第86話 失いたくないもの
「動くな」
ぞっとさせる声色だった。静かだが、どことなく無機質で感情のない声。なにをしでかすかわからないその声が、氷水のように背筋を差した。
突然捕らえられ、驚きと同時に恐怖を感じたのは間違いない。だけどアレクが恐怖を感じたのは、それ以上に別のところにあった。
アレクは今までも何度かこういった経験をしたことがある。そのときは、ああ…またかと、諦めと呆れが入り交じった乾いた感情しか生まれなかった。
以前はそれでも良かった。そうして流されるままに生きて、どこかで朽ち果てるのが運命だと諦めていたから。
でもいまは恐怖と混乱に陥りながら様々なことを思う。
まさかまた闇商人に見つかってしまたのだろうか。
またどこかに売られるのだろうか。
そうしたらマーリナスはどうなるの?
ロナルドは? ケルトは?
もう、会えなくなってしまうの……?
アレクを取り囲む人々のことがあたまを駆けめぐる。喧嘩したり泣いたり笑ったり、それでもかけがえのない幸福な日常。みんなの笑顔が優しい声が、フラッシュバックする。
考えるほどに寂しさや悲しみが入り交じり、嫌だ嫌だと心が泣く。呪いを身に宿し穢れた人生を送ってきた自分がこんなことを思うのは我が儘かもしれない。
だけど、どんなに無様でどんなに醜い生き様でも、いまは戻りたい場所がある。一緒にいたいひとたちがいる。そのひとのために、やらなければならないことがある。
マーリナスが無事に生きていけるように、早く笑顔を取り戻せるように。
恐怖と共にアレクの胸を締めつけたのは、そんな想いだった。
だからいまここで諦めるわけにはいかない。
己を奮い立たせて、アレクは固く目をつぶると口を押さえつけている手に目一杯歯を立てた。
「痛っ……!」
一瞬ひるんだ男の腕から急いですり抜ける。だが男は逃がすまいとアレクの腕に手を伸ばし、体ごと壁に押しつけた。
闇の中で自分をにらむ男と怯えるアレクの目が交差する。闇の中にあっても紫水晶のごときアレクの瞳は変わらない。
だがアレクをにらむ瞳もまた、紫色の光を帯びてギラギラと輝いた――
それに気がついたアレクは言葉を失う。
それはバレリアの呪力を受けた者しか発することのない瞳の輝き。美しさではなくたがの外れた欲望に忠実な、ただただ禍々しいそんな色を持つ瞳だ。
「だ……れ」
「俺を忘れたか、アレク」
深い闇の中で唇が動く。闇に溶け込んで顔はみえない。けれどその声がアレクの脳裏をつついた。どこかで聞いた声。僕はこのひとを知っている。そんな理由のない確信がアレクの胸をざわつかせた。
そのとき、鼻先で突風が凪いだ。
反射的に後方に飛び退いた男とアレクの間に影が割って入る。
目の前に現れたシルエット。頬をかすめた風に揺れる髪。細かなところは闇に溶けてハッキリとみることは叶わない。それでもアレクにはわかった。
背中越しに伝わる彼の柔らかな雰囲気が、もう大丈夫だとそう語る。
「ロナルド!」
「遅くなって悪かったね。無事かい、アレク」
思った通りの声が返ってきて、アレクの目に思わず涙が浮かんだ。いつもと変わらず、優しくて安堵感を与える声。
ロナルドが無事だったことに安堵した。それもある。でも涙が目に滲むのはロナルドが傍にいてくれることが何よりも心強く、張り詰めていた緊張感がぷつりと途切れてしまったからだ。
同時に、いつの間にロナルドの存在がこれほど大きくなっていたのかと驚く自分がいた。
「何者だ」
闇の中で対峙する男に投げかけたロナルドの声はアレクの身を案じたものとはかけ離れ、氷のような冷たさを纏う。大きく安堵の息をついたアレクはハッとして再び気を引き締めた。
「おまえは……」
太陽から遮断された地下街の暗い路地裏。互いの顔など至近距離でなければ見てとれない。それでもロナルドと対峙した正体不明の影には、ハッキリとロナルドの顔を認識することができた。
影がこぼしたのは疑問ではない。
そう、これは怒り。認識できてしまったからこそ、湧き上がる憎悪が昂ぶりすぎて言葉に詰まってしまっただけだ。
すぐそこの大通りでひとの波に煽られた篝火が大きく揺れて、つかの間ロナルドの頬を照らしだした。
その瞬間。影が目の色を変えて刃物を抜きだしロナルドに飛びかかった。硬質な金属音と共に闇の中に火花が散る。
「アレク!」
ロナルドはかろうじて一撃を受け流し、アレクの手を握ると大通りに向かって駆けだした。闇の中では分が悪い。まだいくらか明かりのある大通りの方が安全だ。
男は瞳の中で揺れる紫色の光に憎悪を乗せて追いかける。いまや男の目にはロナルドの姿しか映っていなかった。目は血走り、飢えた獣のようによだれを垂らしながら腹底から声を吐き出す。
「殺す!!」
背後から牙を剥いて飛びかかる影を振り返り、ロナルドはアレクを突き飛ばした。
同時に顔の数センチ手前に迫った刃先をなんとか警棒で受け止める。
だが突進してきた男の勢いを完全に殺すことはできず背中から地面に押し倒された。
刃先が警棒を滑り頬をかすめながら地面に突き刺さる。影は倒れたロナルドの上に跨がり、どしりと体重をかけて身動きを封じると俊敏な動きで再び刃物を振り上げた。
そのとき、男の狂気に満ちた顔が篝火に照らされて浮かび上がる。
放り出されて身を起こしたアレクと男を見上げるロナルドの目が同時に大きく見開かれた。
鳶色の短髪に左頬に走る大きな傷痕。刃物を握りしめた両腕に刻まれた二匹の蛇。
何度も目にしたこの特徴を、この男を、ふたりが忘れるはずがなかった。
「「ベイン……!」」
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