第10話 決意と謀略
グーシュは出立の準備のため、急ぎ自室に向かった。
だが、扉を開ける手が思わず止まる。様々な思いがよぎる。
自分にとっていちばん大切な物を守るため。
退屈な世界から目を背けるため。
一度は一線から身を引くと決めた。
しかしその決心全てを、自ら放り投げてしまった。
「やはりわらわは、まだ見ぬものを……未知を知りたい」
だがその結果、ミルシャは……。
ガチャリ。
立ち尽くしていると、不意に扉が開かれた。
ミルシャだった。
「遅いと思ったら……話はもう聞いています。子爵領に行かれるのでしょう? 早く準備しなければ。さあ、お早く」
グイグイとグーシュの手を引き、室内に引っ張り込むミルシャ。と、不意に揺れるミルシャの髪の隙間から、後頭部を縫ったあとが見えた。
あの時の怪我だ。
「キャッ……」
瞬間、グーシュはミルシャを後ろから抱きしめていた。
こうしていると、どんどん不安が増してくる。
このまま不安に押し負けて、「父上、兄上、やっぱり怖いから止めます」と言えば楽なのかも知れない。
そうして、いつものように暮らせば、何も失わない。
ミルシャと笑って、どこかに嫁いで、子を産んで、いつの日か思うのだろう。
あの時子爵領に行っていれば、どうなっていたのかと。
嫌だ。
そんな何週か繰り返した思考に囚われていると、ミルシャが腰に回したグーシュの手を、ギュッと握った。
「どうしたんですか、殿下? 昼間っからご盛んなのも程々に……」
「いやお前……もう少しわらわの悩みを察しろ……」
その言葉にミルシャは本気で驚いたようで、ビクリと体が震えた。
「殿下に悩みがあったなど、初めて伺いました」
「いや、わらわにも悩みくらい……」
お前のことで悩んでいる、と言えばこの生真面目な付き人はどれだけふさぎ込むだろう。
そんな気持ちも知らずに能天気なミルシャに、グーシュは少しムッとする。
だが続いたミルシャの言葉に、そんな怒りは消えてしまった。
「嘘ですね。豪放磊落で、女の子大好きで、好奇心の塊で、欲しいものは全て手に入れる。それが殿下です。そんなお方が何を悩むのですか」
一々当を得ていた。なんだかんだでこのお付き騎士は、グーシュの事を一番理解っているのだ。その癖、核心の部分は理解っていない。
その事にグーシュは苛々して、思わず声を荒げた。
そして、あれだけ言わないようにしていた事を口にしてしまう。
「お前が心配なのだ! 今回全権大使をつい引き受けてしまった。海向こうからの使者と会えれば、大陸の彼方の事がわかる。知らない物を、未知を知ることができる……だがそのために、また兄上や取り巻き達とやり合うことになれば、お前をまた傷つける……」
言ってしまった。
グーシュは全てを吐き出した。
それを聞いたミルシャは、やんわりとグーシュの手を解くと、ゆっくりグーシュの方を振り向いた。
そしてニコリと微笑むと、
「えっ? ぐが!?」
足払いをかけて、グーシュを押し倒した。
「殿下……僕の事をなんだと思っているのですか? 僕は殿下を守る為にいるのですよ! なんのために殿下に不満言われながらも、腹筋が割れるまで鍛錬したと思っているのですか! 」
「それはそれでいいと最近は思っ……て違う。だがお前がいなくなったらわらわは……」
「いなくなりません」
ハッキリと、強く意思を込めてミルシャは言い切った。
「……本当にか?」
「はい。僕は生涯殿下にお仕えすると決めたんです。この言葉に二言はありません」
そう言うと、ミルシャは静かに起き上がり、グーシュを抱き起こした。
「失礼いたしました」
バツが悪そうにミルシャは謝った。
正直他の皇族なら手打ちにしてもおかしくはない行為だが、グーシュは気にしなかった。
「気にするな。しかしお付き騎士に、お前の事が心配などとは。騎士を侮辱したも同然だ、許せ」
結局、ミルシャもあの時の事を気にしていたのだろう。
グーシュはそう推察した。
自分だけがミルシャへの罪悪感と喪失の恐怖を感じていたと思っていたが、ミルシャもまた、グーシュの行動を妨げてしまった自分の弱さを恥じていたのかもしれない。
先程の考えは撤回しよう、グーシュは思った。
やはりこの娘は、自分の一番の理解者だ。
「許します、我が主。そして、ですからどうか、僕を信じてください。もう、あなたの道を邪魔するような事は致しません。どうかあなたの自由な御心のまま、生きてください」
力強くグーシュは頷いた。
心は決まった。
海向こうからの使者に会い、邪魔するものは排除してしまおう。
その過程で兄上と対立しても構わない。
邪魔するなら容赦する気はない。
(それに、もしミルシャがいなくなっても、簡単な話だな)
ミルシャの目を見つめながら、グーシュは自らに誓う。
(その時はわらわも死のう。そうすればその後のことであれこれ悩むことも無い)
狂気にも近い決意を固め、自らの欲を満たすため国政に関わる事を決めた。
※
「あの女! また調子に乗りおって! 」
「皇太子殿下、このまま野放しには出来ませんぞ! 」
「今度はあのお付きを完全に殺ってしまいましょう。そうすれば肝も冷える」
その頃、ルイガも自室にいた。
周囲には取り巻きの高級官司や騎士団、近衛騎士団の高官がおり、口々に先程のグーシュの行動を咎め、対応を叫んでいた。
彼らの中では、グーシュは数年前まで皇太子に盾突き帝位を狙っていたが、お付き騎士を事故に見せかけ殺害しようとした事に萎縮して、帝位競争から脱落したと見なされていた。
そんな脱落者が、海向こうのとの交渉においてしゃしゃり出てくるなど、明らかな敵対行為と言える。
しかし、ルイガはそんな取り巻きの声には応えない。
その表情は感情を押し殺すように、頬が引きつっていた。
しばらくして声が収まった頃、先程まで声を発しなかった二人の人物の内一人が口を開いた。皇太子派のトップでもある、近衛騎士団人事担当官のイツシズ。
帝都の支配者とも呼ばれる、帝国行政を実質的に支配する男だ。
「皇太子殿下、これは看過できませんぞ?」
イツシズの言葉に、ルイガは狼狽えた。
その様子に取り巻き達は驚き、同時に安堵する。
自分達の頭目が、皇太子ですら狼狽させる権力を持っている事にだ。
イツシズは、取り巻きのこういった細かな感情の操作と、要所の人事権を握る事による高い政治力によって成り上がった男だ。
今の発言もルイガの性格を熟知して、一番言われたくない言葉を選んだことで狙った反応を引き出したのだ。
剣を尊ぶ帝国では、珍しい性質の男と言える。
「イツシズ! そんな事はいうな。グーシュはああいう性格だ。隙を見せた私も悪かった。だから遠くの異国との初期交渉くらいで目くじらを立てることは……」
「ルイガ様……」
一歩、歩み寄ってイツシズが静かに声を発する。
「ぐっ……」
自分の行動で今の状況を招き、後ろめたさを感じていたルイガは、イツシズの圧力に押し負ける。
「海向こうのとの交渉とはすなわち、この大陸の代表たるわが帝国が取り仕切る事案。その最初の接触をとりなしたとあれば、その功績は次期皇帝決定評定においても無視することは出来ますまい。ましてや……」
ゆっくりとした動作で、イツシズはルイガを指差した。
「あの様な醜態を晒しては大きな負の要素となりましょう。貴族や民衆議員達は目ざとい。評定の際は必ずや突かれましょうや」
「……すまぬ」
「イツシズ殿、その態度と言い方は度が過ぎるぞ」
イツシズの言葉にセミックが、短い黒髪を静かに揺らしながら諌めた。
キツイ目つきが強い非難の色のため、一層キツくなっていた。
イツシズはそれを見て、少し頷くと一歩身を引いて、頭を下げた。
「殿下、少々度が過ぎました。お許しください」
「いや、私も悪かった。しかしグーシュなぜまた……。三年前のことで納得してくれたのでは無いか……あいつが引いてくれれば兄妹で闘う必要もないのだ……」
結局の所、ルイガリャリャカスティとはこういう男だ。
確かに頭脳明晰で武に優れていたが、心がそれらに追いついていなかった。
その上、グーシュの事を溺愛していた。
溺愛しているのだが、イツシズ達取り巻きに配慮して、それを表に出すことが出来なかった。
完全な皇帝候補にもなり切れず、良き兄にもなり切れない。
ルイガリャリャカスティは、中途半端な男だった。
三年前のミルシャの件も、朝礼で致命的なまでにグーシュにやり込められたと判断したイツシズ達が起こしたものだった。
グーシュにとっては、兄妹での切磋琢磨に過ぎなかった朝礼での皇帝からの試験にも似た問も、ルイガにとっては自身の立ち位置をかけた決死の戦いだった。
ルイガはどうしても、グーシュが抱いていた皇帝からも認められた優秀な跡継ぎ、という実像に心が及んでいなかったのだ。
(それでも、我らはこの御方を次期皇帝にせねばならん)
ルイガのような男が皇太子としての職務を行ってこれたのは、ひとえにイツシズ達取り巻きによる支援によってだった。
それほどまでに取り巻き達は、グーシュと他の皇族に危機感を覚えていた。
(早々に嫁いだ色ボケの
いかに民衆や兵士にいい顔をして支持を集めても、グーシュの事を支持するなどイツシズ達にとっては論外だった。
グーシュの最短で物事をなそうとする性分と、伝統や前例を嫌い行動する性急な部分が嫌われたためだ。
しかしイツシズはそれとは違う、ある点でもグーシュを危険視していた。
(あの時……お付き騎士を怪我させた時、我らはあの女が何らかの報復に出ると思っていた。性急に物事を進めようとするあの性格から、すぐに事に出ると想定して備えていた。だが、あの女は何もなかったように謝ると、本当に何もしなかった……)
グーシュにとってはそれはミルシャの安全を第一に考えた論理的な行動であったが、イツシズらにとってはあまりに不可解な行動だった。
激情型で、事あるごとに兄である皇太子に張り合ってきたグーシュが、お気に入りの女を傷つけた事に対して、逆に謝罪した後謹慎し、その後は一気に表から引いた。
その後は謀略も無く無為に過ごしている。
これはイツシズ達にとってはあまりに恐ろしい動きだった。
グーシュにとっては抵抗の意思がない事を示してのことだったが、イツシズ達にとっては、いっそのこと裏でルイガを誹謗中傷でもしたほうがよほど安心できたのだ。
グーシュのあまりに割り切りが良すぎた性格が、長年謀略の中生きてきたこの男を恐れさせていた。
この恐れとルイガの甘さがこの三年の平和をもたらしていたが、全てがこの時崩壊しようとしていた。
「ルイガ皇太子殿下……」
「!? な、なんだイツシズ」
”ルイガ様”でもなく”皇太子殿下”、でもなく”ルイガ皇太子殿下”、とイツシズが呼ぶ時。もれなくそれはルイガにとって厳しい提案がなされるときだ。
そしてイツシズにそう呼ばれると、ルイガはそれに反対することが出来なかった。
「もはや温情をかけ続けること能わず。偉大なるルーリアト帝国の為に、ご決断のときです」
イツシズの言わんとすることを察して、ルイガはあからさまに狼狽えた。
「イツシズ……だめだ、グーシュは大切な妹なのだ……死んだ母に頼まれたのだ……」
涙目で懇願するが、イツシズはもはや止まらない。
イツシズは帝国の為に進言する。
「グーシュリャリャポスティ殿下を弑します」
(ああ……母上……)
ルイガが頭を抱えても、イツシズの言葉は止まらない。
それにルイガは逆らえない。いや、理解っている。
これ以上兄妹で争えば、次期皇帝決定評定は荒れる。
未だ未成熟な皇帝を入れ札で決める仕組みは、本当の対立下における決定に耐えられないだろう。それが何年先だろうと関係ない。
ルイガの見立てでは、評定の決定に権威が発生するまで、あと二代程度は満場一致での決定を行わなければ、帝国は大きく軋むだろう。
そのためにも自分がしっかりしなければならない……誰もが自分を皇帝と認める状況を作らなければ、帝国と大陸の平和が失われる。
「……仕方ないのか。やるしか無いのか……」
(「グーシュは人とは考え方が違うから、あなたが守ってあげて」)
母が死ぬ前、語った言葉がルイガの脳裏によぎった。
だが、言葉を守る事は出来ない。
ルイガは妹を溺愛する兄から、皇太子へと一歩、自分自身を傾けた。
「……して、いつ実行する? 交渉が関係するからな、準備を気が付かれないように慎重に行いつつ、見極ねばな」
「いえ、皇太子殿下」
「ん?」
「一番油断しているときに致しましょう」
こうして帝都の夜は更けていく。決意と、謀略を秘めて。
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