5:達人の骨
予想だにしない展開に心拍数が即刻入院のレベルにまで高まったロハノであったが、ひょっとしたら少しくらいは「総合魔術論」を聞いてみようと思った学生がいたかもしれないと期待に満ちた手を教室の戸にかけ開くもそこにいたのは変わらず選ばれし9人である。
ロハノはがっかりした。しかしあれくらいで魔法の人気が復活するなら苦労はないだろうと納得できはしたのだった。
昼、少なからず昨日の講義で目立ってしまったため、学生が利用者のほとんどである通常の食堂へ行く気にはなれず、彼は教職員用の食堂へ向かうことにした。
クィクヒール大学には多種多様な種族が在籍しているため、当然食堂のメニューもそれに対応しようとして多岐にわたる。
例えばビーリャン山地に住まうドワーフは絶対に故郷の岩山で採れた岩しか食べようとせず、彼らがどこかへ旅をする際にも食料として岩石の塊を馬車で運ぶほどの徹底ぶりだった。しかしそんなものを寮の自室に設置されてはいつ床が抜けて階下の学生に圧死の憂き目を見させてしまうかわからないため、学食ではちゃんと件のビーリャンの岩も提供されているのだった。
種族が多様なのは教員も同じで、人間のロハノなどはむしろ、エキセントリックな身体的特徴や服装のものも少なくない教授の中では、比較的目立たないほうだった。
トレードマークと言えるのはせいぜいなぜか四六時中着ている白衣のようなローブのみであり、この大学においてそれくらいの奇抜さは、世界の海全部を埋立地にしたって足りないほどありふれているのだった。
天井近くに掲示されたメニューをじっくりとロハノが眺めていると、白い頭蓋骨がふらふらと浮遊してきて肩口にがぶりと噛み付いた。
「いい加減飽きたらどうですか。けっこう痛いんですがこれ」ロハノは振り向きもせず言った。
このようなことをする教授をひとりしか彼は知らなかった。というのもこの大学に在籍する白骨死体の教員はそのブルーノひとりのみであったためである。
「どうしたんですか。元気ないじゃありませんか。いけません。いけませんよ。まだご存命で、しかもあなたのような若い人がそんなに落ち込んでいたんじゃあ」
肩から外れた頭蓋骨はかくかくと顎を動かしてしゃべり、背後からは首のないスケルトンがやって来た。これが昼でなく夜中であり、食堂でなく墓場であったならばそれなりに慄然とするシチュエーションであったかもしれない。
「死体は気楽そうですね」ロハノはうつろな目を向けた。
「たまには、わたしもお仲間入りさせていただきたいもんです」
「承知した」
そう言うが早いかブルーノは抜刀し時間すら追い抜くような刹那的斬撃をロハノの土手っ腹めがけて見舞った。
しかし五臓六腑がお目見えかと思われたその瞬間にはもう彼の姿はかき消えていて、ブルーノがあたりを見まわすと、ふたつのトレイを並べてもうテーブルについているのだった。
「ああ。今日もダメでしたか」残念そうに首を振りながらブルーノはロハノの向かい側に座った。トレイの片方には彼のための料理が載せられていた。
「あっ。これはご親切にどうも」
「毎回やられたんじゃあさすがに慣れます」節約のため量ばかりはあるパンがゆを注文していたロハノが言った。
「一番惜しかったのは、あれですね、初対面の時でしたか。あのときは度肝を抜かれましたよ。ま、ちゃんと戻してくれたのでよかったですけれど」
「ええ。あなたはわたしを発狂した亡者を見るような目つきで見返しておりました」
ブルーノは愉快そうにけたけたと笑った。なぜ声帯もない骨の喉で声を出せるのかは本人にも周囲にも誰にもわからないのだった。
「ま。無理もありません。わたしの癖でついついおふざけを」
「おふざけにならない場合がほとんどだったんでしょうが」ロハノは食堂の窓から見える赤茶けた広場に目をやった。そこには古びて苔むした墓がぎっしりと立っていた。
「だからあなた、処刑されるはめになったんですよ」
ブルーノは初対面の相手にはとりあえず斬りかかっておくという癖を生前から持っていた。本人によればこれが命取りのピンチを救ったことも多かったらしいが、ロハノは少なくともそれの三倍は命取りのピンチを招いていたにちがいないと睨んでいた。
まだ体に肉がついていたころ、ブルーノは町中でたまたまさる王子が従者を引き連れて歩いているのを見た。
この王子はわがままで、税金のほとんどを遊蕩に費やしては、それで生じた不足をさらなる重税でもって埋め合わせようとする絵に書いたような悪党だと国民からはさんざんに言われていたが、剣の腕前だけは確かだとも言われていた。
そこでこのブルーノ、事の真偽をせっかくの機会だからと確かめたくなり、勅令だとか何だとか言って商店から食べ物を強奪している王子に向かって、
「これはこれはこれはこれは」
などと声をかけざまいきなり斬りかかったのだ。
結果として腕前にまつわる王子の噂は虚偽だったことが判明し、あえなく真っ二つになり真っ青な血を噴き上げるその死体の横で、ブルーノは無抵抗で束縛され、そのまま処刑台へと直行することとなった。
ロハノはこの話を初めて聞いたときから、ブルーノはその王子とやらがぜんぜんこれっぽっちも実力なんて持ってないことを見抜いておきながら、それでも斬りかかったのではないかと思えてならなかった。重税に苦しむもののなかには彼の知人友人も数多くいたはずなのだ。
しかしそれを問いただすたび、なぜかブルーノの耳が急に聞こえなくなってしまうため、真相はいまだにわからないままでいるのだった。
「おたくの新入生はどうですか。なかなか素質はありそうですか」
ロハノは自分が噛んでいるものが本当に人の食う物なのかどうかを疑う目つきでパンがゆの皿を睨みながら訊ねた。
「なかなかいいんじゃないでしょうか」
ブルーノは臓器から筋肉までがすべて骨組織でまかなわれている氷の沼の小魚をうまそうにぽきぽき食べながら答えた。
「あれならいきなりエルダートロールの隠れ里に放り込んでも八割がたが無事に戻ってこられそうです」
「それ。実際にはやらせませんよね」
ロハノは念の為訊いてみた。ただのトロールの名前なら子供を怖がらせるおとぎ話にもしょっちゅう登場するが、エルダートロールという名前には大の戦士さえも泣きわめかせる恐怖が込められていたのだ。
「冗談ですよ……また処刑されたんじゃたまりませんからね」
「もう一度死ぬなんてことあるんですかね」
「おや? それはあなたの専門なんじゃありませんか。わたしが訊きたいくらいですよ」
「ネクロマンスは専門外です。わたしにできるのはせいぜい遺品整理をしつつ遺族の気持ちを落ち着かせるくらいで」
「それはネクロマンサーの仕事じゃありませんよね」
「それはそうです」
「ちょっと、食堂で死体の話はやめてもらえませんか」咎めるような声が彼らの背後から聞こえてきた。
「……まあ、料理の材料も死体であるにはちがいありませんけれど」
「エルゼラン教授」ロハノの体も声も固くなった。「や。これはどうもすみませんでした」
エルゼランは「格闘術」の講義を担当する教授であったが、なんとなくロハノは彼女が苦手だった。なんとなく性格が高慢そうだと感じられたのだ。
いや実際はもっと単純で、ただ彼が前衛を務めるような肉体派の職業全般を苦手としているだけかもしれなかったが。
「いいのですか。いつまでも食堂でぐずぐずしていて」
彼女が手に持ったトレイからはなにやら緑色の湯気が立ち上っており、お世辞にも食欲が誘われる光景とは言い難かった。
「え。今日はなにかありましたっけか」ロハノはブルーノに目を向けた。
「さあ。わたしの命日は春季休業中に過ぎてしまいましたし……」
なぜか幾分しょんぼりとした様子で彼は答えた。ひょっとして命日を誰かに祝ってもらえると思っていたのだろうかとロハノはいぶかった。
自分でも何十回忌なのか記憶があいまいないんですよかかかかかかかとしょっちゅう笑っていたはずだったが。
「学生の数ですよ」エルゼランは顔をしかめた。「ロハノ教授、このままではクビが危ういのではありませんか」
「う」
ロハノは思わず首に手を当て、それがちゃんとくっついているかどうかを確かめた。よかった。ひとまず接着済み。
しかし彼女の言う通りこのままでは年度末本当にギロチンばっさり首ごろりの憂き目を見ることになるかもしれない。
「ま。昨今の風潮を見る限り、もう魔法の復権というのは無理そうですけれどね」
そう言って背を向けたが最後にロハノを見たその目は既に失職者を見るそれであった。
「せいぜい頑張ってください」
だから自分はこの人が苦手なのだとロハノは気がついた。彼ははげんなりとパンがゆの皿を見下ろしながら思った。
無駄だのせいぜいだの、いちいち言わなくてよいことをなぜ言う必要があるのでしょうか。そういう呪いが先祖伝来かけられているのでしょうか。だったら同情の余地ありですが。
「あの。ロハノ教授」黙って成り行きを見ていたブルーノが遠慮がちに骨の人差し指でロハノの腰をつついた。
「副学長が呼んでいます」
「げ」
ロハノは背中に決して溶けることのない氷の魔剣か何かを突っ込まれたような面持ちで振り返った。
そこにはゴブリンも顔負けの下卑た笑みをたたえた副学長がいて、生理的嫌悪をもたらす手の仕草でロハノへこっちへ来るように指示しているのだった。
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