偽神贄狩り

甲斐ミサキ

ぺちゃんこのグレゴオル・ザムザ

 どうしてちびっこはこういう事好きなんだろ?

 あれ、無邪気って言えるの、ホエザルみたく唇を震わせ歯茎をむきだして笑い、足を大きくもたげては、

 霧生ヶ谷桜から落下した親指ほどの毛虫を踏んづける。

 ランドセルに背負われている低学年児童らの足裏からぷちゃっと不快な破裂音。

『あるいはぺちゃんこのグレゴオル・ザムザ』

 桜並木の通学路。

 チリ、チリ……。

 まただ。いつもとおなじ首筋で何かが弾けるような視線。

 赤色をした、質量のある視線。

 恐る恐る振り返る前にはたと気づく。なんてことはなく。さっきの子供達がわたしを見ていたのだ、胡乱女子を怪訝そうに伺う仔達。

 いけない。

 振り向こうとするのがなかば癖になってきてる。

 リーダー格の仔かな。わたしのほうにてとてと駆け寄りニコリと笑う。あどけない顔立ちの童女だ。ギュッとしたにぎりこぶし。

「どうしたの?」視線を向ければもみじのような手のひらが開いた。

 ……青臭く黄色い粘液にまみれたそれは……。

 正体を悟る前ローファーが勝手に地面を蹴っていた。


 カ リ ヲ シ テ ル ノ オ ネ エ チ ャ ン


 奇妙に理知的な瞳を向け歯が抜けた彼女は確かに言い放った。

 

 逃げる背中に幼い心底無邪気な嗤い声がつんざく。

 

「だいたい、ひなは繊細にゃにょさ」

 依子が口をもぐもぐさせつつのたまう。曰く、絹漉しメンタル豆腐。

 ほっぺたに餡子つけたまんまのせりふじゃどうも有り難味がね。注意しても、だってここのが美味しすぎるから常考JKと咀嚼咀嚼アンド咀嚼。

「ぐぬぬ、返す言葉も……なひ」

 程よく焙煎された玄米の香り立つ萩焼を唇にあてる。

 放課後、甘味処で百合っとお茶飲み。

「ゲームのし過ぎ」依子がずびっとわたしのおでこを小突く。

「それはあんた」むにむにほっぺ聖人め。

「じゃあ、視線は気のせいな」あっさりと前言を撤回する依子。

「ゲームって言ったのはその子達はそうなんだよ。なかなか出てこないじゃん。聞き間違いならまだしも」

 カリなんて言葉はさ。

「難しい言葉知ってるよ最近の子。この前ギガガントマギカディアボロスの狩り中」けたけたと思い出し笑い。この辺で止めねば饅頭相手にだって喋ってるのが依子にて候。

「視線が気になるっていえば、こんな都市伝説知ってる?」

 友達の友達から聞いた話F・O・A・Fなんだけど……。

 瞳が妖しげに煌めく依子。碌でもないことを。そもそもこやつに相談を持ちかけたわたしの頭蓋を開頭すべき?

「云々閑雲」モフってやりたい。


「多いのは女性。自分の後ろに誰かいる、ストーキングされてるのでは、という気持ちに四六時中苛まれる」思春期に多くみられる症状と言えます。

 町で評判というメンタルクリニックに来てみれば、心療内科医師である男は少し口幅ったい物言いをした。冗談! 自意識過剰なんて言葉で解決しようとするっての。そんなんじゃない。わたしが言いたいのは。

 訪ねてはみたがすぐに回れ右したくなった。

 都市伝説、ね。トンカラトンとか今の子分かるのかねえ。

「僕以外の、今、この瞬間も視線を感じてますか?」

 不自然に太った四十がらみの先生は、体の凹凸に沿ってひん曲がった悪趣味な柄のネクタイに白衣から突き出た尻、なのに細っこい手足首。生っちろい肌とあいまってもっとも頭数の多い養豚種ランドレースを想起させた。ぶひんとわたしの顔やおっぱいを這いずりまわるねっちこい視線はハセガワヒナコという人間を値踏みしているかのよう。

「感じます。背中から首筋にかけてちりちりと焼き串でつつかれるみたく実際的感触です」

 だぶついた首の皮に半ば埋まっている顎を震わせて、我想他在点头たぶんうなずいてる。カルテにどんな診療録を記述しているのか、傍目では判読のつかない蚯蚓チューブワームののたくった様子を活写したあと、生あくびを一つ噛み殺す。

 あまりの調子に椅子から腰を浮かしたその時、

 ……振り向け……。

 声が聞こえた。

 見回すわたしを怪訝そうに見つめる豚先生。

「ふむ、何か?」

 ……振り向け……。

「あの、何か言いました」

 ――アゴラフォビア――

 不意に魔術師のまじないアブラカタブラみたいに目の前の豚が鳴いた。

「フォビアっていうのは恐怖性障害とでも言おうか、場合によれば今にも死んでしまいそうな恐怖心に囚われる。アゴラは場所、広場などのね。特定の場所や人波の中にいると精神に変調をきたす。ふむ、あなたは何処でもかしこだ」

 少しは医師らしいことも言えるじゃない。マズいスイッチが入ったのか嬉しそうな語り口はまったくの講義口調。

「ここで本題、スコポフォビアというやつだ。これは人に見られるのを畏れるのであって、視線を感じるのではない。すなわち見られることが絶え難い苦痛なのだ。あなたは振り向こうとするが振り向けない。いっそ振り返ってみたらどうです? 正体がはっきりするでしょ」

 幽霊の、正体みたり、枯れ尾花。

不安を抑制するお薬ベンゾジアゼピンを処方しておきますね。お友達とお饅頭も大いに結構、都市伝説大いに結構」大事にどうぞとの声とは裏腹に、ひしゃげたビー玉のような瞳は次のカルテを見つめており私への興味はきれいさっぱり消え失せていた。

 結局だからなんなのよ!

 ローファーの踵でリノリウムの廊下を思いっきり踏んづけた。

 視線が怖いんじゃない。振り向くのが怖いのに。

 世界が世界でなくなるのが怖いのに。

 長谷川比奈子という存在が無くなってしまうようで怖いのに……。


 偏執的な数学教師か誰かの性的ハラスメントかって思ったんだ。 

 でも、視線を感じるのは教室の中、いつもの通学路、シャンプーしてる時、何気なく入ったアジアン雑貨店の中。所構わず場所選ばず。

 いつでも振り向きたい衝動にかられてしまう。

 視線の主。

 もしかするとそれは人ではないかもしれない。

 そんな時思い出すのが、依子が口にした都市伝説。『桜並木の通学路、振り返ると真っ赤な鬼さんだるまさんがころんだ、なんちゃって話がね』

 脳味噌のバグとかくっだらない妄想だったらいいのに。


 始めはまだコートの手放せない季節で。

 振り向いて最初に目に飛び込んだのが、

 見知らぬビルディング街の谷間に沈んでいく大きくて真っ赤な太陽。

 やっと通学に慣れ始めた並木道ではなく……。

 はっ。

 我に返ればいつもの並木道。周りの人間は振り返りもせず、怪訝そうな表情も浮かべず、わたしとの関わりを避けるかに傍を通りすぎてく。

 太陽の他に見つけたのは小さな、ほんとに微細な芥子粒のような。しかしそれが何なのか。その正体に気付いたのは既に最近ではない。

 視線を感じるたび振り返るそれの繰り返し。

 その世界は例えるなら静脈から抜き取られる鮮血。粗く潰したトマト。古びた鉄錆。警告する灯火。革命前夜。神経を傾ぐ赤。赤、あか。

 燃え立つビルディングの壁、駈け抜ける風の匂い、瞬間佇むわたしの指先……。

 全てがあかかった。

 ふさわしい。もし終末がこの空間連続体の先に存在し、世界がそうなら。

 わたしを苛む視線だってきっと、赤い。

 人間の根源的恐怖とは畏敬の裏返しだという。彼我に見る世界の赫こそ畏敬の、通過儀礼の色。ふと、初めてショーツを濡らし太腿を不快に這う子宮から剥がれ落ちた肉片の赫を思い出す。

 何なの? 背中を、首筋をちりちりと穿つのは。

 幽霊じゃない。

 枯れ尾花でもない。

 ああ、やっぱ人じゃん。

 何度目かの逢瀬で気付いた。狂人の妄想なんかでなく。確実に何かがわたしの背後に迫っている。

 依子が言ってた。そんな時振り返っちゃダメ。何かわかんないけど人がいるって理解した時それは人じゃないんよさ。

 わたしはとっくに振り返っちゃってて。

 魅入られて、視線と一つの情景が結びついていた。

 返り見えるは欺瞞で偽りの隠世に浮かぶ太陽。

 旋回するおっきな舌状花弁がビルディングをざくざく切り裂いている。

 なんでみんな気付かないの。見知らぬ情景に。晄晄こうこうと吹き零れる男の双眸に。

 始終、気になっていたのはこの男が向けていた視線だったのだ!

 H.P.Lだっけ、誰そ彼に連環を繰り返すプロのインキュバスと言ったのは。

 ついに猜疑心が結実して男を凝視した。

 皆、実は識っていて気づいてないフリをしているって可能性は?

 まるで砂時計。

 振り返るたび彼我の世界に比重が傾いていく。

 芥子粒ほどの大きさだった男が振り向きを重ねる毎に大きくなってく。

 小指の爪ほどに、蠢く黄金虫の背ほどに、鞄から提げたテディベアほどに。男だと分かるほどに。表情が分かるほどに。

 波濤のしぶきのような男の口が大きく蝦蟇がまみたいに開いている。

 ううん、

 だんだん近づいているのはわたし? 

 振り向けば近づく。振り返らなければ近づけない。振り返らない。 

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