振り向いてはいけない

あおやま えこ

第1話

 通いなれた通学路。

交差点を抜けたところで違和感に襲われた。

つい今まで人で賑わっていたはずの通りが何故かシンと静まり返っている。多くの生徒達が登校するこの時間、学校へと続くこの道が静かなわけがない。

 ぞわりと背筋に寒気のようなものが走る。ここは、ダメだ。特に後ろ。後ろを振り向いてはいけない。本能的にそう感じた。逃げなくては。少しでも後ろのナニかから距離をとらなくては。誰もいない不自然な通学路をひたすらに走る。少し先にある学校へ。

 一歩進む度に体温が下がっていく感覚があった。走っているのに刻一刻と冷えていく身体。

どれだけ走っても走っても走ってもたどり着かない学校。走る速度にあわせて流れる風景はよく見知ったものなのに、どうして。鳥肌の立つ腕をさすりながら辺りを見渡す。

「なんで……」

 あれだけ走ったはずなのに、そこに見えた風景は走り始めた地点のものとほとんど変わらない。唖然としている間にも体はどんどん冷えていく。引き攣る喉のせいで呼吸もままならなくなってきた。助けを呼ぶにも声がでない。声が出たところで、誰もいない。

 ぼたり、ぼたりとこぼれ落ちた冷や汗が地面にシミを作り消えていった。

 本当は走り出す前から気付いていた。道にだけではなく、いないのだ。人が。家のなかにも、建物のなかにも、店にも。人の気配がない。住宅街だというのに生活音が一切聞こえない。生き物がいない。音がない。色がない。

 いつも聞こえる何処かの飼い犬の忙しない鳴き声も、鳥の羽ばたく音も、鮮やかな空の青も、綺麗に咲き誇る花の色も匂いも。なにもない。ただ、無機質に。見知った風景によく似たモノクロ写真の世界が目の前には広がっていた。

 そんな意味のわからない世界に独りぼっちの自分。夢にしても随分と質が悪すぎる。


不意に感じた視線、視線、視線、視線


 なにもいない世界の中で感じる視線。大量の何かに見つめられている様な嫌な感じがした。

逃げなくては。嫌な気配のする後ろから。この大量の視線から。

 でも、どうやって?走っても走っても全然先には進めないのに。後ろには相変わらず嫌な気配が漂っている。振り返ってはいけない。それだけはわかる。後ろには、見てはいけないナニかがある。


 ザワザワザワザワ


 突然、大勢の声が聞こえはじめた。どれも言葉としての形を成していないただの音。逃げないと。そう思うのに、竦んでしまった体は全く動かない。そして、その大量の音に飲み込まれ意識が遠のいていった。


◆◇◆


 重い瞼を開くと、目の前にはいくつもの影があった。人に似た形をした大量の影が。人に似ているのにぼんやりと歪み視認が出来ないその姿は不気味なモノでしかない。

 これは、なんだ。うまく回っていなかった頭が回転を始める。そして、現在の状況を思い出した。人一人いない、意味のわからない世界にいることを。

 あの気持ち悪い音の主はおそらくこの影達なのだろう。大きな口がパクパクと動いていた。

 思わず声をあげそうになる。けれど、その悲鳴は何かに邪魔をされて出てくることはなかった。

「あ、ぐっ」

 その代わりに、意味のない音が自分の喉から漏れるのを感じた。息が苦しい。胸が痛い。胸だけじゃなく、身体中が痛い。手の指先が冷えていく感じがある。冷える四肢は、体は、ピクリとも動かない。


ザワザワザワザワザワザワザワザワ


 沢山の影達からぶつけられる声。相変わらず意味のわからない音の嵐に襲われている。ぐわんぐわんと頭に響くその音が気持ち悪くて仕方がない。唯一分かっているのは、その大量の言葉たちが全て自分に向かっているという事だけ。状況はより悪くなっていた。

『…………う……………か』

『い…………あ………』

『きゅ…………………し………………』

 所々聞こえる発音を追ってみてもやっぱりそれは意味のわからない文字の羅列でしかなかった。

 沢山の影の中から手が伸びてくるのが見える。逃げなければと思うのに体は動かない。体温はどんどん下がっていく。


「たすけて」

 声にならない悲鳴が溢れた。

その瞬間、腕か、肩が、化け物達に強く捕まれた。チカチカとした赤色が瞼をさしてくる。

 あぁ、終わりだ。やりたいこともまだ沢山あった、やり残した事も沢山ある。

 いやだ。死にたくない。助けて。動かない体で必死にもがき、音のでない喉で必死に叫べば叫ぶほど影達による拘束はきつくなっていく。

「だ………………お……………て」

「………………く……さ……」

 相変わらず意味のわからない音を出しながら、大きく開いた口が近づいてくるのが見えた。荒々しい自分の息遣いが頭に響く。

 まとまらない頭の片隅で死を悟った。この化け物達に殺されるのだ、と。抵抗するだけ無駄なのだろう。ならばせめて苦しくありませんように……。全てを諦めてそっと目を閉じた。


◆◇◆


 不意に、誰かの笑い声が聞こえた気がした。

ゆっくりと目を開いてみれば、先程の化け物達はいない。……生きている。先程は動かなかった手足が動くのを確認した。

「生きてる」

 喉もちゃんと動く。

 この耳に聞こえるのは、ザワザワとした意味のない音ではなく、人の声だった。

 相変わらず人の姿は見えない。けれど、街に音が、色が、匂いが戻っていた。あぁ、生きてる、生きてる、生きている!

 人の姿は見えないけれど、いつもの日常がすぐそばにある。それなら、きっと戻れる。いつも通りの毎日に。

 流れる涙もそのままに、ふらふらとまだおぼつかない足でただひたすら声のする方を目指す。きっとそこにこの嫌な世界からの出口があるから。


「え、何?」

聞き覚えのある声が聞こえた。幼稚園からずっと一緒に育った親友の声だ。親友以外にも複数人の声がする。他の友達と話をしているらしい。見えないけれど、ここに日常がある。嬉しくなって無心に手を伸ばす。しかし、その手は空を切った。仕方がない。聞こえるのは声だけで、どこに誰がいるのかまではわからないのだから。

「事故だって。さっき話してる人がいた」

「事故?」

「そこの交差点で。うちの生徒が、ひっ!?」

 めげずにさ迷わせていた手が何かにあたった。……触れる。触れる!

「どうしたの?」

「いや、なんか背中に……」

「何もないよ?」

「え……なんか触られてるみたいな感覚があるんだけど」

「気のせいじゃない?」

 気のせいじゃないよ。ねぇ、気付いて。

「そうかな」

 どれだけ声を出しても、誰にも届かない。

「ちょっとまって?行くの?」

 絶望を感じる自分を無視して、親友達は動き出した様だ。

「なんか気になって」

 そういう親友は、嫌な気配のする後ろへ向かおうとしている。

『そっちは駄目』

 届かない声で必死に止めようと試みるけれど、親友は止まらない。親友の声がする方に手を伸ばす。振り返っては駄目だ。そっちには見てはいけないナニかがいる。

 親友を止めるために振り向いた先に見えたのは、交差点。それから赤。チカチカと点滅する赤だった。あの赤を知っている。

 親友達は吸い寄せられる様に、その赤へと近付いていった。


救急車のランプ

道路

ボンネットが潰れた乗用車

それらから少し離れた所に落ちている壊れたスマホ

スマホの近くに落ちた鞄


 すべてが赤く染まっていた。見覚えはある。だって、あれは……あの落ちている鞄とスマホは自分の物だ。

 見ては駄目、見ては駄目、見ては駄目、駄目駄目駄目駄目駄目だ。それはわかっているのに。その傍らに落ちた、もうひとつのモノへと、吸い込まれるように視線が動く。

 自分がいた。

 真っ赤に染まる自分が。


 世界に人が戻ってくる。

 真っ青な顔で唖然と事故現場を見ている親友と友人達。

 ざわざわとうるさい野次馬。

「聞こえますか!」

 倒れる自分の傍らで大きな声を出している救急隊員。

 

 点滅する赤。たくさんの人、人、人。

倒れている『自分』の回りにいる人達が、倒れた『自分』に向かって大きな声で呼び掛けている。

その光景が、さっきの影と重なる。


 周りにいる人達を避けて『自分』に触れた。

「冷たい……」

 体温が失われかけている体はひんやりとしていた。

 ない。ない。帰れない。自分の体はここにあるのに。帰る方法がわからない。触れる事は出来るのに、それだけだ。そうしている間にも体は更に冷たくなっていく。

 なんで、なんで、なんで、なんで、なんで!

 見知らぬ記憶が頭のなかに流れ込んできた。パニックになる頭に、ガツンと殴られたような衝撃が走る。流れ込んできた記憶。それは間違いなく自分のものだった。思い出したくない。やめて。そう望んだところで、勝手に再生される記憶は止まらない。


◆◆◆


 今日はいつもより、起きるのが遅かった。寝坊に焦って、いつもよりバタバタと朝の支度をして、いつもより少し遅い時間に家を出た。急げば遅刻にはならないだろう時間。いつもの通学路を走り出す。

 交差点の信号に捕まって仕方なく足を止めた。スマホで時間を確認する。これなら十分間に合う時間。もう少し急げば親友達とも合流できるかもしれない。そう思いながらスマホを仕舞おうとして、メッセージが来ている事に気付いた。信号が青に変わる。メッセージを確認しながら足を踏み出す。

『ねえ、危ないよ』

 誰かの声が聞こえた気がして振り替える。

「え……?」

 そこで1度記憶が途切れた。

 今目の前にいる倒れた自分。ひしゃげた車。それを見れば、その後何が起こったのかは考えるまでもない。


◆◆◆


 『自分』に応急処置を施している人の空気が諦めに変わっていくのがわかった。

「嘘……嫌だ……助、けて……」

 救急隊員さんに縋っても結果は変わらない。少し寝坊をしただけ。少し焦っていただけ。横断歩道で少しよそ見をしただけ。その結果がこれだ。

 戻らない時間。動かない体。もう帰れない。どんなに泣いても叫んでも戻れない。

 なんで……いつもと少しだけズレてしまっただけなのに。なんで……

「い、ぁぁ、うあああぁぁぁぁぁ!」

生きる親友の声と、もう誰にも届くことのない『ナニか』の慟哭が重なった。


◇◇◇


「ねえ知ってる?あの交差点の話」

「交差点?」

「あの交差点で数年前に事故があったでしょ?」

「うん」

「呼んでるんだって。その時事故に遭った生徒が」

「え?」

「『交差点で声をかけられても、立ち止まったり振り返ったりしてはいけない』……って、そんなに怖がんないでよ」

「だって……」

「私も先輩に教えてもらったんだけどね。あぁ、たしか着信に反応するのも駄目だって言ってたかな。絶対に交差点の中では反応しちゃだめなんだって。反応すると連れていかれちゃうらしいよ」


キキーッ!


遥か後方。それこそ噂の交差点の方で、車のタイヤの擦れる大きな音がした。

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