アンコントローラブル!
コバヤシ
アンコントローラブル!
ABC航空172便に異変が起こったのは、長崎空港を出発して15分後、高度2万2000フィートに達した頃だった。
二年目のCA(キャビンアテンダント)小橋美和は、ベテランCA若尾聡子と共にギャレーでドリンクサービスの準備をしていた。
長崎空港から名古屋中部空港というマイナーな便ながら、夏休みということもあり座席は8割方埋まっていた。しかも、飛行時間が一時間半程度と短く、ドリンクサービスなどを手際よくやらなくてはならない。
美和が、コーヒーポットを保温庫から取り出しカートにセットしていると、ドンッという衝撃音が最後尾の方から聞こえた。
かなり大きな音で、多くの乗客も後ろを振り向いた。
「なんの音でしょう」
と若い美和は不安気に聡子を見る。
「荷物が転がったのかもしれないわね」
ベテランの聡子は笑顔を見せる。
それは暗に不安な顔をしないように、という指示でもあった。
美和は慌てて表情に笑顔を作る。
「見てきましょうか?」と美和が言うと、
「そうね、カーゴルームを見てきてくれる?」
と聡子は、美和に微笑む。
聡子は機内電話を取り、パイロットと話を始める。
「キャプテン、今、後方で大きな物音が発生しましたが、何か異常はありましたか」
美和は、その様子を耳にしながら、(やっぱり、若尾さんは落ち着いているなあ)と思った。
若尾聡子は、ABC航空でも最年長のベテランアテンダントだった。
かつて女性CAが"スチュワーデス"と呼ばれていた頃は結婚すると退職するもの、というのが常識だったが、ここ十年で随分と変化した。
子育てしながらCAを続ける女性も増えてきた。会社もそういう女性を支援する体制を整えている。とは言うものの、孫がいるCAは聡子のほかにいない。
先月、生まれたばかり初孫を携帯の待ち受け画面にして、美和に見せては「可愛いでしょう」と相好を崩している。
乗客のクレームや航空機で起こる数々のトラブルにも全く慌てることがなく、いつもにこやかに対応する。
ようやく"新人"という肩書きが取れたばかりの美和は、何が起こってもとりあえずはアタフタするというのが常だからその落ち着きぶりには本当に尊敬の念を抱いている。
美和は、手近なタオルで手を拭いてから、後方にゆっくりと歩みはじめる。数歩、歩いたところでワーンという音が機内を突き抜け、突然の無重力に襲われた。
ふわり、と自分の体が浮き始めたのを理解した。
(あ、まずい)
美和は、機内の雑誌や新聞がふわりと浮いているのを見た。
全てがスローモーションに見えた。
女性の悲鳴が耳を突き抜ける。
それを最後に音が消えた。
(何か掴むものを)
しかし、機内の通路には何もない。(だめだ)と思った瞬間、後頭部と肩に激痛が走った。天井に激突していた。
意識が飛んだ。急激に重力が戻る。美和はバランスを崩しながら落下する。乗客のシートに体をぶつけて、バウンドしてから床に叩きつけられた。頭部と肩、わき腹、さらには背中全体を強打した。
「ううん」
と唸っている自分の声で気が付いた。
床の上でうずくまっている自分に驚いた。いつ、この体勢になったのだろうか。痛いよりも何よりも、息が出来なかった。
息をしようとしても「ああ」と小さく呻くことしか出来ない。
呼吸の仕方を体が忘れてしまったようだ。
音が戻った。悲鳴と怒号が交錯している。酸素マスクが降りて来る。
急激な高度変化があった証左である。
機内にはサービスの飲み物や新聞、雑誌、携帯電話や背広などが散乱している。女性の悲鳴、男性の怒号、子供の泣き声、そうした音が機内にあふれかえっていた。機内は、危険水域に達するパニックに陥っていた。美和は、(なんとかしなければ)と思うものの、息が出来ず声など出る筈もない。そもそも考えがまとまらない。かろうじて何かしなくては、と思っているのだけは確かだった。
多分、美和の意識は後頭部を強打したことにより、混濁していたのだろう。何とか呼吸できるようになった頃、スピーカーからサーという雑音が聞こえた。
「機長です。皆さん、落ち着いてください」
とパイロットの清水の声が響く。
その声は落ち着いていた。
ゆったりとした、低すぎない低音。
キャビン内のパニックが沈静化するのが分かる。
「先ほど、大きな物音がしたかと思いますが、飛行機の機能に障害が起きています。原因は不明ですが、すぐに墜落するようなものでもありません。酸素マスクも不要です。ただ、安定飛行が難しい状況ですので、皆様、シートベルトをきちんと締めて下さい。小さいお子様連れのお客様は、お子様をシートベルトにしっかりと固定してください。急な乱高下が発生する可能性があります。飛行機は、近くの飛行場に緊急着陸しますので、アテンダントの指示に従って行動してください」
そのアナウンスは、乗客を落ち着かせた。
決して楽観的な言葉ではなかったが、パイロットに信頼感を抱かせるものだった。
パニックが去り、ざわざわとしたさざ波のような空気がキャビンを満たした。
美和は、よろよろと立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
という声がしたので、その方向を見ると中年のビジネスマンが心配そうに美和を見ていた。
体のあちこちは痛んだが、とにかく折れたような部分もなさそうで、美和は歪めた顔をなんとか整えて、
「大丈夫です。ありがとうございます」
と痛みを悟られないように短く答えた。
機体は、がたがたという断続的な揺れが続いている。
(早くシートに着かないと)
美和が自分のシートに戻ろうと振り向いた瞬間、
「キャー」という女性の悲鳴が響いた。
その方向を見やると、年配の女性がギャレーの方を指差している。
美和も、その指差している方向を見る。
「あっ!」
美和は、驚いて立ち尽くした。
体が動かなくなってしまった。
その視線の先には、配膳用のカートが横たわっている。
そのカートの下に、女性がうつぶせに倒れている。
聡子だった。
聡子はピクリともしない。
ツゥーと聡子の頭部から血液が流れ出ていた。
機長の清水は、計器のチェックを続けていた。
「尾翼、アンコントローラブル!」
操作系をチェックしているコ・パイロット(副機長)の安部が上ずった声で読み上げる。
「うん。うん」
清水は、視線を計器から外さずに返事をする。
「水平翼、主翼ともアンコントローラブル……。機長、完全にアンコントローラブルです!」
安部が怒鳴るように叫んだ。
「分かった。オイルプレッシャーが死んでいるようだ」
清水は、あくまでも冷静に答える。
「どうしましょう、機長!」
経験したことのない重大なトラブルに、顔を赤らめた安部は訴えるように問う。
「安部君」
「はいっ!」
「やれることから、やろう」
清水は右後方の安部の顔を見て、柔らかく微笑んだ。
航空機は、ローリング社製の最新機種だった。
機体はカーボンファイバークロスという新素材を使い、従来機種比20%の軽量化に成功している。
この軽量化により、大幅に燃費が向上したことをローリング社はセールストークにしている。ABC航空がこの新型機の導入を決めたのは、数年前の原油高が直接の引き金になっている。
座席数は78席。地方間を飛ぶ、あまり需要のない区間を担う。
こうした区間は国土交通省の指導もあり、赤字だからと言って廃止できるわけではないから如何に経費を落とすかが重要である。
もともとローリング社のカタログ値は103席である。
ところが103席だと三人のキャビンアテンダントが義務付けられている。航空法では、50人に一人の割合で客室乗務員を配備するように制定されている。
そこでABC航空は、スーパーVIPシートというカテゴリを造り、大きく余裕のあるシートを機首付近に設けた。この結果、乗客シートを78席に抑え、客室乗務員の数を節約できることになる。
この機体の導入には、専門家から異論もあった。
とにかく、新しい機械というのは壊れやすい。
それは洗濯機も飛行機も同じだ。
様々な人に様々な使われ方をして、いろいろ起きる故障をフィードバックして製品は良くなる。ただ、洗濯機が壊れても家が水浸しになるくらいだが、飛行機の場合は人命が多く失われるから、そこには厳しい規制と基準がある。
しかし、どんなに厳しいテストをしても、本当に毎日たくさんの人を乗せて運行する実運用には敵うはずもない。
もう一つ、深刻な問題がある。
整備スタッフが新しい技術に追いつかない。
特に最近の航空機はハイテク化が進み、旧来の航空機とは全く違う仕組みを持つ。
こうしたスタッフを安定的に配置しなければ、飛行機は飛ばない。
世界の多くの航空会社は、新機種の導入には慎重にならざるを得ない。今回のABC航空新機種導入には、経済効率を優先し安全を軽視しているとの批判も多かった。
「若尾さん!」
我に返った美和は、叫んだ。その時、ガクンと大きく機体が揺れた。
聡子に向かっていた美和は、その揺れでよろけてシートに腰をぶつけて転んでしまった。揺れは断続的に続く。
美和は歩くことを諦めて、這うように聡子に近づく。
「若尾さん!」
美和は、聡子にのしかかっているカートを力いっぱいどける。
カートは、ギャレーに転がった。ギャレーはコーヒーやジュースがこぼれて、びしょびしょになっていた。
聡子はピクリともしない。
美和は、うつぶせになっている聡子を仰向けにする。
聡子の目は、焦点を失い、白眼になっていた。
おびただしい鼻血と、血液の混じった泡を吹いている。
「若尾さん!」
冷静さを失った美和は、聡子の体をゆすって意識を呼び戻そうとする。CAは様々な事故に対応するために、救命法などもみっちりと学ぶ。しかしその時の美和にはそうした「習った知識」は全て吹き飛んでいた。ゴボッと不気味な音を立てて、聡子が吐瀉した。
「ああっ」
美和は短い悲鳴を上げる。
血の混じった嘔吐物は、聡子の口をふさぐ。パニックに陥った美和は、聡子の口から必死に指で嘔吐物をかき出す。
「ま、待て!」
大きな声が響いた。
声の方向を見ると、若い男性がヨロヨロとシートを伝いながら通路を歩いてくる。
「危険です! お座り下さい!」
と美和は叫ぶ。
「だ、ダメだ! そんなやり方じゃ!」
「えっ」
若い男性は、飛び込むように美和の傍に滑り込んだ。
「貸して!」
と、若い男性は美和の腕の中の聡子を素早く抱くと、横に寝かせて背中を何度か叩いた。聡子の口から嘔吐物がドロッと吐き出される。
「お客様、危険です! お席へ!」
「いいから。僕は警察官だ。こういう時はお客さんじゃない」
若い警察官は聡子を仰向けに寝かせ、胸に耳を押し当てる。
「いかん、やっぱり呼吸が止まっている」
「ええっ!」
美和は目を大きく見開いて、両手で口を押さえた。
若尾さんが死んじゃう!
そう思うと、体がわなわな震えてきた。
若い警察官は聡子の口の周りの汚れも気にせず、人工呼吸を始める。
美和は何もすることが出来ず「若尾さんっ!」と何度も何度も叫んだ。
ただただ聡子が再び呼吸を始めることを祈った。
だが聡子は呼吸を開始しない。
一秒一秒が過ぎていく。呼吸をしない一秒は、とても貴重な一秒だということは分かる。その重い一秒が十も二十も過ぎていく。
もうだめかもしれない。
美和は体の力が抜けていくのを感じる。
でも若い警察官はあきらめず、人工呼吸を続けていた。
ABC航空172便は、ゆらゆらと飛行を続けていた。
コックピットからは太平洋に沈んだ太陽が余韻を残すよう美しいな夕焼けが広がっていた。
高度17000フィートから見える夕焼けは、地上ではもう見えないだろう。既に眼下には闇が広がっている。
「管制塔、管制塔」
機長の清水は無線のスイッチを入れて、ヘッドセットのマイクに呼びかける。
「はい、こちら岩国管制。ABC172、状況はどうですか」
無線越しにも相手の緊迫感が伝わる。
「アンコントローラブル。リカバリーの見込みもない。緊急着陸を要請する」
「ラジャー。現在地から一番近いのは松山だが、どうしますか」
「ちょっと待ってくれ」
と清水は言って無線を切り、しばし考え込む。
「松山に降りますか?」
コ・パイロットの安部が問う。
「うん。松山ね。でも、あそこは市街地が近い上に瀬戸内海からの気流がある」
「ええ、確かに」
安部は、松山空港の風景を思い出しながら答える。
「この時間帯は一番難しい。海風と陸風が巻いている可能性が高い」
清水は、自らの言葉を確認するように喋る。
「この制御が利かない状況で風に煽られて、市街地に落ちたら大惨事だよな」
清水は右側の安部に顔を向けて、微笑む。
「そうですね」
安部は、清水の笑顔に驚きながも相槌を打つ。
どうしてこの人は、こんな状況なのに、いつもと変わらないでいられるのだろう。
「それに、胴体着陸になると思う」
「……」
「安部君、胴体着陸の経験は?」
「ありません」
「俺は、三十年前に一回ある」
「……」
「長い滑走路が欲しい。胴体着陸は止まらないんだ」
清水は静かに言った。
「……国際空港ですか」
「うん。第二滑走路なら最大で3キロは稼げる。なにより北風のないこの時期ほど関空の気流が安定している時期はない」
「なるほど」
清水の的確な分析に安部は頷いた。
通常、空港は海が近い。海が近いと時間帯によって海風と陸風が交互に吹く。安定して一方向からの風ならなんともないが、瞬時に風向きが変わったり、急に風が強くなると、飛行機は安定性を失う。
それも、着陸直前の速度が遅くなっているタイミングが一番危険だ。着陸寸前に風に煽られて失速、そのまま地面に激突して炎上、というようなニュース映像を見た人も多いのではないか。
その点、関西空港は海の上にある。陸からある程度の距離があり、陸風を計算しなくてよい。海からの南風しか来ない夏の時期は一番安定していると言える。
さらに、オーバーランした場合、海に着水できるのはメリットだ。
意を決した清水は、無線のスイッチを入れる。
「関西国際空港第二滑走路に降りたい。緊急配備を頼む」
「ラジャー。確認します。アールジェイビービー(関西空港の航空略称)、緊急着陸要請」
「デスティネーション(到着地)をアールジェイビービーに変更」
清水が復唱する。
「デスティネーションをアールジェイビービーに変更」
コ・パイロットの安部がそれを復唱した。
若い警察官の名前は、蓑田正太郎と言う。
愛知県警に所属する交通機動隊の一員である。
普段は、名古屋市内と豊田市を結ぶ幹線道路のパトロール、取り締まりを行っている。
白バイで有名な交通機動隊は極めて難関である。蓑田自身も希望して二年待っての配属だった。もっとも二年は早い方だと言われている。
その仕事柄、交通事故などにはよく出くわす。重大な事故などに備えて、蓑田は定期的に救命措置の訓練を受けているし、事故現場で救命措置を実際に行った経験もあった。
蓑田が先輩の機動隊員からいつも言われているのは、
「救急車が来るまで、救命措置はやめるな」
だった。
どんなに絶望的に見える状況でも救命措置を行い続けることで、助かることがある。
実際に、蓑田が経験した事例にもそうしたことがあった。
頭蓋骨が割れ、脳が見えるような重傷でも奇跡的に助かったこともある。
蓑田は、このアテンダントが死ぬような怪我には見えなかった。
必ず、戻る。
蓑田には確信があった。
蓑田は、懸命に救命措置を続ける。
少し、違ったような気がした。
人工呼吸をやっていると、呼吸が始まる直前に「少し違う」と思う前兆がある。
体に少し力が入るというか、筋肉全体に何かの緊張が走るというか。
説明しづらい何かがある。生気というものだろうか。
それがあった。
確かにあった。
蓑田は、強く息を吹き込む。
アテンダントの胸が少し、膨らんだように思えた。
それは、蓑田の呼気が肺を満たしたものではない気がした。
すうっと、呼吸の始まる音がした。
アテンダントの胸が大きく膨らむ。
足りない酸素を肺が求めて、大きく膨らむ。
自立呼吸が始まった。
「若尾さん!」
という声で、夢中だった蓑田は目の前の女性に気が付いた。
顔を上げると、目の前には大きな瞳に涙を浮かべて震えている若いアテンダントがいた。
蓑田は、安心させようと笑顔を見せて、
「大丈夫、もう、大丈夫ですよ」
と声を掛けた。
「ほ、本当ですか。よ、良かった」
若いアテンダントは、それだけを言うと、顔を伏せてへたりこむように床に手をついた。
床には数滴の涙が落ちた。きっと、ほっとした途端に緩んだのだろう。
しかし、若いアテンダントは顔を伏せたまま、両手で目の辺りを数度こすると、
「ありがとう御座います。後は大丈夫です。お席にお戻り下さい」
と職業的な顔を見せて、きっぱりと言った。
もう彼女は泣いてもいないし、震えてもいなかった。
主翼、尾翼とも操作不能に陥っているABC航空172便の操舵は、左右のエンジンの噴射の調整で行うしかなかった。
機長の清水は、細かにコ・パイロットの安部に指示を出す。
「右エンジン、出力80%」
コ・パイロットの安部は玉のような汗を滴らせながら、復唱する。
「右エンジン、出力80%」
清水は、計器を見る。
「進路は?」
「進路4・7・2・8」
「右エンジン、出力100%」
「右エンジン、出力100%」
「位置を」
「位置、37・68。松山空港付近を越えました。瀬戸内海上空です」
「ラジャー。キープ・ア・コントロール」
「キープ・ア・コントロール、コピー」
清水は、機長席に寄りかかり、ヘッドセットを取り外した。
ふーという大きな息をつく。
「後は、関空まで一直線だ」
「ええ」と安部も少し緊張が緩み、背もたれに体を預ける。
「30年前の胴体着陸の時は、どうだったんですか?」
と安部が清水に問いかける。
「ああ、あの時は河本機長で俺がコーパイだったな。DC3というプロペラ機で、今と同じような状況だったよ」
清水は当時を思い出したのか、ふっと笑顔を見せて答えた。
「その時の河本機長はどのように?」
「うん。落ち着いていたよ。凄いなあ、て思ったもんだよ」
「清水キャプテンも落ち着いていますよ。凄いな、と思いました」
「あはは、おれなんかまだまだだよ。河本さんは敵の弾が飛んでこないんだから、楽なもんだ、と言ってたからね。戦中派には敵わないよ」
「戦中派ですか」
「うん、ゼロ戦に乗ってたんだよ。17歳でパイロットだもんな。キャリアが違う」
「はあ~、凄いですね」
「俺達は、大学とかを卒業してパイロットになるだろう? 河本さんに言わせれば10代で乗らないと、お尻で機体の状態を把握出来る感覚は身につかないらしいんだよな」
「お尻ですか」
「うん、シート越しに機体の状況を把握するらしいんだ」
「分からないですね」
「当たり前だよ。昔の機体とはサイズも材質も違うし、計器もこんなに充実している」
「そうですね」
「河本さんにそう言われて、あんたは時代遅れなんだよ、と心の中で文句言ってたよ」
「清水さんがですか?」
「ああ、でもさ、こうして困難な局面に陥るといつも河本さんの姿がなぜか頭に浮かぶ。あの人なら、どうするかなってね。不思議なものだ」
断続的な揺れが続き、キャビンには不安と恐怖に晒された乗客の顔が並んでいた。
ある者は、震える手でメモに何事かを必死に書きとめていた。
最悪の事態の場合に遺したい、家族への言葉だろうか。
子供たちは、母親の胸に顔を押し当てて泣きじゃくるか、あるいは真っ青な顔をして放心しているかの何れかだった。。
若い警察官の蓑田は、ゆっくりと聡子の身体を床に置いた。
意識は戻らないが、聡子の容態は小康状態になっている。
「アテンダントさん」
と、美和に声を掛ける。
「はい」
「この飛行機のアテンダントは、二人かい?」
「ええ」
「じゃあ、この人は僕が見ているから、アテンダントさんは他の乗客を見てくれ」
と、蓑田は柔らかい表情を見せたまま言った。
「いえ、お客様はお席にお戻り下さい。先ほど機長より説明がありましたとおり、この飛行機は安定していません」
美和は、きっぱりと言った。
蓑田は、頭を振る。
「さっきも言ったとおり僕は警察官なんだ。市民の生命と財産を守るのが仕事なんだ。こういう時はお客じゃないんだよ」
と諭すように言う。
「しかし……」
「この人をこのままにしておく訳にはいかないじゃないか。君がこの人を見るんだったら、乗客の生命を誰が守るんだい? 君は君の職務を果たすべきだ。僕は僕の職務を果たすだけなんだ。分かるよね?」
蓑田の真剣なまなざしに覚悟を理解した美和は、
「……はい。分かりました」
と小さく頷いた。
美和は、手近なシートを支えに立ち上がり、ギャレーに入った。そこには紙コップやビール缶、おつまみや客に配るおしぼりが散乱していた。そのおしぼりの一つを拾うと、
「あの、お口が汚れています」
と蓑田に手渡した。
蓑田の口の周りは人工呼吸時の汚物で汚れていた。
「あ、ありがとう」
蓑田は、そのおしぼりを受け取ると、横たわっている聡子の口の周りを丁寧に拭き始めた。
意図が誤解された美和は目を丸くした。
(この人は、自分の事は後回しなんだ)
美和は、散乱しているおしぼりを2、3個拾うと、蓑田に差し出し、
「お客様も、口が汚れていますよ」
こんな状況なのに、自分でも驚くほど自然に微笑んで言った。
機内電話の音が操縦室に響いた。
関西空港周辺の地図を見て、ルート検討をしていた機長の清水とコ・パイロットの安部は弾かれたように電話の方向に視線を移した。
安部が出ようとしたのを清水が手で制した。
「はい、清水だ」
「小橋です」
電話の向うから美和の声が響いた。
操縦室に電話するのは、ほとんどが聡子だから、少し意外に思ったのと、嫌な予感が頭をよぎった。
「キャビンはどうだ?」
清水の問いかけが終わらないうちに、
「若尾主任が重態です」
という衝撃的な言葉が耳を突き抜けた。
その声は安部にも聞こえたようで、困惑の色を浮かべた視線を清水に向けた。
「意識は」
「意識不明です。呼吸はしていますが、意識がもどりません」
「……。そうか」
「緊急着陸は出来ますか?」
「うむ。関西空港に緊急着陸要請を出してある。あと20分もあれば着く」
清水は小型のモニターの数値を見ながら答えた。
「分かりました」
「海上不時着の可能性もある。お客様への救命道具の装着指示を頼む」
「はい」
「一人だけど、落ち着いて頑張れ」
「あ、あの」
「なんだ?」
「ストレッチャーを出したいんですが。若尾主任は頭と首を強く痛めていて、着陸時の衝撃で悪化する可能性が高いんです。ストレッチャーで固定したいんです」
美和は、早口に言った。
「……」
清水は、一瞬険しい表情を見せた。普段、めったにしない表情だった。
「機長?」
美和が心配気な声で問いかけた。
「あ、ああ。聞こえているよ」
「ストレッチャーを出していいですか?」
「小橋君」
と言って清水は、天井を仰ぎ、少しの間、目を閉じた。
「機長、どうしましたか?」
安部が心配そうに清水を見る。
「あ、いや」
安部に軽く手を挙げる。
「ストレッチャー、許可お願いします」
美和の声が響く。
慌てている様子が分かる。キャビンは、先ほどの揺れからパニックに近い状況になっているのは想像できる。
それに聡子の容態も良くないのだろう。
意識がない、というのはあんまり楽観できる状況ではない。
数年前にもこうした乱高下が発生した時に、CAが死亡したことがあった。
天井に頭を強く打ち付け、頚椎を骨折、病院で死亡した。
まだ26歳の若い可愛らしいアテンダントだった。
清水は、一緒に仕事をしたことがなかったが、時々会って会釈したりしたのを覚えていた。同じような状況に聡子が陥っている可能性は否定できなかった。
美和の言うとおり、着陸時に悪化する可能性が高い。
そして、それが致命的になる可能性も高かった。
「小橋君、ストレッチャーは許可しない」
「えっ!」
その言葉に受話器の向うの美和は、驚きの声を上げた。
清水の表情を見ていたコ・パイロットの安部も驚きで目を見張った。
「機長、若尾主任は重態なんです!」
電話口から美和の訴える声が響く。
「分かっている。分かっているよ、小橋君」
「それなら!」
「ダメだ」
「なぜですかっ!」
「小橋君、冷静に聞いてくれ。この飛行機は関空へあと20分で着陸するんだ。その時間でしかも不安定な飛行の中、固定用のストレッチャーは出せないのは分かるだろう。乗客を移動させるリスクだって取れない。そして搬送用のストレッチャーはシートのようにしっかりと設置できないんだ。どうしても強い衝撃があると吹き飛んでしまう。そのストレッチャーが乗客を傷つける可能性が高い。ストレッチャーは正常飛行時しか想定していないんだ。この飛行機は今オイルプレッシャーが死んでいる。胴体着陸になる可能性が高い。下手したら海に着水するかもしれん。その時に、ストレッチャーが逃げる乗客を妨げる可能性もある」
清水は喉から声を振り絞るように答えた。
「……」
清水は、受話器の向うから無言の抗議を感じ取った。
「すまん。許可できない」
と清水は、付け加えた。
「若尾さんは、若尾さんは、死んでしまうかもしれません!」
驚くほど大きく強い声が受話器から響いた。
清水は、その声を聞いて目を瞑る。
聡子の顔がよみがえる。
「モッチンは……」
と言って、清水は自分が聡子の昔の愛称を口にしていることに驚いて、言葉を切った。でも、それが自然なような気がした。
「分かってくれると思う」
清水は、そう言うと受話器を静かに置いた。
聡子と清水は三十年来の付き合いだった。
初めて知ったのは、ハワイのABC航空が経営母体となるホテルのバーだった。
当時、航空自衛隊を退官してABC航空に入社したばかりの清水は、就航したばかりのハワイ路線を担当していた。
聡子もそのバーの常連で、いつしか二人は親しく会話をするようになった。とは言うものの、いわゆる恋愛関係にはならなかった。
当時、美人スチュワーデスで有名だった聡子と親しくしている清水に、先輩パイロットから「付き合ってんのか」と聞かれることが多かったが、ついぞそういう関係にはならなかった。
思うに、お互いに異性の好みが違ったのだろう。
後に清水が娶ったのは、小柄な可愛らしい女性だし、聡子が嫁いだのは、清水の紹介で知り合った、小柄で細身の清水とは正反対の大男でがっしりした航空自衛隊の後輩だった。
もっとも、清水は、聡子が結婚すると聞いて、多少はショックを受けた。なにがどうというわけでもなく、ただ、自分が聡子にとって一番親しい人間ではなくなった、という非常に身勝手な理由によるものだった。そんな自分に苦笑いした覚えがある。
ハワイ航路は、日本の高度成長と共に人気路線へと成長した。
当時、主力だったDC3という機種は客席数が少ないため、清水は最新鋭だったジャンボジェット機の免許を取り(航空機は機種ごとに免許が必要)、ローリング社のジャンボジェット機に搭乗するようになった。
その航空機の乗務資格を聡子が取得したことで、頻繁に清水と聡子は顔をあわせる機会が増えた。その頃、聡子と同期の男性客室乗務員が聡子を「イモッチ」という小学生じみたあだ名で呼んでいた。
聡子によると、入社した時は田舎から出てきたばかりで当時は相当芋っぽかったらしく、それがサトコと結びついてサトイモとからかわれたのだとか。
新人研修中に周りからそう呼ばれていたんですよ、と聡子が苦笑しながら言っていたのを思い出す。とはいえ、それが嫌というわけでもなさそうだった。それが、いつの間にか「モッチン」と変化して、それが定着した。それは聡子が結婚して子育てのために一時期職場を離れるまで続いた。
機内電話が切れたことが分かると、美和は受話器をたたきつけた。
(なんでダメなのよっ。モッチンて何? 誰?)
と、清水に対する怒りと現状の危機的状況に対する焦りで叫びたい衝動に駆られる。
「アテンダントさん」
蓑田の呼ぶ声に美和は我に返る。
飛びつくように聡子が横になっている場所に移る。
「容体は安定していると思う」
ガタガタと断続的に続く揺れに蓑田は手近なキッチンレンジに体重を預ける。
「良かった」
美和は頷く。
「あと何分で着陸できるかわかるかい?」
「先ほど機長からは20分後と伝えられました」
「ふむ。彼女をどこかに固定したいんだが」
蓑田の言葉に美和は唇をかむ。
それでも冷静に機長の言葉を伝える。
「なるほど。それなら仕方ない。出来ることをするだけだ」
蓑田は頷く。
「正直に言ってくれ。今、飛行機はどういう状態なんだ?」
蓑田の言葉に一瞬美和は戸惑う。
だが、美和はこの人ならば大丈夫だという信頼感が既にあった。
「これから関空に緊急着陸します。オイルプレッシャーが死んでいるので車輪が出せませんから胴体着陸になると思います。胴体着陸の場合、関空の長い滑走路でも止まらないかもしれないと機長は申しております」
「そうか。海に落ちる可能性もあるんだな」
「はい」
「じゃあ、まずはこの人に救命胴衣を着けよう。出してくれるかい」
「はい」
美和はCA用の救命胴衣を取り出す。
「ここは僕がやっておくから、君は乗客にアナウンスした方がいい」
「はい」
美和は頷くと、再び機内電話に繋げる。
「キャプテン、衝撃防止姿勢や避難経路、救命胴衣などの案内をしたいと思います」
「分かった。その前に私から機内にアナウンスする。終わったら案内してくれ」
「分かりました」
美和が機内電話を置くとサーという音がスピーカーから響く。
「乗客の皆さま、機長の清水です。当機は機体の故障のため、本来の行先である中部セントレア空港ではなく関西空港にいったん着陸する予定です。お急ぎの皆さまには大変申し訳ございませんが、何卒ご容赦ください。現在の状況ですが、油圧という機体をコントロールするシステムが動作しておりません。飛行には問題はありませんが、車輪が出せないため胴体着陸を行う予定です。胴体着陸は通常の着陸に比べればかなり衝撃があります。CAの指示に従い衝撃防止姿勢を取って下さい。また海上に機体が着水することも考えられます。救命胴衣の付け方もCAの説明を聞いてしっかり理解してください。仮に海に落ちても飛行機はすぐには沈みません。また海上保安庁も既に当機の緊急着陸に備えて救助船を用意しています。十分な時間がありますから落ち着いてCAの指示に従ってください」
その言葉にザワザワとした客席の雰囲気が美和に伝わる。
美和は立ち上がり、客席から見える場所に立つ。そして大きくお辞儀し乗客を見渡す。
色々な人がいる。若いサラリーマンもいる。
若いカップルもいる。
老夫婦の顔も見える。
小さな子供を抱きかかえているお母さんもいる。
みんな不安そうに自分を見ている。
チラリと横たわる若尾の方を見やる。
うん。大丈夫。私には出来る。だって若尾さんに習ったんだもの。絶対にできますよね。美和は意識のない若尾にコクリとうなずく。
みんなが不安にならないように。
大丈夫なんだと伝えるために。
美和は自然な笑みを浮かべた。
CAとして入社すると最初の研修で学ぶのが"笑顔"だった。
それは本当に変な研修だった。
顔のどこの筋肉をどのように動かせば笑顔になるのかを学び、実践する。その笑顔にも様々なパターンがあった。
歓迎する笑顔。
お客様に親しみの気持ちを表現する笑顔。
お客様の怒りを鎮める笑顔。
子供に向ける笑顔。
そしてお客様に安心してもらう笑顔。
現役のCAだという講師の指導は厳しくて怖かったが、実演してもらって「これは凄い」と思ったものだ。
本当にその時の状況に合わせて自由自在に笑顔にして表現できるのだ。演技とも違う。それは理論的な笑顔だった。
講師の先生は最後にこう言った。
「笑顔はサービスの一環としての意味もありますが、それだけではありません。キャビンアテンダントの笑顔は"お客様の命"を守るためのものです。もし飛行機がトラブルを起こしてあなた自身も経験したことがない危険な状況になった時、あなたがひきつった顔をすればお客様はパニックになります。そのパニックが原因で正しい避難誘導が出来ず、死ななくてもいい人が死ぬかもしれないんです。そんな厳しい状況の中でも自然な笑みを浮かべられれば、お客様は"このキャビンアテンダントは落ち着いている。信頼できる"と安心してくれます。自分が死ぬかもしれないという時にきちんと自然に見える笑顔を浮かべられるキャビンアテンダントこそがプロのキャビンアテンダントなのです」
その講師の言葉に美和は甚く感動したものだった。
確かに友達同士や家族とのゆったりした時間だったらいくらでも自然な笑顔になれる。でも死ぬかもしれないという危機的な状況で笑顔になるなんて無理だ。だから顔の筋肉をコントロールして自然な笑顔になるようにカタチを造ってしまうのだ。
その講義が終わった後でも同期の友人達と"笑顔"の練習をしたし、家でも鏡を前に何度も練習した。後にその講師だった先輩と自分が同じ飛行機に乗るとは思いもよらなかった。
その先輩に「あなた、ちゃんといい笑顔が出来るわね」と褒められた時は本当に嬉しかった。
(若尾さん、私、今もちゃんとできてましたか?)
乗客への説明を済ますと、美和は若尾と蓑田のところへ戻る。
「アテンダントさん、前後の四席が空いている場所はあるかい?」
蓑田の問いに美和は即座にシートレイアウトと乗客の座席位置を思い浮かべて首を振る。
「そうか。出来ればこの人を座席に座らせて君が隣に座って頭を押さえてほしいんだ。それに僕が後ろから彼女の頭を押さえられればかなり頸椎へのダメージが減らせると思ったんだが……」
「それなら、11Cのお客様にお願いして、13Cに移動してもらえれば大丈夫です。そしたら11CDと12CDが空けられます。11Cのお客様は若い男性なのでサッと移れると思います」
「そうか。それを頼んでいいかな」
「もちろんです」
美和は、シートの取手を交互につかみながら慎重に通路を歩く。
「松沢様」
美和は若いサラリーマンに声をかける。
「あ、はい」
若いサラリーマンは驚いた顔をする。まさか自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったのだろう。
美和は搭乗者全ての名前と座席を記憶していた。
初めてこの路線を担当した時、それを聡子が難なくやっているのを見て凄く驚いたものだ。自分にも出来るのか凄く不安だった。
そんな美和に聡子は笑いながら言った。
「そりゃ東京・伊丹間の大型機に乗って300人以上も覚えろって言われたら私も無理よ。でも、この路線はマイナーな路線だから乗るお客様は何回も利用される方が多いの。だから新しいお客様だけを追加で覚えていくようにすればさほど難しいものではないわ」
それでも不安がる美和に聡子はこうアドバイスした。
「お客様の名前を覚える方法は一つ。会話することね。そのお客様の人となりを知ればお名前とお顔は自然と頭に残るものよ」
美和は松沢という若いサラリーマンに笑顔を見せる。
それは若尾から学んだ、お客様に快くお願いする時の笑顔だった。
「一人けが人が出ておりまして、頸椎にダメージを追っています。頭部を人の手で固定するため隣と後ろで支えて症状の悪化を抑えたいので前後四席を空けたいのですが、松沢様が13C、二つ後ろの席に移動頂ければ……」
と美和が説明している最中にその若いサラリーマンはシートベルトを取って美和の脇をすり抜けて13Cに着座した。
慌てていたため、カチャカチャとシートベルトの音をさせながらカチャッと固定した音が聞こえる。
あまりの素早い動きに美和は笑顔も忘れてびっくりしてしまった。
「これでいい?」
「あ、はい。あ、でも」
美和は13Cに移動して「失礼します」と声をかけてから若いサラリーマンのシートベルトを外し、捻じりを戻して再びセットする。
「捻じれていると衝撃で体を傷付けてしまいますので」
と美和はにっこり笑う。
「アテンダントさん、飛行機は大丈夫そうかな」
若いサラリーマンが声をかける。
「ええ。こうしたトラブルに対する訓練は日ごろから徹底してやっていますし、機長もベテランです。ご安心ください」
「まあ、君みたいな年下の女の子が気丈に頑張っているんだから、僕らが慌てたらみっともないよな」
若いサラリーマンは笑う。
「ご協力感謝いたします」
美和はことさらゆったりとお辞儀をした。
美和は蓑田のところに戻り、席が空いたことを伝える。
頷いた蓑田は聡子を抱き上げる。
「失礼します」
美和は断って片手で手すりを掴み、背後から蓑田の腰にもう片手を回し、揺れる機体で蓑田が倒れないように支える。
一歩ずつゆっくりと通路を歩く蓑田を美和が支えていく。
「11D、窓側に若尾さんを座らせてください」
背後から美和が言葉をかける。
「分かった」
「本当はいけないんですけど、リクライニングを倒します」
少し角度のついたシートに蓑田が聡子を座らせる。
ぐったりと力のない体がゆらゆらと不安定に揺れる。
「私が固定しているので、お客様は後ろへお願いします」
美和は抱き着くように聡子を固定する。
その間に蓑田は後ろの席に行きシートベルトをすると体を伸ばして背後からシートごと腕を回して聡子の首と頭を手のひらで固定する。
その時にピンポンピンポンという警告音が鳴り響く。
美和は前方に移り機内電話を取る。
「着陸態勢に入る」
「了解です」
電話を切ると美和は基盤を操作する。機内の電気を暗くし、ビデオを流す。普段は飛行機前方に取り付けられたカメラの映像を流すが、緊急用のビデオは繰り返し衝撃防止姿勢、避難方法、救命胴衣の使い方を流すようになっている。暗い機内にビデオの音声が流れる。
全ての準備を終えた美和は機内電話を取る。
「キャプテン、準備できました。私は若尾さんの保護のためにここを離れます。いいですか?」
「了解。自分の身をきちんと守るようにしなさい。君しか乗客を安全に誘導できる人間はいないんだからね」
清水の声はとりわけ優しかった。
「了解です」
美和は短く答えて電話を切った。
機内にアナウンスが流れる。
「機長の清水です。あと五分後に当機は関西国際空港に緊急着陸します。脱出の際はキャビンアテンダントの指示に従ってください」
その声を聞きながら、美和は通路を歩き、聡子の横に座る。シートベルトをして、聡子の体に覆いかぶさるように固定した。後ろから手を伸ばしている蓑田の手が美和の手にあたって、少しためらったように引いたので美和は勇気を出してその手を掴んだ。その手から安心したような雰囲気が伝わってきて美和は少しだけ暖かい気持ちになれた。
機長の清水の目の前に関西国際空港の第二滑走路が広がってくる。
白いライトと点滅するライトが滑走路を浮き彫りしていた。
遠くには緊急配備された消防車や救急車の赤橙が回っている。
「現在、高度127フィート、速度160ノット」
コ・パイロットの安倍が計器を読み上げる。
「少し速いな」
機長の清水は呟く。だが、もはや速度をコントロールする術は何もない。このままで行くしかない。
後は角度だ。角度が全て。機首すら動かない現状ではリトライは出来ない。
「高度読み上げ!」
「コピー。100、98、95……」
「エンジン出力オフ」
「エンジン出力オフ、88、84、75、70……」
「角度はこんなものか。安倍君、落ち着いていこう」
「はい! 60、55、50、45……」
清水は管制塔に連絡する。
「こちらABC172、風速は?」
「南から風速2メートル。ほとんどない。ついているよ、ついている!」
管制官が興奮したように返す。
「ラジャー。このまま着陸する」
「グッドラック!」
管制塔の声に清水は小さく頷く。
「風がない。ついているぞ、おれたちついている」
それは祈りなのか暗示なのかは本人にもわからなかった。
「22、18、14……」
飛行機は海の上を通り過ぎ、滑走路に入っていく。
高さは数メートル。少しずつ高度が落ちていく。
「10、8」
「エンジン、噴射」
「エンジン、噴射」
「エンジン、オフ」
「エンジン、オフ」
清水は着陸寸前でエンジンのオンオフを行った。
これで少し機の角度が上がったはずだ。
マイクを取る。
「着陸します! 衝撃防止姿勢!」
マイクを置くと清水も姿勢を固くする。
「5、2、、、タッチダウン!」
ドスンという衝撃が機内に響く。
その後、信じられない静寂が機内を覆う。
(バウンドしたか?)
清水は唇をかむ。
胴体着陸の際、角度がきついと衝撃で機体が浮いてしまうことがある。スキージャンプと同じで速度があれば衝撃は吸収されるが、一度着地した飛行機の速度はかなり減速している。
減速していれば、乗客も含めて200トンの鉄の塊が地面へと激突する。それが落差1メートルでも凄まじい圧力が機体にかかる。
最悪、機体が破裂して爆発炎上してしまうだろう。
(どれくらい浮いたんだ⁈)
清水は計器に目をやるが高度はゼロを示している。
(どうする? どうればいい?)
清水は迷った。
このまま着陸させるべきか。
あるいは、いったん少しでも加速させるべきか。
しかし、加速すれば機体は不安定なる。
着陸時にバランスを崩せば翼が地面と激突して炎上する。
死者が出ることは免れない。
清水は迷った。
迷った清水の脳裏に30年前の胴体着陸時の河本との会話がフラッシュバックした。
その時のトラブルは車輪が出ないというもので、今回のトラブルに比べれば機体の故障としては軽度だった。
だが、天候は雨に見舞われ視界は悪く、しかも風が酷く強かった。
着陸直前、河本は一瞬頭を沈めて手を合わせた。
その直後、顔を上げた河本は清水にランディングのリトライを命じた。
飛行機は再度加速し、空港を周回して無事に着陸した。
神経をすり減らした二人は会社からの事情聴取後、バーで軽く呑んだ。バーボンを舐めながら清水は河本に訊ねた。
「あの時、何を考えていたんですか?」
「ああ、いつのことだ?」
「リトライ直前に手を合わせましたよね」
「ああ、見ていたのか」
河本は真っ黒に日焼けした顔をくしゃりとゆがめて笑った。
「一瞬だけどな、運命を神様に任せようと思った」
河本はバツが悪そうに苦笑いした。
「神様に任せる?」
「迷ったんだよ。風が急激に変わる雰囲気を感じたんだ。風の色が違うように見えたんだよ。でも、それは気のせいかもしれない。あくまでも勘だからな。何かを変えるよりも変えないままの方がいいんじゃないか、このまま着陸してしまおうと思った。どうせ何をやったって何が正解なんか分からないんだからさ。意外とダメなことをした方が運よく助かることもあるし、逆に最善を尽くしたって飛行機は落ちるときは落ちるんだからな」
「でもリトライしましたよね。どうしてリトライを? 神様に任せるのはやめたのですか?」
「ああ。おれの判断を優先させた」
「なぜですか?」
「おれの方が、このパイロットという仕事に関しちゃ神様よりも知っていると思ったんだよ」
それはパイロットの仕事を長年真剣に取り組んできた男の自負だったのだろう。
「エンジン10%噴射」
清水は独り言のように呟き、レバーを倒す。
コ・パイロットの安倍が目を見開く。
「エ、エンジン10%噴射」
減速している中の加速は機体を揺らした。
清水は自分の判断を優先した。
今の清水にはこの仕事を人生を賭けて真摯に取り組んできたという自負があった。
だから神様に任すことはやめたのだ。
強い衝撃と共に乗客たちの悲鳴が上がる。
ゴーッという逆噴射の轟音が響く。
ゴトゴトゴトというすさまじい揺れが続く。
機体の外では火花が上がっているのが見える。
消防車が飛行機と並走するように走り出している。
美和は掴んでいる蓑田の腕に力を込める。
怖い! 怖い! 怖い!
こんな仕事やるんじゃなかった!
普通の仕事だったらこんなことにならなかったに!
助けて! 助けて!
美和は叫びたかった。すごく叫びたかった。
それをしなかったのはなけなしの職業意識なんだろうと思う。
その時、席の後ろから「母ちゃん」というつぶやきが聞こえた。
母ちゃん、母ちゃん助けて母ちゃん。
それはあれほどしっかりしていた蓑田の声だった。
多分本人は気づいていない無意識の声なのだろう。
美和はその声を聞いて驚くとともにちょっと安心してしまった。
この人も怖いんだな。
私だけじゃないんだ。
そうだ。
みんな怖いんだよね。
でもみんなそれを見せずに助け合った。
私に優しい言葉をかけてくれた。
そんな人達が死ぬわけないよね。
美和は希望を込めてそう考えた。
あと、不謹慎だなと思いつつ手を掴んでいる男性が妻とか恋人の名前を呼ばなかったことにホッとしていたのは美和だけの秘密だ。
飛行機は止まらない。どこまでも止まらない。おびただしい火花が散っている。後方エンジンから出火しているのが見える。
一度加速したことで、飛行機は想定以上にすべっていく。
海がどんどん大きくなる。このまま永遠に滑っていくのかと思えた。
清水は意を決して声を張り上げる。
「右エンジン、停止!」
「右エンジン、停止!」
「右エンジン、逆噴射!」
「右エンジン、逆噴射!」
清水は一瞬だけ右エンジンの逆噴射を切った。
右のエンジンを切れば、左が強くなる。そうすれば機体はゆっくりと反時計回りに回っていくはずだった。曲がっていけば、距離が稼げる。
そういう意図だった。
果たして機体は少しずつ回っていく。
それと共に胴体の摩擦係数が増加していく。
「エンジン、オフ」
「エンジン、オフ」
パイロット席の清水の視界にはもう海しか映っていない。
やれることはやった。清水はヘッドセットを取り外した。
機体はどんどん左に曲がっていく。
それに従って累乗的に摩擦は増える。
速度がぐんぐん落ちる。
滑走路で真横になった状態で飛行機は止まった。
並走していた消防車が何台も近づいて来る。
そのうちの何台かが化学消火剤の真っ白な液体を放出し始めた。
機体が燃えているかもしれない。
清水はマイクを取る。
「キャビンアテンダントの指示に従って速やかに脱出を開始してください」
その声を聞いた美和は、シートベルトを外し避難口へ走っていく。次々と立ち上がる乗客に
「落ち着いて行動してください。飛行機は止まりました。落ち着いて行動してください」
と大きな声で叫ぶ。
機内に煙が立ち込め始めていた。
我先に殺到する乗客に笑顔を見せながら美和は統制のとれた誘導を行っていく。
夢中で乗客を緊急脱出スライドに誘導していると、既に機内には人がいないことに気づいた。頭の中でカウントしていた数を確かめる。
一人足りない。あの人だ。
機内を見ると蓑田が聡子を抱いている。
機長の清水とコ・パイの安倍が搬送用のストレッチャーを出している。そこに蓑田はそうっと聡子を置いた。
美和は蓑田に言った。
「蓑田様、脱出お願いします」
名前を呼ばれた蓑田は少し驚いた顔をしたが、微笑んで頷く。
なぜか軽く右手を上げる。
それがハイタッチを意味することに美和は一瞬分からなかった。
慌てて、蓑田の手に自分の手を合わせる。
「あとは任せました」
「はい」
美和は頷く。
蓑田はニコッと微笑むと振り返らずに緊急脱出スライドを滑り降りていった。
美和はハイタッチした手を見る。
何か大事なものを受け取った気がした。
その大事なものが何かは今の美和にははっきりとは分からなかった。
分かった部分もあるけども分からない部分もあると思った。
分からないことが分かったことがとても大事だと思った。
それが何かを理解するためには、きっともっとこの仕事に真剣に取り組んで成長するしかないと思った。
あの人のように強い使命感を持って仕事をしていかなければいけないと思った。
美和は手を大事そうに握りしめる。
その何かを逃さないようにするために。
☆☆☆
救急車で搬送された聡子は頸椎骨折と頭蓋骨骨折という重傷を負っていたものの一命を取り留めた。
外科手術後、関西空港の病院から名古屋に転院し三カ月に及ぶ入院生活を余儀なくされたが、麻痺などの後遺症も出ることはなかった。
聡子が入院中、美和は時間さえあればお見舞いに行って話をしていた。あまりに何度も来るので聡子はあきれ顔だ。
「小橋~あんた暇なの~? 彼氏いないの?」
「彼氏なんかいないって前から言っているじゃないですか!」
美和は拗ねたように頬を膨らませる。
「ふうん。あんたが来るたびに話題に出すおまわりさんはどうしたの?」
「はい⁈ あれはお客様ですよ⁈ あれっきりですあれっきり! それにそんなに話題に出してません!」
美和はあたふたと手を振る。
「ふうん。最近の子は晩生(おくて)ねえ。名簿調べて電話すりゃあいいのに」
聡子はニマニマと笑う。
「先輩! それは重大な規約違反です! 個人情報保護法も知らないんですか⁈」
「はああ、ほんと真面目な子ねえ」
「そういう問題ですか⁈」
美和は真っ赤になって反論する。
「あ、そういやさ」
「はい?」
「引退することにしたから」
「え?」
世間話のように言う聡子に美和は一瞬話の内容が理解できなくて聞き返す。
「引退する。もう歳だしね」
「そんな……」
「そんな悲しい顔しないで。死ぬわけじゃないんだからさ。小橋とおまわりさんのおかげで拾った命だからね。せっかくだからやりたいことをバーッとやろうと思ってさ。ほんと感謝しきれないよ」
「バーッとですか? それ私も付き合います。なんか楽しそうです!」
「あはは、小橋に付いてこれるかな? 私らバブル世代の弾け方は半端ないんだけどなあ」
聡子は不敵に笑う。
「もちろんです。どこまでもついていきます!」
美和はガッツポーズを見せながらうなずく。
「あはは。それは嬉しいね。じゃあ、一つ頼みたいんだけどさ」
「はい、なんなりと」
「引退するにあたってお世話になった人達を呼んでパーティーやりたいのよ。パーリー、パーリー、レッツパーリーよ」
「わっ! いいですね!」
「でさ、小橋幹事やってよ」
「は、はい。私でいいんですか?」
「もちろん」
「承りました」
美和がわざとらしく深々とお辞儀すると、聡子は豪快に笑った。
美和はその時知らなかった。
蓑田が聡子の元に一度お見舞いにきていたことを。
その時に蓑田も美和を気に入っていそうな雰囲気だったことを。
そして聡子が蓑田の連絡先を聞いていたことを。
聡子が引退パーティーのサプライズゲストに蓑田を呼ぼうとしていることを。
聡子は思う。
この二人が今後どうなのかは分からない。
単なる吊り橋効果なのかそれとも運命の出会いなのか。
でも自分の命を救ってくれた二人に老婆心ながらも機会を創ってあげるのは鶴も納得の恩返しだろう。
そこから先は二人の問題だ。
聡子は引退パーティーに呼ぶ人を次々と挙げては喜んでいる美和の横顔を見ながら、蓑田と再会したときの美和の慌てっぷりを想像して思わず吹き出してしまった。
アンコントローラブル! コバヤシ @RYOUMAKOTO
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