第一章 肉じゃが定食⑤
*
長く記憶を遡ってみても、現状をどうにかできるヒントはありそうもなかった。お手上げである。
仕方がないので固まったままでいると、不意に、ふっと彼が身を離した。よかった、解放されるのだろうか……と安心したのも
呆然とはこのことだ。声も出せずにいると、いくぶんか不機嫌な色のついたテノールが 素っ気ない指示をくれる。
「とりあえず、これ飲んで」
「……なんですかそれ」
「
敬語は敬語だが、さっきよりもどことなくぞんざいな調子でそう言うと、彼はテーブルに湯気の立つ白いカップを置いてくれた。……キキョに偏るってなんぞ。
「
私の疑問を先読みしたように彼が教えてくれるが、感想が「はあ」しか出てこない。生 命エネルギー……でございますかぁ。なんだか怪しさが増したぞ。
「あ、ありがとうございます……え、あの、でも、だから私、薬膳料理は苦手で」
「貴女、薬膳のこと何も知らないでしょう ? 」
「う」
なおも敬遠しようとする私に、彼は目を細めて唇の端を上げた。
なんだろう。
きれいなのに、彼の持つ見慣れない色彩もあいまって、どこか人間離れした、ゾッとするような笑みだった。
とはいえ薬膳なるものについて、知りもしないのにデタラメを口走ったのは事実だ。
図星を指されて縮こまる私に軽くため息をつくと、彼は「知っていれば、さっきみたいな台詞は出ないでしょうし」と肩をすくめた。私は
「さっきみたいな台詞 ? 」
「そもそも、薬膳の膳は料理という意味。薬膳料理、では重言ですから。あとは、薬っぽいし草っぽいし苦いしグロいし臭いし、ゲテモノ多い ? 変な漢方薬がたくさん入っている ? でしたっけ ? 」
「えー……あ、はい……」
言ったわ。ほんとごめんなさい。
ますます萎縮する私に、彼はさらりと続けた。
「まあそこまではいいんですけどね」
「いいの !? 」
思わず素で突っ込むが、「ええ、一度実物を見れば解ける誤解なんて、たいしたものじゃないんで」と、彼はにべもない。
「それよりも僕が許し
「そこ !? 」
むしろ、その一点だけは間違いじゃないと思っていた。
状況も忘れてあっけにとられる私の前で、彼は長いひとさし指をすいっと立てる。
「いいですか。薬膳っていうのは、ですね」
そもそもは、――病を未然に防ぎ、健康を保つための食事法の総称。
「だから別に、中華料理とは限らないんですよ」
その言葉に、私は思わず問い返した。
「え。……そ、そうなの ? 」
「あと、字面に薬と入っていますが、別にヘビを煎じたスープやら、得体のしれない生薬の浮いた
「はあ……」
なぜ私は、いきなり会ったばかりのド級イケメンお兄さんに、薬膳料理……じゃなくて、薬膳、だけでいいんだっけ…… ? の講釈を受けているのだろうか。
ぼけっと話を聞く私に、彼はもうひとつ付け足した。
「その証拠にここ、別に中華料理屋じゃないですし」
「ええっ、違うの !? 」
白澤薬膳房、って書いてあるから、てっきり中華のゴハン屋さんかと思っていた。
中華街にあるし。
「まあ、薬膳の茶菓や食事を出すカフェを兼ねた
「和食……」
にわかに信じがたい。
なぜに中華街で、あえての和食。
そして正直に言わせてもらうと、この店、和っぽい要素はゼロである。店の外観も派手だし。頑張ってそれらしいものを探すとしたら、表にある墨書きの木製看板と、藍染めののれんくらい ? ひのきの一枚板のテーブルセットも、まあらしいっちゃらしいけれど。
なにせコンクリ打ちっぱなしに白塗りオンリーの店内だし。目の前にいる店主っぽい人、中国人どころか外見の国籍が不明すぎるし。
私の
完全に勢いに
今のうちに逃げるべき ? と迷いもしたが、ふと肩にかかっているブランケットに気づいて思い直す。私のものじゃないので、彼の仕業でしかないわけだけど……。
彼を見た瞬間に覚えた謎の恐怖というか、生存本能的な忌避感は、相変わらずジャコジャコとロックに警鐘を鳴らしていたが。
受難体質なんて長らくやっていると、
悩むことしばし。生存本能は信条に負けた。
言われたとおり、私はカップに口をつける。おなかにじんわり
包丁がまな板をリズミカルに
……あ。これは。
お
炊飯器を開けたのだろうか、ふわんと炊きたてごはんのにおいもする。 日本人のDNAに組み込まれたといっても過言ではない、安心感のあるそのラインナップに、私はほっと肩の力を抜いた。
「お待たせしました。どうぞ小娘さん」
かたん、とテーブルに置かれたお盆の上の料理を見て、私は思わず目を丸くした。
「……え ? 」
「何か ? 」
お盆を指さして顔全体で
っていうか料理にビックリして聞き流したけど、今、さりげなく「コムスメ」呼ばわり されなかった ? いや、そんなことより。
「だ、だって今までの話の流れだと、薬膳 ? を作って出してくる感じじゃなかった ? 」
「ですから、これが薬膳」
「うそっ !? 」
私は叫んだ。
「これ……普通に、ただの肉じゃがだもの ! 」
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