24:世を去った人魚の夢

 たとえようもない破滅がロハノにもたらされるまでには、まだ日があった。その日が訪れるまでのいくばくか、彼は比較的平穏に過ごすことができた。


 パンドクラはロハノにさんざん指導された通りの演技を副学長やデーデンスクの前で見事にやってのけ、彼らの疑いを完全に払拭することに成功した。


 ほんの用事のためロハノが医務室を訪れると、やけに多くのプリーストが詰めかけていた。あちこちに血が飛び散っていた。窓の外を見ると死神が手を振った。


 血の持ち主はベッドの上に横たわり、今しも来る迎えを人事不省で待っていた。


 まわりの誰もその学生を救えなさそうなのを見て取ると、ロハノは研究室に帰って魔法陣を描き、七二柱のうち適当な悪魔を呼び出して、医務室に行ってけが人を癒やし、死神を追っ払うように命じた。


 悪魔はすぐ帰ってきて、命令を無事に遂行したこと、死神がだいぶ怒っていたこと、プリーストたちは自分こそが命を救ったのだと互いに言い争っていたことなどを伝えた。


 そして揉み手をしてみせた。


「あ。そうね。支払い?」ロハノが明るく訊ねた。


「ええ。ええ。そりゃもう!」悪魔がほっとしたように笑いかけた。


「最近はこれを渋るサマナーが多くて嫌になります。約款すら読まない方増えたようで……」


 ロハノは側の棚からなにやらオレンジ色の光で満たされたフラスコを取り出し、丸ごと悪魔に手渡した。


「なんですかこれ」悪魔が怪訝そうにフラスコを見つめている。


「なにって。あなた悪魔なら見てわかるでしょ。わたしの魂ですよ」


「魂。これが。へえ」悪魔はしばらく矯めつ眇めつしていたが、やがて首を振った。


「……ま。よしとしましょう。確かにお代はいただきました」


「そう来なくちゃ!」


「かなり疑わしいところではあるのですが。ね。まあ……」悪魔はちょっとロハノを見た。なぜか身震いをした。


「いや。やっぱりごねるとこっちの命が危ういですね」


「どういう意味ですかそれは」ロハノは不機嫌に言った。


「あっ。いえいえ何でも。えっへへっ。どうぞ気を悪くなさらず。それでは」


 悪魔は硫黄の臭いのする煙に巻かれて消えた。しばらくその臭いは消えず、ロハノは夜まで窓を全開にしておかなければならなかった。


 そして間の悪いことに、その日は一日中どしゃぶりなのだった。


「でもうまくいきました」ロハノは満足そうにうなずいた。


「悪魔すら騙せたようで。ま。詐欺は向こうさんの大得意とするところですからね。こっちから仕掛けても文句を言われる筋合いはないでしょ。たぶん」


 ロハノが悪魔に渡したのは自分の魂などではなかった。彼がそれに精巧に似せて作り上げた、人工の魂だった。


 その研究は彼が教授になった理由のひとつだった。冒険者として過ごしていると、こうしたものに割く時間も設備も整わないのである。


 ますます季節は夏めき、空を飛ぶ<夏竜>や<涼みカモメ>、盛んに鳴き立てる<机上蝉>など、風物詩というべきものが今年もキャンパスを埋め尽くした。

 

 それとは関係ないことだが、その頃から学生が血を吸われるという事件が起こり始めた。


 犯行は夜、人気のない場所で行われるようで、被害者は一様に犯人の顔を見る前に失神してしまったため、事件の解決は困難に見えた。


 ただ、ロハノは犯人を知っていた。自分の講義を受けている10人のうちに、明らかに毎回血の匂いを漂わせている少女がいたからだ。


 ペネスフィアンというその学生がまた夜に寮を抜け出し、見つけ出した学生の首筋に素早く齧りつこうとした時、後ろから襟首を引っ張る力が働いた。振り返ってみると、ロハノだった。


「わたしを教会に突き出すのでしょう? 先生」


「いや。べつに」


「……」にべもない言葉に彼女は言葉を詰まらせた。


「……じゃあなんで捕まえたのかしら」


「理由を教えてもらおうと思って。吸血鬼少女の暗躍。これが気にならぬ人がありましょうか」


「そう言えば、吸血鬼は人間には人気があったわね」ペネスフィアンが不可解そうに首を振る。


「他の種族全部からはひどく嫌われているのに……なぜかしら」


「いろんな理想が詰まっておるからじゃないですか。不死。不老。怪力。美貌。華麗。貴種。誇り。こうしたものへの憧れが我々は強いのです」


「この古城の元の持ち主だという吸血鬼はわたしの父上でね……」ペネスフィアンは校舎の尖塔を見上げた。


「その父上を馬鹿にするようなことを言うのを見かけると、いい、他のときはなんともないのよ、けれどそうした時だけ、ひどく怒りがこみ上げてきて、それはその人の血を吸うまで収まらないのよ」


「その誇りの高さが吸血鬼を吸血鬼たらしめてはいるのだけれどね、やっぱり、ほら、勝手に血を吸うのってね、わりかし迷惑っていうか、あの」


「もうやらないわ」ペネスフィアンがきっぱりと言った。「……話を聞いてくれそうな人も見つかったしね」そう言ってロハノを見た。


「それって誰?」ロハノはわけがわからなさそうに言った。

 

 講義が終わるとたくさんのごみが出た。「総合魔術論」ではあまり出ず、出るとしてもたやすく灰にしてしまえるようなものばかりだったが、他の講義ではそうはいかなかった。


 なかでも戦闘系の技能を教える講義はふんだんだった。


 使い物にならなくなった剣や槍や弓や斧や鎌や鞭や刀や盾や杖や鎧や棍棒や槌や兜やゴブリンの死体が、毎回の講義が終わるたびに山のように出た。


 たいていの講義はちゃんと後始末をつけていたが、デーデンスクやル・ゲやカゴロシに代表される教授の一部は、べっとりとした血のついた死体の処理を特に嫌がって、キャンパスの裏手にある池にまとめて突っ込んでいた。


 毎日毎日たくさんの血と肉を吸い込んだ池は赤黒く濁り、元の色がどのようだったか誰にもわからなくなるまでに穢されていた。


 ロハノの研究室の窓からはちょうどその池を見ることができたため、毎朝彼はカーテンを開けるたびに地獄が顕現したようなその光景とご対面するのだった。


 ある日思い立って、彼はその池を掃除した。池の底に沈み込んだ腐った肉をつまみ上げ、何人もの精霊を呼び出しては水の浄化にあたらせた。


 日が昇ってすぐに始めたが半分も終わる前に月が出た。


「やあ。よくやってるね」月が天空から話しかけてきた。「手伝おうか?」


「ありがとう。ちょっとばかし頼むよ」ロハノはそう言ってから心配になった。相手はなにしろ宇宙にいるのだ。


「あのう。この声聞こえてますか」


「聞こえるきこえる。ようし。じゃあ見てな」


 そう言うと月は、普段は地球いっぱいにまんべんなく散りばめていた月光を池の面に集めた。


 真っ直ぐに光の柱が立ち昇り、それはクィクヒールがある大陸のどこからでも見えるくらいに高くまばゆかった。


「真っ暗だ」ロハノの実家で妹がびっくりした。


「すっかり光がここに集まってるからね」


 月はロハノにそう教えた。いま月が照らしているのはこの池のみであり、この世の他の場所は真の暗闇に包まれているのだった。


 しばらくしてロハノが目覚めると、すっかり明るい、月と星の輝く元の夜に戻っていた。


 疲れのあまり見た夢かと思われたが、池はロハノにすらなし得なかったほど美しく澄み、誰もが予想できかねるほど純粋なるかつての姿を取り戻していた。


 ロハノの側に誰かが立っていた。地上の国の生き物はとうていまとい得ぬ俗世を超越した佇まいから察するに、精霊のようだった。


「おかしいな?」ロハノは声をかけた。


「あなたみたいなひと、呼び出した覚えはないのだけれど」


「わたしはこの池に宿る精霊です」その人は言った。


「池をきれいにしてくれてありがとう」


「いや。なに。まあ。そんな。礼を言われるほどではなくって」ロハノは頭をかいた。


「ただ、講義がなかったもんだから……」


「ぜひお礼を差し上げたいのですが、よろしいですか?」


「ええ。くれるってものならダイナマイト以外なんでももらえと父に教えられました」


 彼女はみずがめ座をあしらった小さな指輪をくれた。研究室に帰って窓から差し込む月光に当てるときらきら光ってきれいだった。


 それを見ているうち、ロハノは眠くなり、眠った。たくさんの人魚と泳ぐ夢を見た。人魚。絶滅したものたち。どこへ行ったのだろう。

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