男は出口に気が付かない

リスノー

男は出口に気が付かない

 ――――最後はかならず私が勝つ。


 男は灰暗い牢獄の中で、何度も同じ思考を繰り返す。


 ――――俺は賢い。他のどの人間よりも。


 それだけが確信を持って言えた。


 乾ききった身体を冷たい石壁に押し当てる。ただ小窓から、無機質な風の通る音が聞こえる。どこか白みがかった視界には、鉄格子の格子模様がぼやけて見えるだけであった。


 ――――傲慢ではないのだ。ありとあらゆる方法をもって、俺は、俺こそが、この世で一番賢いのだと言う事が出来る。


 気絶しかかる頭脳は、片側の痛みを伴う事で、何とか支えているような状態である。太陽の恵みが無いと人はここまで衰弱すると言うのは、ここに来ての、彼の新たな発見でもあった。


 ――――俺は正しい事をした。


 しかしそれは、確信を持って言えない事の一つであった。


 * * *


「いや、しかし。僕にはどうしてそうなったのか全く分かりません」


 丁度、太陽が南中しかかる位の時間。街の中心地から程近い劇場に、一組の男女が隣合って座っていた。


 男の方は、まだ年若い青年である。黒々とした短髪と、日に焼けて茶色めいている健康的な肌からは、垢抜けない無垢さというものが感じられる。しかし一方で、熟練の狩人と同じ――――獲物の動きを止めると時の、上位の獣のする――――限りなく薄められた疑念による小さな殺意の、奥底に込めた眼と言うものを、彼は隠せない様であった。


 女の方は打って変わって、非常に俗めいた女であった。華美な衣装こそ身に着けては無いものの、厚かましい唇と肉のついた両腕からは確かに、見る物を不快にさせる傲慢、無知、そしてどこか苦労人めいた風貌の重みがあった。見る人が見れば、哀れな未亡人か何かに映るのかもしれなかった。


 二人は決して互いに打ち解けて話しているわけではなかった。勿論、劇場と言う場である以上、会話をするにはどうしても顔を近づける必要がある訳であるが、その中でも彼らの間には、一歩でも何かがあったら仕掛けるぞという無言の警戒心があった。所謂、暗黙の諒解と言う奴である。


「あら、意外ね。貴方のような人間は、人を観察するのが得意なのだと思ったのだけれど」


 青年の問いかけに対し女が答える。返答の言葉はわざとらしい抑揚が付いていて、劇場にふさわしい演劇性が付いていた。


「いえ、本当に。僕は貴方に言われたことだけをやっただけで。……なぜターゲット貴方の夫を殺すことが出来たのか、今だによくわかってないのですよ」


 * * *


 ――――『死刑を求刑する』


 怒りを含んだ老年の爺の声が、耳にこびりついて仕方がない。怒りか、無力感か。自分でも言い表しようのない激情が身を襲うも、しかし石壁を殴りつけるだけの気力は残っていなかった。


 ――――俺は賢い。俺は神に選ばれたのだ。


 子供に本を読み聞かせるように、男は自分の心を支え続ける。だけれども、心の奥にあるぽっかりと空いた穴が埋まることは無かった。


 ――――これが、虚無感と言う奴か。


 そして、新しい知見を見つけた男は、ハハ、と掠れた声で笑った。


 


 * * *


「ふふ、何も知らないふりをして答えを求めるのはいいけれど、少しは自分でも考えてみなさいな。あなたに与えた仕事を振り返れば、自ずと答えは見えてくると思うのだけど」


 少年はそう言われても、眉を曲げて困惑を示すしかなかった。


 今回のには、色々と疑問が多かった。そしてそれは今でも解決されていない。

 ――――まずは、ターゲットに恨みを持つ人物を集める。事を広め、大々的にし、裁判を起こさせる。裁判では買収を行い、ターゲットに死刑を求刑させる。


 そこまでは良かった。そこまでは、普通の『社会ルールにのっとった暗殺』であった。一般的にいえば、後は獄中のターゲットが下手な気を起こさないように、死刑が行われるまで監視を続けるだけのはずであった。


 だが、そこで女は『わざとターゲットが脱獄しやすい環境を作ること』を少年に指示した。しかも、絶対に暗殺することが無いようにという補遺付きで。


 少年には意味が解らなかった。


 不正に裁判に勝ったこの時点で、後は監視し続けるだけでこの形式での暗殺というものは完了する。今の民主的社会において、それ以上の命令を与える必要はない。強いて必要があるとすれば、裁判がやり直されない様に関係者の心情を調整するぐらいだろうか。

 もし『わざとターゲットが脱獄しやすい環境を作ること』なんて指令してくる人間がいるのなら、恐らくそれは、全く融通が利かない上に、非常にせっかちな人間と言うことになる。わざとターゲットを脱獄させ、その名目をもって殺害命令を下す。この形でもに疑いがかかることは少ない。しかしそれならば、最初から事故に見せかけて殺す方がはるかに楽だ。


 少年も『公的な暗殺』を依頼してくる女に対し、そういった助言めいたことを言ったことがあった。しかし、そこでも女は「それじゃあダメなのよ。ちゃんとお仲間さん達にもあいつは死んだって事を理解させなくちゃ」と、意味深な事を張り付けた笑みのままで少年に語った。


 そして、計画は当事者が疑問を浮かべたまま決行され、果たして事は上手く運んだ。一回『お仲間』とか言うむさい男たちが牢獄に乗り込んできた時は少年も肝を冷やしたが、そのまま観察を続けていると、ものの数時間後には奴は求刑のままに死んでいた。


 そして、この報告の場まで遂に、少年の『どうしてターゲットは逃げなかったのか』という疑問が解決することは無かった。


 * * *


 声。声。声。外から声がする。


 聴覚すらもあやふやな中、今まで無機質な虚無しかとらえていなかった己の耳が確かに人間の気配を感じたのを男は逃さなかった。いや、それはむしろ、男にとって特別な意味を持つ声であった。


 ――――仲間、か。


 そう、確かにそれは、数日前までは共にテーブルを囲んでいた仲間たちの声であった。この冷え切った場に似つかわしくない、怒りと、正義感にくべられただけの野蛮な声。

 これがもしこの男でなければ、己が身の解放の予感を察し、体を震わせたかもしれない。仲間と言う社会を超えた友情に感謝をし、涙を流したかもしれない。


 しかし、男は衰弱した、毅然とした態度の中で、ただ絶大な苛立ちだけを感じていた。


 ――――看守は何をやっている?


 * * *


「……彼には自殺の意思があったのでしょうか」


 少年は言いながら、しかしこの結論は間違っているのだろうと感じていた。


「いいえ、あいつはそんな甲斐性のある男じゃないわ」


 やはり。と少年は女の受け答えを受け止める。


 彼が自殺をしたいのならばいくらでもその機会はあった。裁判を始める前、牢獄にとらえられている瞬間、判決が決まった直後に、仲間たちに殺してもらうという手段もあっただろうに、彼はそれをやっていなかった。――――それに、買収したには、男の自殺を止めなくてもよいと命令していた。女の指示の一つだった。


 『公的な暗殺』のように、『公的な自殺』を望んでいたのだろうか。

 否、それは違うだろう。と、少年は頭を振ってその考えを消した。


 だって、あの男の瞳は、死という最大の恐怖を目前にとらえた、小動物の瞳をしていたのだから。


 ……そして、少年が思考の壺にはまって、しばらくの沈黙があった。


 やがて、少年の中に一つの可能性が浮かぶ。


「……もしかして、あなたに迷惑がかかるのを恐れたの――――」


「違うわ」


 が、瞬時に女に否定される。その語気は余りに強く、威圧になれている青年の体を、一瞬だけ底冷えさせた。


「違うわね。何度も言ってるけど、あの人はそんな甲斐性じゃないのよ。……ええ、そう。私たちはお互いに没交渉だった。お互いがお互いの事について何も言わず、そして時間が経って、気づいた時には私たちの間には、ひどい壁があった。それだけなら、良かった。愛の反対は無関心と言うけれど、それが突き詰められたあの頃は、ある意味私の中で平穏だったわ」


 心なしか声量を大きくし、女は悲し気に呟き続ける。


「でも、いつの間にかあの人は壁の向こうで、他人に迷惑をかけるようになっていた。私が嫌っていた家庭の破壊というものを、あいつは何の躊躇も無くやっていた」


 悪夫に悩まされ続けた女の、後悔の回顧。だけれども少年は、今の今まで、女から演技の気配が離れていないのに気づいていた。

 嘘は言っていないが、決して真実を言っているわけでもない。先程から、そんな詐欺師の常套手段を見せられ続けているような感覚が、少年を襲っていた。


「私があの人の活動に口を出した時には、もう手遅れで。あの人は壁のすぐ傍に、谷よりも深い溝を作って、私を拒絶したわ。無関心、なんかじゃないのよ。あれはれっきとした嫌悪感だったわ」


 ほら、だってその証拠に。


「だから絶対にあの人に私を考えさせないで。いい?」


 少年の目には、女は笑っているようにしか見えなかった。


 * * *


 男の目の前には、死が繰り広げられていた。


 先程から体の震えが止まらない。思考が纏まらない。もはや耳は、きちんとした聴覚を失って、視線と共に、目の前の死に釘付けになっていた。


 ――――死にたくない。死にたくない、死にたくない!


 でも、もう。誰も彼を死から掬い上げる人間はいなかった。


 全て彼が拒絶したのだから。


 * * *


「いいわよ、もう。そんな頓珍漢なことを言うなら、答えを教えてあげる」


 女は涙一滴すら流さないまま、呆れたように、観念したように言う。


「彼はね、そういう男なの。天邪鬼、って簡単に言い表せばいいかしら。自分でも自分が間違っているのは解っているのに、それを認める事が出来なくて、自分が正しい、って思いこむことでしか自分を保てない男。それでいて現実っていうものが嫌いだから、なんでも捻った事実を正しいって思いたがるの。だから、死を遠ざければ遠ざけるほど、あいつはいとも簡単に死に近づいていくのよ。彼はそういう男なの」


「……はあ」


 答えになっているような、答えになっていないような。そんな答えを聞かされ、少年は出来の悪い子供のような顔をするしかなかった。


「私もね。昔は彼に騙され続けたわ。言葉の達者な天邪鬼ほど、人を不幸にさせる存在はいないのよね。だから私は復讐した。彼にとって最も苦しい死を、彼に与えてあげたの」


 続く女の言葉にも、少年は了解することはできなかった。数日前からのもやもやとした感覚は、今だに胸の中央にあった。


 だが。


「だからね。私は勝ったのよ。彼に」


 その言葉だけはなぜか、女の心の奥底から出てきたのだろうと、すんなりと少年の胸に落ちた。


 * * *


 ――――ふざけるなよ。


 男は、そして死を手に取った。その頃には彼にも、これが誰の仕業によるものかわかっていた。


 ――――ふざけるな。あいつは、あいつが、まさかここまでするような女だとは思わなかった。


 自分は妻に嵌められた。そして今、妻の思いのまま、己は死を受け入れようとしている。否、最早死ぬしか選択肢がない状況であった。男は全く死にたくなかった。


 ――――クソが。クソが。あいつは俺よりも狡猾だった。あいつは俺よりも生きるのだ。きっと今だってあいつは悲しむ演技でもして、昼間は市場にのうのうとでかけているんだろう。クソが。


 男は限界の脳内で、最期に明瞭な考えが生まれていた。


 ――――だが、お前が演技などと言う虚構をもって俺に勝とうと言うなら、俺も手段を択ばないぞ。幸いにもそれだけの人徳はあった。お前に復讐するだけの、虚構フィクションを持つ人間が、俺の傍にはいたのだ。


 男は死に口を付けた。周囲では男の仲間が、まじまじとその様子を見ている。


 ――――きっと、俺はこの世で最もえらい善人になるのだろうな。そして、お前は俺を殺した原因の一端として、悪妻として、糞尿でも弄んでる様子を描かれるだろうな。ハハ、ハハ。


 だから。


 ――――俺は絶対に、お前に勝つ。


 そうして賢い男ソクラテスは、毒の盃を飲んだ。

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