きっと、うまくいく? ②ビッグ・ブッダのいる公園
ノディの旅行会社のデリー観光で周ったところは、王族が使っていたらしい古い宮殿(名前は忘れた)、蓮の花の形をした寺院「ロータス・テンプル」(現代建築としてはとても面白い)、ヒンズー教の大きな寺院(お参りすると、おでこに赤いちょぼの粉をつけてもらえた。インド人がやっているあれだ)、ビッグ・ブッダのいる公園、の四つである。
はじめの三つは、正直面白くなかったので、ここには詳しくは書かないことにするが、最後の「ビッグ・ブッダのいる公園」というのがどうしても気になって、最後までつきあう(?)ことにした。
ビッグ・ブッダ。
その言葉のあやしい響きに魅せられながら、車中、想像を膨らませていた。ウルトラマンのような巨大な仏陀の像が市民を見下ろす、ユニークな公園だろうか。でもぼくのイメージでは、仏陀は金ぴかの「涅槃像」のように横たわっている、という感じだ。そういえば、日本では高さ何十メートルもの巨大な仏像(巨大仏)が突如風景に現れたりして、われわれを驚かせたりするが、インドにもそれがあるのだろうか。ちなみに、我が石川県には「加賀大観音」という観音様がおわしまして、その足元にはテーマパークが広がっているというので、いつか行ってみたいと思っている。いずれにせよ、どれほど大きなものだろう。旅人の直感として、何か妙なものが見られそうだとわくわくしていた。
じつは、前の三つの観光スポットのあまりのつまらなさに、「さっきの旅行会社に帰してくれ。ツアーについて問い合わせたいことがある」と、ドライバーにわがままを言い、一度帰ってきたのだ。どうせ無料のツアーだからそれくらいしてもいいだろう。暑さが嫌になり、休みたかったのもあるが、旅行会社に帰って、ぼくはトレッキングシューズや防寒具、その他のアウトドアグッズなど持っていない、買う気はないと伝えたかったのだ。そのことがずっと気がかりで、もやもやとした不安が頭の中にあり、旅を楽しめないでいたのだ。スタッフにそう伝えると、心配ない、全部まるまる借りられる、お前は何も用意しなくていい、と言ってくれて、ひと安心。さあ、次はビッグ・ブッダを見に行って来い! と、そのとき初めて「ビッグ・ブッダ」の名を聞いたのだった。
車で二十分ほど、郊外に向けて走ると、おもむろに公園の駐車場に入った。何十メートルもある巨大仏なら見えるはずだが、そうではないようだ。だとすると、やはり涅槃像だろうか。ドライバーが駐車料金を払い、おれはここに残る、好きなだけ見てこい、と言われ、ぼくは「ビッグ・ブッダ」に向けて歩き出した。
入ってみてすぐにわかったが、ここはよく知られた観光地ではない。観光客らしき人もほとんどいないし、ましてや、外国人の姿などひとつも見当たらない。明らかに市民の憩いの場である。そんな「庶民のインド」感満載の空間に一人放り込まれたときの開放感と不安といったら、これこそ旅の醍醐味だろう。ぼくは自由で、だからこそ不安で、だからこそ楽しいのだ。
かなり広い公園だが、そこここにはリスや名前も知らない小鳥などの小動物、木陰で睦んでいるカップルや、読書する青年、散策する老人たち、大樹の下の広場には、何やら宗教的なありがたい説法の催しが開かれている。その広場の隣にはオープンカフェがあり、そこで休憩したかったが、ぼくはまだビッグ・ブッダを目にしていない。ぼくはビッグ・ブッダを見にきたのである。それを確と見てからにしようと意気込み、公園を探索することにした。
散策していると、やはり市民の視線が気になる。この典型的日本人の白い顔がどうしても浮いてしまうらしい。それを彼らの視線からも感じるし、自分を客観視してみても十分納得できるのだ。しかしそのいづらさと同時に、全くの異空間にいるというわくわく感が湧いてきた。
考えてみれば、よくある観光地では外国人の姿などむしろ自然で、ここのように異物として扱われることはないといっていいだろう。しかし、例えばぼくの暮らすような田舎の、地元民百パーセントのような地に異国情緒たっぷりの人間が一人いるだけで、彼は(しかたないことだが)視線を集めてしまうのである。そう自分に置き換えてみると、視線をやってしまう気持ちがわかるので、いづらいが、しかたないとは思うのだった。今は自分がその「異国情緒」なのである。異国情緒を味わうために旅に出た者が、逆に自分が異国情緒になってしまうという現象がここでは起きる。それこそ旅だ、とぼくは思うのだ。
だからこそ、公園で憩う市民に「ビッグ・ブッダはどこですか?」と聞くのがどうもは憚られるのである。どことなく気がひける。でも勇気を出してみようかと思案していると、〈Statue of Buddha〉の案内板を発見した。曖昧な方向しか指していないが、とりあえずその方向に歩くとこにした。
しばらく迷いながらも歩いていくと、それらしきものが。簡単なゲートを通ると、体長五メートルほどの金ぴかのブッダがいた。結跏趺坐を組んで、まぬけな表情で彼方を見つめている。
うーん。思っていたより小さい。表情もどこか威厳のないどこぞのインド人のような顔だ。いや、ブッダはインド人なのでそれでいいのだが、あまりありがたさは感じられなかった。日本人の知るブッダはあまりに神格化されすぎて、われわれの仏陀のイメージが過剰に神々しくなっているのかもしれない。インド人にとっての仏陀がこうなら、こうなのだろう。人間仏陀、ここにあり。
その近くで、インド人青年三人組と出会った。石碑のようなものの前にたむろしていて、ぼくと目が合うと、
「この文字は何なんだ?」
と聞いてきた。石碑にはヒンディー語の文字ではない、特殊な文字が彫られていたが、それはぼくが去年チベットで見た文字と同じだったので、
「チベットの文字かなんかじゃないですかね」
といったふうなことを言うと、
「お前はネパール人か?」
と返す(他でもネパール人に見られたことが何度かあった)。そしてぼくの持っていたカメラに興味を示し、「撮ってくれ」と仕草してきたので、しかたないからポーズを決める彼らを撮ってあげた。こういう人懐っこいところがインド人にはあり、そこがぼくのインド好きの理由のひとつだ。彼らは笑顔で去っていった。
ああ、楽しかった。
唯一の目的である「ビッグ・ブッダ」をありがたく拝観したところで喉が渇き、冷たい飲み物でも飲みたくなってきたので例のオープンカフェに入った。頼み方もよくわからないまま、うろうろしていると、店員に声をかけられて、アイスコーヒーを注文。店員なのか客なのかよくわからない人も大勢いて、ややこしい。
しかし楽しみにして出てきたものが、どう見てもアイスコーヒーではない。グラスに入ってはいるが、冷たいというかちょっとぬるいし、ミルクと砂糖たっぷりのカフェラテのようなものにチョコレートソースまでかかっていて、大変甘くてくどい。乾いた喉にこれは堪える。
そうだ、そうだった。
インドのコーヒーはこうだったのだ。ミルクと砂糖をたっぷり入れるのが当たり前で、ブラックなどという選択肢はなく、無条件に甘くてくどい「コーヒー」がでてくるのだった(チョコレートソースがある場合は初めてだが)。そのことをすっかり忘れて、ちょっと痛い失敗をしてしまった。ビッグ・ブッダを馬鹿にした罰だろうか。スイーツのつもりで飲み干して、またインドの日に当たりに歩き出した。
しかし、彼はなぜぼくをこんなところに案内したのだろう?
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