八月の氷のように

いがらし

八月の氷のように

 ある市で八月に行われた夏祭りは、盛大に始まり大混乱で終わった。

 市民公園の特設ステージで市長が挨拶したあとは、市内在住の有志によるダンスの発表会になった。ステージの周囲には屋台が並び、暑いなか大勢の人が行列を作ってラムネやかき氷を待っていた。


 そんななか、傷害事件が起きたのである。


 事件の唯一の目撃者は、市外からやってきた女性である。秘かに憧れている男性がイベントの特設ステージで踊ることを知り、遠くから足を運んだのだ。

 彼のダンスさえ見てしまえば、もうすることがない。彼女は、ぼんやりと周囲を眺めた。そして、薄暗い木陰にいる二人の男に気づいた。一人は黒い長袖のシャツを着て、もう一人は濃紺のスーツを着ている。

 暑苦しい格好だなあ、彼女はそう思いながら見ていた。二人は、言い争いをしていたらしい。嫌悪な雰囲気が、離れた場所の彼女にも伝わってきた。

 突然、黒い長袖シャツの男が、ズボンのポケットから光るものを出した。男がそれを振り回すと、濃紺のスーツの男は腕で顔を覆った。

 そして、彼女は見たのだ。赤い液体が空中に飛び散るのを。

 ……あの赤いのは、血? あの光るのは、ナイフ?


 彼女は悲鳴を上げた。


 イベント会場の見回りを行っていた警察官たちがすぐに集まり、黒い長袖シャツの男は取り押さえられた。彼はナイフを握りしめ、その顔が返り血で赤く染まっていた。

 しかし、濃紺のスーツを着た男はその場から立ち去っていた。体のどこかから出血しているのは間違いないのに、である。

 会場の出入口は即座に封鎖された。隣接する駐車場も、車の出入りが制限された。そして、警察官たちは懸命な捜索を続けた。にもかかわらず、怪我人は見つからなかった。

 八月の氷のように、溶けて消えてしまったのだ。


 黒い長袖シャツの男は、興奮のあまりまともに喋ることすらできなかった。

 そのため、警察官たちは濃紺のスーツの男からいきさつを聴こうと考えた。それに、怪我の治療も必要だろう。しかし、その被害者が消えたのだ。


 しばらくして、若い警察官が探偵の存在に気づいた。目撃者の女性に寄り添っていたのだ。声をかけると、探偵は怒りの表情を見せた。

「事情聴取したあと彼女を放置するなんて、ひどいじゃないですか」

 探偵の抗議に、若い警察官は謝罪する。

「申し訳ない。このような事件があって混乱しているんだ。ところで、あなたは探偵ですよね」

「そうです。私の顔をご存知なんですか」

「あなたは有名ですよ。数々の事件を解決に導いたそうですね」

「……まさか、事態の収拾をつける手伝いをしろというのですか?」

「被害者はかなり深い傷を負ったらしいから、すぐにでも保護したい。それなのに、消えてしまったんです。どこにもいない」

「ステージ裏の楽屋にもいない? 屋台にも? トイレにも?」

「隠れていそうな場所は調べました」

「そもそも、隠れる理由が謎ですよね」

「確かに」

 探偵は黙りこんで考えた。そして、声を上げた。

「彼女を涼しい場所へ案内してあげてください。私たちは、消えた被害者を探しましょう」


 探偵はすたすたと歩きだした。しかし、すぐに立ち止まる。八月の暑さで気分が悪くなったらしい。

「大丈夫ですか?」若い警察官が声をかける。

「平気。私よりも、被害者の体が心配です。怪我と暑さで、動けない可能性があります」

 歩きながら、探偵は話し始める。

「ナイフの男は、この暑いなか黒い長袖シャツを着ていたそうですね。もしかして、腕を隠す必要があったのでは」

「そのとおりです」警察官が答える。「手首のあたりまでタトゥーがありました。まあタトゥーを入れるのは個人の自由ですが、持ち歩いてたナイフで襲うくらいだから……」

「まともじゃあないですね。ヤクザかなにかでしょう。思ったとおりでしたよ。被害者が隠れる理由」

 探偵は歩き続ける。まるで、目的の場所がわかっているかのように。

「お巡りさん。あなたの立場で考えてください。もし、ヤクザとの付き合いがあって、しかもそのヤクザとケンカになったら? まあまあ大きなスキャンダルですよね。怪我を隠して、自分は関係ないふりをするかもしれない」

「まさか、被害者は警察関係者だと? 確かに、濃紺の制服を着た者もいるけど……」

「私もそう考えたのですが、違いました。警察官というのは、不審者を取り押さえるために特殊な訓練を受けてますよね。たとえ相手がナイフを持っていても、やられっぱなしにはならないでしょう」

「ですね。警察関係者ではないのなら、被害者は一体誰なんです?」


 探偵は、視線を遠くへ向けた。公園の高い柵の向こうに、バス停がある。警察の取り調べから解放されたらしい人々が、行列を作っていた。

「我々のような一般人は大変ですね。炎天下でバスを待たなければならない。……さあ、急ぎましょう」



   さて、探偵は気づいているようです。被害者の正体は? そして、どこに隠れているのでしょう?



 探偵は歩きながら語る。しかし、急ぐ気持ちのあまり、少しずつ足早になる。

「被害者はスキャンダルを恐れていた。それから、隠れる場所を持っているので見つからなかった。もうひとつ。この暑いなか濃紺のスーツを着る理由があったのでは?

これらを考えると、答えがわかります。

 被害者はおそらく、高い地位にいる人です。だからスキャンダルは厳禁なのでしょう。高い地位にいるから、移動のときは専用の車を使う。車は身を隠すのに好適です。そして、ステージ上で挨拶したため、礼儀として濃紺のスーツを着ていた。つまり、被害者はあの人です」

 探偵は、駐車場に辿り着いた。大型の高級車に近づく。黒い窓ガラスのため車内は見えなかったが、探偵はためらいなく窓ガラスをコンコンと軽くノックした。

「あなたですよね。お話を聴かせていただけますか。市長さん」

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