!」


 考える間もなく飛びつくようにそれに手を伸ばし、トキタの手からひったくる勢いで奪っていた。


「ああああああ――!」

 もう半年以上も目に触れてないそれ――ピアノの楽譜を手にして、震えていた。泣き腫らした目を腕でごしごしとこすって。


「夢、アラベスク、月の光、ゴリウォーグ、亜麻色の……、あああああ……」


「ようやっとのことで一冊見つけたんだよ、都市のライブラリーでね。まだあると思うんだが、なかなかなあ。もう少し探してみるよ」


 苦笑するような声が耳に入って、はっとする。


「……あんたやっぱり、汚ねえ」

「うん?」

「楽譜をもらったからってあんたに協力はしないし、あんたを殺すのもやめない」

「分かってるよ」

「……もらえるのか、これ?」


「ああ。私が持っていても仕方ないからな。持っていけ」


 大きく頷くトキタ。

「きみは、ピアノを弾き続けろ」


 もう一度手で顔をごしごし拭うと、両手で楽譜を持って、ハルはページを繰る。

 ドビュッシーならメジャーな曲は暗譜しているけれど、長らく弾いていない曲も多かったから。細かいところが確認できればもっと弾き込めそうだ。

 全部の教科をトータルしても、教科書よりも見ている時間が長かった、五線譜。ああそうそう、この感じ。

 楽譜だ――!


 「子供の領分」か。ルウに弾いてやろう。あいつは子供だからちょうどいい。「ゴリウォーグのケークウォーク」なんか、好きそうじゃないか? こういう踊りだす感じの曲。


 そんなことを考えていると、


「しかし――安心したよ」


 トキタのほっとした声に、目を上げた。


「……は?」

「きみが思ったよりも、人の心を保っていてくれて、な。以前、都市の子供たちに犠牲を出しても構わないときみが言った時は、私は大変なことをしてしまったと思ったもんだ……」


「いや、あれは」

 ハルは気まずくなって、目を逸らす。

「自分でも、さすがに……いや、っていうか大変なことをしたんだよ実際っ、あんたはっ」


「すまん。だが、きみを外に放り出したのは、失敗ではなかった」

「はあ? ほんとはあんた、おれのこと殺す気だったんじゃないの?」


 あの時のことを思えば、ハルは外に出た瞬間に命を落とさなかったことのほうが奇跡だ。

 が、トキタは視線を斜め下にやって、大きく息を吐きだした。


「酷なことをしていると思うよ。本当にすまなかったが、この都市の中にいてもやはり……いや、この都市の中にいたら、死ぬよりももっと悪いことになっていたかもしれない」


(死ぬよりも、悪いこと?)


 楽譜の表紙に目をやって、ハルは少し考える。


「あんたさ……」

「ん?」

「分かんないんだけど」

「……ん?」


「あんたが都市の子供たちや自分の息子をこの都市から出して、行かせようとしてんのはさ、十五歳の子供が盗賊を殴り殺して、『よくやった』って褒められるような世界だぞ?」


 隣に座っているトキタに視線を戻して、


「ここの都市の中の暮らしがどんなだか知らないけど、本当に外のほうがいいのか?」


 向かい合って。トキタが何を考えているのかは、その表情からは読み取れなった。


「村の人たちや親は子供に帰ってきて欲しいって思ってるよ、たしかに。だからさ、村の人たち見てるとおれも、子供ら取り返したほうがいいのかなって思わなくはないんだけど……けど、子供らは村のこと覚えてないんだろ? 帰るのが本当にいいのか? この都市の中にいて、なんの問題があるの?」


 トキタはしばし言葉を探すように沈黙し、それから壁に掛けられた時計を一瞥して、


「ハル、『表』に行ってみないか? きみに見せたいんだ」


 わずかに身を乗り出して、聞く。


「表って? シェルターの外?」

「いや。都市の中の、子供たちが生活している場所だよ」

「えっ、行けるの?」

「ああ。今ならちょうど学校が終わったころだ。『街』に子供たちがたくさんいるから、きみは上手く紛れ込めるだろう」

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