第一章 肉じゃが定食⑧
*
目指していた乙仲通りは、イケメン様の指示に従うと、あっけないほど簡単に
お目当ての品をあれこれと買い込んだ私は、今度こそ迷うことなく帰路についた。
なお、一人暮らしを始めたばかりの学生マンションは、阪急沿線にあり、中心地の三宮からさほど離れていないところを選んである。
うん。……なかなか充実した一日だったんじゃないかな。
ちょっとトラブルには見舞われたけれど、帰りがけはスムーズだったし。たなぼたでおいしいご飯を食べられて、面白い話も聞けたし。
「……あれ ? 」
心地よい疲労感に包まれながら、オートロックの共同玄関の前で鍵をとりだしたところで、眉根が寄る。
「きみ、ついてきちゃったの ? 」
にぃ、と小さい声で鳴いて返事をしたのは、南京町で出会ったあの黒い子猫である。
うーん……いったいどうやって来たんだろう。あまり長くない距離とはいえ、電車にも乗ったのに。まさかこんなところまで……。
「どうしよう。お母さん猫は近くにいないのかな……。ちょっと待っててね」
ここはペット禁止ではないけれど、これまで猫を飼った経験はないし、まだ生活に慣れていないうちから生き物を養えるとも思えない。かといって、こんな片手だけで抱っこできそうな小さい猫を放っておくこともできないわけで。
私はすぐ下のコンビニまで走ると、猫用のおやつや缶詰入りのえさなどをこまごま買ってきた。戻ったらいなくなっている可能性もあったが、黒猫はちゃんとお行儀よく玄関の前で待ってくれていた。金色の目がじっとこちらを見つめている。
首輪こそしていないけれど、毛並みがとてもきれいで、ほとんど汚れてもいない。とすると、南京町に住む誰かの飼い猫なのでは。今頃、飼い主さんが心配しているかも。
「おいで」
私はドアを開け、家の中に黒猫を招き入れた。「にゃあ」と小さく鳴き、猫は迷いなく内側に滑りこんでくる。ドアをくぐる時、長い尻尾がゆらゆら揺れた。足音や気配がぜんぜんしなくて、さすが猫だなあ、と月並みな感想を抱く。
紙皿に買ったばかりのえさを移し、食べてもらっているあいだに、解体したままゴミの日を待っていた引っ越しの段ボールをひとつ手早く組み直し、タオルを敷いて簡単な猫用ベッドをつくってみた。
お食事を終えたお猫さまに「入ってみる ? 」とベッドを示すと、できあがったそばからさっそく中に入って丸まっている。気に入ってくれたようだ。実にかわいい。
とりあえずひと晩だけお世話して、明日になったら南京町まで連れて行ってあげよう。飼い主さんの家がすぐ見つからないようなら、しばらく預かってもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、私は買ってきた荷物を片付けてしまい、部屋着に着替える。
「ふあ……」
あくびが出た。
本当は晩ごはんを何かお
シャワーだけさっと浴びると、私は布団もかぶらずベッドに横になった。
「なぁん」
なぁご、と。
耳もとで、猫の鳴き声がする。
だめだよ、こっちに来たら。きみのベッドはそっち……。
それきり、私の意識はまどろみに沈んだ。
*
……ああ。
またあの夢かあ。
おぼろげに
いつからだろう。繰り返し、不思議な夢を見るようになったのは。
ずるずると裾を引きずるような時代錯誤な服を着た私は、月明かりの差す赤い格子窓にもたれている。
そして決まって、私のそばに、ひどくきれいな男の人が立っていた。
「
穏やかに声をかけられて顔を上げ、私は彼を見つめ返す。
肩の上で結わえた、しろがね色に輝く長い髪。同じく古めかしい白の衣装。
夜空に浮かぶ月と同じ、さえざえと冷たい色を持つひと。
「いけません」
「え」
「二度といらっしゃらないで。幾千と来たところで同じこと。その都度、幾万もお断りするだけですもの……」
口ではすげなくバッサリと振りつつ、「実際にはイケメンに告白なんてされたことないくせに、我ながら
声には出さない。というか、自分の意志で声が出せない。これも、いつものことだ。
そして。
――なんで、こんなに彼に冷たいんだろう、と。
夢の中の自分に首を
だって〝私〞は、このひとが、大嫌い。
惹 ひ かれるなんて許されない。嫌いでいなくちゃいけない。決して、許してはいけないひとだから……。
でも、それってどういうこと ?
せつせつと訴えては、胸をざわめかせる感情の群れ。知らないはずの記憶に、私がますます疑問を覚えた時だ。
(う、……っ !? )
まるで、それ以上深く考えるなと
ずくん。なんの前触れもなく、腹部を刺されるような痛みが襲ってきて、私は驚いた。
おかしい。
夢でしょう。夢なのに。なんでこんなに痛いんだろう。
急速に視界が濁る。
けれど、夢の中での〝自分〞は、声もあげずに平然と背筋を伸ばして
こちらを見つめ返す彼の顔なんて、もう認識できないけれど。
なぜか、どこかで会ったことがある気がした。
*
「……っぷはあ ! 」
気づけば私は、自宅のベッドの上で、ばねつき人形みたいに跳ね起きていた。
呼吸も心拍もフルマラソンを走った後みたいに暴れ狂っていて、気管がぎしぎし痛む。
「うう……なんなのもう……」
誰も聞いていないのに、不安なあまりわざわざ音に出す。
窓の外は明るい。枕元のスマホを確認すると、午前の十一時を回ったところだった。ずいぶん寝坊したものだ。
いやな夢、見たなあ。あれ ?
……でも。
「まただ。何の夢……だっけ ? 」
なぜかよく同じ夢を見るんだけど、起きると必ず、内容が頭から飛んでしまっている。
妙なことに、漠然と「あの夢だった」ということだけ、はっきり覚えているのだ。
それも、かれこれ五年ほど。
受難体質の一環だと決めつけてあまり重くは考えてこなかったけれど、いい加減、夢占いとか深層意識分析とか、ちゃんとやってみたほうがいいのかもしれない。けど、肝心の中身があやふやじゃなあ……。
などと詮ないことを考えつつ、どうにか呼吸だけ整えたところで。
ふと、眠りに落ちる前にベッドにもぐりこんできていた子猫のことを思い出した。自分の寝相はそんなに悪い方ではないはずだけれど、なにせ、あんな悪夢にうなされた後だ。激しい寝がえりの末に、潰していたらどうしよう。
「おーい……猫ちゃん、いる ? 」
しかし布団をめくってみても、黒猫の姿はどこにもない。段ボールベッドの中も同様だ。
たちまち完全覚醒した私は、真っ青になった。
「どこ行ったの !? 」
ベッドやイス、ローテーブルの下。キッチンやクローゼット。カーテンの裏や窓ガラス越しのベランダまでくまなく探したが、やっぱり見当たらず。
果ては、ドアを閉ざしていたはずのユニットバスに入り、トイレの便器まで
「なんで…… ? 」
何かあったらどうしよう。あんな小さい子なのに。
それに加えて、起きてからずっと、お腹がすごく痛む……。なんなんだろ、これ。
あらゆる理由に追いつめられ、半泣きになりながらユニットバスを去ろうとした瞬間、私は、洗面台上の鏡に映る自分の姿に目を留めた。
相変わらずの十人並みなタヌキ顔だけど、今は
「……は !? 」
私は鏡に駆け寄り、両手をついて己の姿を凝視した。
え ? え ? ちょっと待って。見間違い ? むしろまだ夢の中なの ?
寝ぼけているのかと思い、目をつぶってゴシゴシと両手でこする。
改めて、おそるおそる瞼を上げ、さらには鏡面に顔を近づけてまじまじと凝視。
頰もつねる。痛い。
うん、現実決定。
「な、……なにこれぇ !? 」
――そこに映っているものが、どう見ても勘違いでも夢でも幻覚でもないと判明するや否や、私は悲鳴を上げていた。
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