珈琲は月の下で
久米坂律
PM 11:02
眠気覚ましにコーヒーを買いに行くことにした。
三度の飯より寝るのが好きな私は、本来ならこの時間は既に夢の中である。いや、さすがに夢の中は言い過ぎかもしれないが、少なくとも寝る準備には入っている。
それなのに、コーヒーを買いに行くことになったのには、ほんの小さな、しかし大きな事件を引き起こした勘違いが関係していた。
本日、10月16日は日曜日である。そして、明日17日は月曜日である。しかし、私は17日を火曜日だと思い込んでしまっていたのだ。
17日期限の課題が3つもあるが、火曜日まで2日あるし、全然間に合う。そう考えたのが、今朝の話。
そして、17日が明日だと気づいたのが、午後8時の話。
ものの見事にやらかした。
とにかく課題を始めたのだが、どうにも時間がかかるものばかりで、眠気に襲われた私は発狂しそうになった。
そのまま虎になれたならば、どれほど良かっただろう。しかし、私と李徴ではあまりに状況が違いすぎた。
虎になることが叶わなかった私は、大人しく近くのコンビニ・トキウマートにコーヒーを買いに行くことにしたのだ。
大学から歩いて5分ほどの位置にある下宿先を出る。
十月の夜長は思いの
安っぽく白い外灯が点滅する道を駆ける最中、ふと夜空を見上げる。ニュースでは、今日は満月だと言われていたが、灰色のどんよりとした雲に覆われているせいで、月は見えない。
確か山月記では、残月ではあるものの、月が空に架かっていたはずだ。
もう一度李徴との違いを突きつけられた私は、心の底に未練がましく持っていた虎になるという希望を、本格的に打ち捨てた。
そうこうしているうちに、コンビニに着いた。
目が眩むような人工的な白い光に迎え入れられた私は、真っ直ぐに飲み物の棚へと向かう。
店の中には、私以外の客はいないようだった。
大学を終えてからコンビニに行くと、高校生(ここから自転車で三十分ほどの位置に、高校がいくつかあるのだ)によく
無糖の小さな缶コーヒーを持って、唯一店員のいる左端のレジに向かう。
カウンターに缶コーヒーを置き、ポケットから小銭を入れたがま口を取り出そうとしていると、ふいに声が降ってきた。
「あれ、高橋?」
「え? あ。……
そこには、高校の同級生である立石がいた。
立石
高校二年生の時に、偶然同じクラスになった同級生。確か、古文の授業で辞書を忘れた立石に、辞書を貸したのがきっかけでそこそこ喋るようになった。と思う。
立石は、私にじとりとした眼差しを向ける。
「絶対俺のこと忘れてたよな」
「違う違う。結構見た目変わってたし、ここでバイトしてるなんて知らなかったからだって」
弁明の甲斐もなく、未だその目からは疑いが消えていない。
しかし、人をちゃんと覚えないことで有名な私だが、これは本当だ。実際、立石は髪を茶色に染めていたし、心なしか身長も伸びたように見える。
ここの店でバイトをしているということは、大学は私と同じなのかもしれない。
ふてくされたように「まあ、いいけど」と呟いた立石は、軽く訊いてきた。
「懐かしいなー。何年ぶり?」
「二年ぶり、ぐらい? 同じクラスだったのって、高二の時で合ってるよね?」
「おう」
立石はやけに嬉しそうに笑った。
それから、コーヒーの会計を済ませ、青いテープが貼られた缶を受け取ろうとすると、ほんの一瞬、立石が顔をしかめた。
「え、何」
「あー、いやさ」
立石は目を虚空に向けながら、わざとらしく少し頭を掻くと、「これなんだけど」と言いながら、何かをカウンターの上に出した。
白くてつるつるした細長い紙。レシートのようだ。それの裏面が、私の前に提示される。
そこには、
珈琲
は月の下で
と、黒のボールペンで雑に書かれていた。
「何これ」
「レジの前に落ちてた。多分、お客さんが財布開いた時に落としたんだと思う。……気になんねえ? これ」
問われ、私は曖昧に頷く。
「まあ、うん。何言いたいのか、よく分かんないよね」
「だからさー、ずっと考えてたんだけど、分かんなくて。高橋、何か分かんない? 確か、国語得意だったよな」
「それ関係ある?」
「ていうか、この際何でもいいから、この文に納得いく理屈が欲しいんだよ。ずっともやもやしてたくない。早くすっきりしたい」
カウンターに拳を軽くぶつける立石は、仔犬のような目で私を見た。
「高橋も一緒に考えてくんない?」
「バイト中に喋ってて、怒られない?」
「あー、まあ、大丈夫だろ」
「ほんとに?」
どうも怪しい。じとりと疑う目を向けると、立石はぶんぶんと右手を振った。
「奥にサボりとかに厳しい先輩いるけど、バイトの時以外はずっと
「へえ」
「いやー、もう、まじで久世さん、その先輩の名前なんだけど、惚気が酷くて酷くて。
二ヶ月ぐらい前かな。彼氏が誕生日に、駅前の和菓子屋でお菓子買って、祝ってくれたらしくてさー」
「あー、駅前の和菓子屋さん。花なんちゃらみたいな名前の」
花なんちゃら(店の名前が長すぎて、私は覚えられていない)は、若い女性に人気のある和菓子屋だ。何でも、和菓子なのにチョコレートなどの洋菓子の素材を使っているそうで、和菓子が苦手な人でも食べやすいのだという。
加えて、店内は明治時代をイメージしたレトロな雰囲気で、
そんな人気店のお菓子で誕生日を祝われるとは、随分彼氏さんに愛されているのだろう。
立石はうんうんと頷く。
「そうそう。正式名称は……『
高橋も、あの店に興味あんの?」
「んー……どちらかと言えば、そんなに?」
味が美味しいそうなので多少興味は惹かれるものの、店自体にあまり興味はない。正直、店名も長すぎて覚えられないし、友達から話を聞くだけで充分だ。
ついこの間も、二人の友達から「紅茶大福と紅茶最中が美味しかった」だの「珈琲羊羹と珈琲どら焼きがやばかった」だの「イートインスペースがレトロで映える」だの散々聞かされて、むしろお腹いっぱいである。
私の反応に軽く笑ってから立石は続ける。
「で、その時の話を、もう40分ぐらい延々と聞かされたんだよ。ってわけで、彼氏のことで話を逸らせば怒られはしない」
「でも、そっから惚気の40分コースじゃないの?」
「……」
そこで黙らないで欲しかった。
「まー、とにかく!」と立石がカウンターに手を付く。
「どうせ怒られんの俺だからさ、ちょっと知恵貸して?」
斯くして、私達は夜のコンビニでレシートと向き合うこととなった。
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