第12話 再会

(……こんなもんかな)


 工具を右手に持ったまま、左手を鍵盤の上に広げていくつかの音を鳴らし、それから和音を鳴らして、ハルは内心で頷く。


「ふう」ようやく納得したら、ため息が漏れた。


(やっとおまえ、ちゃんと自分の音を思い出したな)

 鍵盤を押さえながら、話しかける。

 心残りは――。ランタンが全力を振り絞ってようやく薄暗く照らしているだけの、部屋の内部を眺めながら。


 もうちょっと、マシなところに持っていってやりたいんだけどな――。

 砂漠の気候。日中は乾燥しているけれど、ここはやはり日本であり、雨の季節もあるし湿気もなくなったわけではない。

 こんな穴ぼこだらけの地下室で大丈夫なのかと心配にはなるが、それでもこの場所で数百年持ったのだから、この楽器にとって悪い環境ではないのだろうか。


(ま、おかげで思う存分弾けたけどな)


 地下だけに、外に音が漏れ出してもだれかの安眠を妨害するほどの騒音問題にはならず、夜じゅう弾き続けることができた。


「ふうん、前と全然べつの音になったね」


 いつの間にか――たぶん、だいぶ前から、部屋のコンクリートの床に座り込んでルウがその作業を眺めていた。


「これがこいつの、ホントの音だよ」

 工具を置いて両手で適当に和音を鳴らしながら、ハルは赤毛の少女に答えた。

「長い間、忘れてたみたいだけどな」


 調律の技術なんかハルにはないし、器具だってもちろん専用のものがあるわけではない。それでもピアノの調律は、毎回なんだかワクワクしながらその作業を眺めていたから。どこを触ると音がどうなるのか、多少は心当たりがあって。

 見よう見まねの作業と有り合わせの器具で、何か月もかけて少しずつ調整し、プロの調律士には及ばないものの、どうにかようやく正確かつ好みの音に近づいたところだった。


 もうちょっとやりたいところではあるが、今のハルにはちょっと無理そうだ。まあこれはこれで、悪くはない。


「ほんとかほんとじゃないかは、分かんないけど」

 地面に座り込んで膝に頬杖をついて、ルウは首を傾げる。

「だけど、いい音だね。生き返ったみたいだ」


「だろ?」


 椅子に座ってさらにいくつか音を鳴らして、簡単なメロディを奏でて。

 そこで、ふと気づく。

 頬杖をついた体勢のまま、ルウが真剣なまなざしでじっとこちらを見つめていることに。


「……なに?」

「いや……なんでもないけど……仲が良いなって。そのピアノと」

「……は?」


 ルウは、頬杖のままそっぽを向いた。


 まあ、いいや。今夜は一晩中、このピアノと一緒だ。

 音を鳴らしながら、少し考える。


「ルウ」

 斜め下、向こうの方を向いている少女に、鍵盤を叩きながら声を掛ける。


「なに」

「たまにこれ、弾いてやってよ」

「はあ?」

「時々弾かないと、こいつ自分がピアノだってこと忘れちゃうみたいなんだ」

「ハルが弾けばいいじゃないか」

「あぁ……おれがいない日とかにさ」


「はあ?」

 不可解そうに――あるいは不満そうに、ルウは思いっきり首を傾げた。

「なんで、そんなこと言うの?」


「……さあ……」


 ルウには文字なんかじゃなくて、ピアノの弾き方を教えれば良かっただろうか。

 それとも調律? ちゃんとこいつが「言葉」を忘れないように――でも、あの子はすぐに飽きてしまうから……仕方ないか。

 知らない間に、弾きだしていた。


 今夜はずっと一緒だ。


「ねえ、まだ弾くの?」

「ああ。おれは当分ここにいるからさ、上に戻って寝な」

「あのさあっ……、もう夜はここじゃ寒いよ。ちゃんと部屋に行って寝なよ」


 ここのところ、夜中遅く、あるいは夜明けまでピアノを弾き続けて、そのままこの床に寝ている日が続いていた。残された時間を、少しでも長くその鍵盤に触れていたくて。


「うん、分かったよ」


 答えながら、もう何を話していたかなんて、そっちのけだ。鍵盤の上を、手が動く。端から端までの音を、確かめるように。

 そうして、ひと通りウォーミングアップがてらいくつかの曲を奏でて。


 一呼吸置いて。

 ピアノと、正面から向かい合う。

(準備はいいだろ?)

 最後になるかもしれない。

(やろう、一緒に)


 大きく息を吸い込んで、鍵盤に両手を載せる。最初の音を鳴らす左手が、ほんの少し緊張していた。

 ピアノ協奏曲第二番。

 徐々にクレッシェンドしていく、和音。それは教会の、鐘の音。

 オーケストラの音が、遠くから耳に聞こえていた。


 ――きみと毎年一緒に演奏ができたら楽しいだろうなあ。

 ――これからもっと手が大きくなるし背も伸びるだろう?


 少し、変わったかな。

 あんまり頑張らなくても、序盤の和音に手が届くようになったんだ。ちょっと背も伸びたような気がするけれど……。


 ああ、ここ。

 細かい音符が、うろ覚えなんだよな……。


 指もやっぱりあんまり動かない。

 こんなみっともない演奏、あの人たちの前ではとてもできないな。がっかりさせてしまう。


 記憶の中にある、オーケストラに載せて。弾く――。






 その日の昼間、ハルは馬を駆って砂漠を西に向かった。


 砂の大地は馬にとっても決して走りやすいものではないようで。それでもそこはヤマトの村から遠いところではなくて、一、二時間も走ると目的の場所についた。


 いや――そこが本当に目的の場所なのかどうか、定かではない。

 この数ヶ月間で集めた知識を総動員して、ようやく「こっちの方向で、このくらいの距離ではないか」と狙いをつけた場所。

 ここが正解だという決め手になるものは、何もなかった。


 そう、本当に、何もなかった。

 目の前には、ただ砂の大地が広がっていただけで。


(そりゃ、そうだよな……)


 巨大なビル群がぼろぼろに崩れた廃墟となってしまっているのだ。一戸建ての家が並ぶ閑静な住宅地なんか、紙切れのように薙ぎ払われてしまったに違いない。


 たぶんこのあたりが、かつてシンドウ・チハルが父と母と暮らす家があった場所ではないか――と。


 大体の距離と方角だけで検討をつけて馬を駆って来てみたけれど、見渡す限りは起伏を持った砂の荒野。遠くに崩れかかった建物群が見える。あのあたりが線路と駅か――。


 馬の上でごしごしと顔をこすって、それから軽く馬の腹を蹴ってまたしばらく進んでみる。

 南に向いた緩やかな坂を下った。




 弦楽器の音が、滑り出す。


 そこに被さって次第に浮き上がっていく、ピアノのソロ。

 ああ、やっぱりもう少し、手が大きかったらなあ……。あと一、二年後なら……。


 ――これからもっと手が大きくなるし背も伸びるだろう?


 ここだ、第三楽章の、

 オーケストラに耳をすまして……。




 傾斜の途中に一箇所だけきちんと整えられた低い石の壁があるのを見つけて、近寄って馬を降りる。

 水が湧き出して、小さな泉を作っていた。ちょろちょろと流れ出るその水に触れると、ひんやりとした感覚に目が覚めた。口元まで覆っていた砂除けのマフラーを下げマントのフードを取って、顔を洗って砂を落とした。


 ここは商売で砂漠を通る人々のオアシスなのだろう。

 一面が砂に覆われたこの時代の日本でも、完全に気候が変わってしまったわけではなく水に不自由することはないらしい。この砂は、元は土やコンクリートやそんなものだったのが、大昔に太陽よりも強い光を浴びて年月をかけて砂に変わり、さらに砂が風に乗って吹き付け積もったものなのだと村の老人が言っていた。

 人々は枯れていない水場の近くに村を形成して暮らしている。村の外には雨季の後の数ヶ月や大雨の降った直後しか湧かない泉もあって、オアシスとして守られていはいるが人が住み着き村を作れる場所ではない、と――。


(人が住める場所じゃない、か)


 そこにかつては空白の余地もないくらいに人の営みが密集していて、その中に自分と家族がいたはずだった。

 この砂の下に、その生活の一欠けらくらいは埋もれているのではないかと思った。


(あのピアノは、どうしたかな)

 目を閉じると、あのピアノとメトロノームの音が聞こえてくるようだった。




 音が、滑り落ちていく。流れる。

 力をこめて。


 きらめく。




(だれが、こんな風にしちゃったんだろうな)


 泉を囲う石積みに腰を下ろして、少しの間、そこにたたずんでいた。

 あとひと月もすれば、冬になるという。朝や夜の風はかなり冷たくなっているが、日中の日差しは相変わらず強烈だった。




 キラキラとした、音符。

 重厚な弦楽の低音に載せて――。




 どこで、その時間が途切れたのだろう。

 シンドウ・チハルがいなくなってからも、きっとこの町は、もう少しの間は存在していたのだろ?

 父と、母は、いたんだろう、そこに。息子のいない食卓を二人で囲んで?




 次第に上昇していく、音。




(――だれが、こんな風にしたのか)


 もう分からないけれど。


『きみの友達を死なせたのも、きみを眠らせまた起こしたのも。きみをこの理不尽で過酷な境遇に追いやっているのは、私だ』


 こんな風にしたヤツを、


(――殺してやる)


 あいつを、殺せばいいだろう?

 両腕に。その指に。音を載せて、旋律を奏でながら。に、ハルは問いかけていた。


 そうしてあとは、この夢を終わりにすれば。


 おしまい、だ。






 廃墟の手前で馬を止めて建物の陰に繋ぎ、背中に負っていた小銃を馬具に取り付けられたケースにしまう。ツルミの男たちの言っていた通り、見渡す限りにあの哨戒ロボットはいなかった。

 なんの妨害もなくスムーズに地下道の入り口に着くと、長い階段を下り、地下通路を伝って東へ向かう。

 あの夜に一度通ったはずだったが、この場所のことはほとんど記憶にない。かすかな照明。コンクリートの壁はところどころ剥がれている。しっけたにおい。かび臭い。小さく水滴の落ちる音。


 足音が、狭く薄暗い通路に小さく反響する。


 進んでいくと次第にわずかではあるが、照明が明るくなっていき、ホールのような広い空間が前方に見えたところで――。

 突き当りに、人影。


 最初うずくまっているように見えたその影が、ゆっくりと立ち上がる。


 ホールの入り口まで足を踏み入れた時。

 彼の両目が大きく見開かれたのが分かった。


(トキタ――)


 彼は、震えるような足取りで、一歩、二歩とこちらに歩み寄る。両腕を広げて。


「おおぉ……よく……戻ってきた。シンドウ・チハル」


 彼との距離があと数歩まで迫った時、ハルは足を止め、マントに隠れていた腰のホルスターから拳銃を抜き彼に向けた。


「来たよ。あんたを殺しに」

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