2 お腹の傷跡 #55

 気がつくと頬に規則的な風を感じる。窓を開けた覚えがないので不自然に思い目を覚ます。すると華雲が真横で寝息を私の頬に当てながら寝ている。まるで小さな子猫がすぐ隣で寝ているような、柔らかくてげな寝顔だった。


「うーん、おはようって、え? あずちゃんいつの間にあたしのよこで寝ていたの? もしかしてあたしに気があるのー?」


「それはこっちの台詞。朝ご飯用意するから手伝って頂戴」


 昨晩の証人がいないのが悔しいところ。悠喜菜に説明してもきっと分かってはくれないだろう。


「おはよう……」


 目をこすりながらリビングへ悠喜菜がやって来た。


「相変わらずゆきなちゃんの目つきがコワイよ!」


 確かに子どもが安易に直視したらその眼力でトラウマが残りそう。

「まだ顔洗ってなんだ、勘弁してくれ」


 かなり不機嫌そうな表情、そう見えるだけで実際はまだ眠いのかも……。だらしなくヨレたパジャマがより一層凶相さをかき立てている。そんな悠喜菜は洗面所の方へと歩いて行った。


 私は冷蔵庫から、卵とパンとバター、ポテトサラダを取り出す。


「さすが地上五八階からの目覚めは、ひと味もふた味も違うな。その気圧が違うからか」


「あずちゃんのへやは日当たりがいいから起きやすかった」


 あれ? 私が起こしたはずなんだけれども……。


「さぁ今日も勉強三昧といこうか。とりあえず午前中は国語と航空気象だな」


「うーー」


 食パンを頬張りながら華雲は不機嫌そうに喉を唸らせるが、同時に午前中を乗り切る自信がなさそうにも聞こえる。私も正直不安。本当に集中が持続出来るだろうかと……。


 朝食をすませると、早速勉強道具が広がったままのテーブルに向かう。


「昨日も思ったけど、食べた後によく集中できるね、ゆきなちゃん」


「テストまでまだ三日。だけどそれが前日だったらこんなに余裕は無いでしょ」


「つまり?」


「極限まで自分を追い込むことが大事ってことだな」


「うーん、そんな状況を考えられるなら、苦労しないよ」



 そんな心配もなく時間が流れ、気がつくとあっという間に夕方になっていた。休憩も昼食とおやつを挟んだだけで、それ以外ひたすら手と頭を働かせる。私自身もこんなに集中できたことに感心した。やっぱり一人だけではこんなに集中したこともないし出来ないだろう。きっと仕事をするようになっても、この連帯感があるから強大な生産性が生まれるのだろうか?


「華雲、丸付けをしようと左手にペンを持つのは分かるが、それ赤ペンじゃなくて緑ペンだぞ」


 悠喜菜の言うとおり、参考書の丸付けをしようと赤ペンではなく緑ペンを取った。ひょっとすると、あえて色分けをしているのではないのかと思った。ただ元々緑中心の参考書へわざわざ目立たない色を使うだろうか……。とにかく人のやり方を兎や角言うのはやめておこう。


「あーごめん、ごめん。ついうっかりしちゃってた」


「ほらー知らないうちに夜更かししているんじゃないのか?」


「えへへ、そうかもねー」


 悠喜菜はポキポキと軽い音を鳴らしてから肩を回しはじめた。


「でも流石にぶっ通しだと疲れるよな」


「一旦休憩しようよ、お風呂も沸いたし二人とも先入って良いよ」


「家主が先じゃないと示しがつかない」


「そうだよ! あずちゃん先に入ってきなよ」


「わ、分かったわ」



 風呂に入ると私は毎回のように傷跡を確認する。腹部の左側を中心として、胸の下部から股まで広がる電紋のあと。手品のようにパッと消えないと分かっていても、手のひらでさすってしまう。心ばかりかゆっくりと消えているようにも思えるがまだまだ広範囲。


「あ・ず・は・ちゃん」


 突然華雲に風呂場の扉を開けられた。思わず浴室に干していた足拭き用のタオルで腹部を隠す。


「どうせ二人で入るなら、三人も変わらないでしょ?」


「どういう理屈なの?」


「背中ながしてあげるからさ、いいだろ?」


 実際窮屈ではあるものの、みんなで入れないわけでもない。元々家族層向けの物件だから風呂もそれなりに広いし、言っていることは無茶苦茶だけど納得させられるのも事実。でも私にはどうしても傷跡を知られたくなかった。


「えっと、……私はちょっと困るかなー」


 きっぱりと断ると気に障るのではないのかと思い、やわらかく抵抗した。


「どうしたんだよ、女同士遠慮することはないだろ」


 やがて身を引きながら両手であからさまにタオルを抑えてしまった。“絶対にやってはダメ”とか、おもむろに隠そうとすると、かえって相手の知識欲が増してしまう心理を失念してしまった。そして悠喜菜の手で隠していた傷が二人の前で露わになる。



『………………』



 ゆっくりと顔を上げ、悠喜菜の顔色を伺った。二人に何と声をかければいいのか喉をつまらせ、視線だけを無意味におよがせた。


「悪かった……。調子に乗りすぎた」


「気にしないで、ちゃんと打ち明けていなかった私も悪いし……」


 そう、私には二人に言い出せる勇気がなかった。こんなにも二人を信頼しているはずなのに……。


「二人にお願い、詮索や他言しない事を約束して欲しい。いつかちゃんと話すから今は……」


 私はいつものように約束をして貰う。でも今回ばかりはどうしても心が痛む。まるで二人に嘘をつき続けているような気分。


「無理はしなくてもいいよ、あたしはいつでも相談相手になるよ」


「ありがとう」


「えーっと、ところでゆきなちゃん、やっぱり腹筋割れているんだね」


「おい、触るなって」


「かたーい。さすがゆきなちゃん」


 空気を読んでとっさに、場の悪い空気を浄化してみせた華雲。その特技は例え偶然だとしても、本当にすごい。あっという間に元の穏やかさをとり戻したのだから。その後、何事もなかったように風呂を出た。



 風呂上がりに悠喜菜はベランダの柵に腕を乗せ、夜景を見ているようだった。華雲はチャンスとばかりにタブレットを取り出し私の寝室へ向かっていた。

 私も悠喜菜と一緒に涼もうと思いベランダへ出る。悠喜菜は大きく息を吸っては吐いていた。


「深呼吸しているの?」


「いや、私はまだまだだなって」


 語尾のあとに彼女は深くため息をついた。


「ごめん、秘密にするつもりはなかったの……なんて言えばいいのか、この先でもしかすると迷惑がかかると思って」


「私が愛寿羽たちに“迷惑”かけるのはいいのに、反対は——。人に信用されるって難しいな」


 焦って悠喜菜の気持ちをなだめようとしたのが裏目に出た。


「……いつかちゃんと話すから」


「……ああ、待つとするよ」


 それ以上言葉が浮かばず、沈黙が続いた。


「ま、とにかく明後日から早速テストだし勉強再開しよう」


「そ、そうだ数学で分からない部分あるから教えて」


「任せな」

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